4. 山田太郎

 その「山田太郎」と名乗った若い女性は、僕の向かい側に座って紅茶のお代わりを注文した。

 僕はカフェラテを注文する。


 改めて見ると、目の前の女性は腰のあたりまでまっすぐに伸びた黒髪と、深い緑色の瞳が印象的な美しい人だった。

 すらりとした細身の体と雪のような白い肌は、どことなく化粧品の広告モデルのような雰囲気さえ漂わせている。

 そして、決して大人っぽい雰囲気ではないが、クラスの女子にはない、柔らかく落ち着いた空気をまとっていた。

 おおよそ「山田太郎」とは結びつかない人物像だ。

 しかし、本人の淑やかさに比べると、その出で立ちは恐ろしいほどに地味だ。

 ほぼノーメイクと思われる顔には、ほそぶちで横長のオーバル型の眼鏡をかけ、アクセサリーの類は一切身につけていない。

 いや、それ自体は彼女の美しさを損なうものではないが、身につけている服は流行りとは無縁な白いブラウスに黒いロングのフレアスカート、そして黒いストッキングに黒い革靴と、それはまるで――。


「よく、昔のドラマに出てくる音楽の先生みたいだっていわれてます」

 僕の考えていたことを見透かしたように、「山田太郎」さんは微笑んだ。

「いえ、そんなことは……」

 僕はどぎまぎしながら頬を掻いた。

「山田太郎」さんが居住まいを正す。

「改めてはじめましてですね。私は『山田太郎』こと、貴崎汐里きさきしおりといいます」

 そう言って頭を下げた。

「あ、タク――、相田拓海です。」

 僕も慌てて頭を下げる。

 再び向きあうものの、僕は何から切り出していいものか頭の中がまとまらず、少しの間沈黙が続いた。


「えーと、山田さん――いや、貴崎さんは、あのサイトを一人で管理されてるんですか?」

 やっと口からでたのは、今はどうでもいいような内容だった。

「はい、そうです。――あ、私のことは、汐里でいいですよ」


 それは、逆にハードルが上がってるんですけど……。


「その……汐里、さんの日記を読んでると、すごく昔の特撮番組とか昭和のころの話が多かったので、「山田太郎」さんはてっきりオタクのおじさんなんだと、勝手に思ってました」


 汐里さんは、あー、と声をあげると、少し恥ずかしそうにうつむいた。

「それはですね、私の父が昔からそういうものが大好きな人だったんですけど、そのせいで私も小さい頃からビデオなどでずーっと見続けてまして――」

 紅茶を一口飲んで、小さくため息をつく。

「おかげで、同世代の人が見ていた番組とかはよく知らなくて、話が合わなかったりするんですよね」

「ああ、そういうことだったんですか……ちなみに、VHSというのは何なのですか?」

「ビデオテープの規格です。かつてはVHSとβ(ベータ)という2つの規格がしのぎを削った時代がありまして、最終的にはVHSが覇権を握ることになるのですが……ちなみに、βのことは……?」

「ちょっとよくわかりません……」


 再び話が止まってしまった。


「あっ、ごめんなさい。私のことは置いておいて、まずはタクさんのお話しを聞かせてください。昨日お願いしたものは?」

「はい、持ってきました」

 最後のメールで汐里さんから頼まれていたもの、それは僕の家や学校などを含む範囲をプリントした地図だった。


「それでは、始めましょうか」

 汐里さんは、バッグから何本かのカラーペンを取り出すと、ペン先を地図の上で待機させた。

「では、可能な限り、タクさんの目撃された日と場所を書き入れてみましょう」

「あ、はい。最初は9月2日、■■町のエオン。そして、次が9月5日、◆◆駅前。ええと、その次は――」


 こうして、僕と汐里さんは、知りうる限りの「僕」の目撃された場所を、地図上に日付とともに書き入れていった。


「――さて、これで全部でしょうか?」

「はい。今わかってる限りでは」

「では、まずは目撃された時のタクさんの行動を見てみると……友達とカラオケ、家でゲーム、学校の委員会活動……。んー、一貫性はないように思えます」

「そうですね。僕もそう思います」

「それでは、現れた場所はどうでしょう」

 汐里さんがメモの束を脇に寄せて、先ほど書き込んだ地図を真ん中に広げた。


「場所そのものには、やはり一貫性はないように思えます。ただ――」

 汐里さんは一度言葉を切って地図を見つめた。

 僕も、繰り返し日付を目で追っていく。


 ……あっ。


「近づいて、きてる……!?」


 日付の記された場所は、北に行ったかと思えば南に飛ぶ、といった感じで一見デタラメに動いているように見えるが、日付が進むたびに少しずつ学校や家といった僕の生活圏に近づいてきていた。

 それに気づくと、その動きはまるで包囲網を狭めてきているようにも思えて僕は背筋に冷たいものを感じた。


「汐里さんっ……こいつは、一体どういうことなんですか?」

 汐里さんは少し考え込むように首をかしげると、そうですね、と言って僕の前に指を三本立ててみせた。

「まずは身もフタもないほうからいきましょうか。1つめ。この街には、タクさんに瓜二つの人がいる――いわゆる他人のそら似です。ただし、その人物はクラスメートしか知り得ない内容の会話をしたという証言があるので、これはないと思います」


 汐里さんが指を一本閉じた。


「2つめ。クラスメート逹が口裏を合わせたイタズラ。ですが担任の先生からの証言もあること、そしてタクさん自身が目撃したことで、これも可能性としては低いでしょう」


 汐里さんが、二本目の指を閉じた。


「3つめ」

 汐里さんが、そっと僕を指差した。

「タクさんと同じ姿をした『何か』が、タクさんの周囲を徘徊しながら、少しずつタクさんに近づいてきている……」

「それが、ドッペルゲンガーですか?」

「あくまでも仮説になりますが」

 そう言うと、汐里さんはペンをテーブルに置いた。。

「ドッペルゲンガーというものの正体については、いろいろな説があるようです。自身の生き霊であるとか、魔物、悪魔の類であるとか。多くの場合はただ目撃するだけで、害が及ぶことはほとんどないようです。ですが、中にはドッペルゲンガーに会ってしまったことで命を落とした、と云われる事例もあるようです」

「そんな……」

「正直に言いますと、この現象がドッペルゲンガーだとして、今後どのように行動するのか、そして万が一タクさんと出会ってしまった場合に何が起こるのかは、私にはわかりません」

 汐里さんは、申し訳なさそうに小さく頭を下げた。

「ただ、念のためにもしこれから『それ』を見かけても絶対に近づかないようにしてください。会話をしたり、目を合わせてもいけません」


 汐里さんの真剣な眼差しに、僕はうなづくのがやっとだった。


「それにしても、いったい何でこんなことが起きるんでしょう……」

「一説には、何か強いストレスにさらされた時などに現れる場合もあると言われているようですが、今、何かお悩みでも?」

「……いえ、特に思い当たることは」

 汐里さんは、少し困ったように首を傾げた。

「そうですか……。何か原因と思われるものがあれば、少しは対策も考えられますが、災厄というのは、時に通り魔のように、理由も、目的もなく現れることもありますので……」


 何か、汐里さんの話を聞いていたら暗たんたる気分になってきた。

 もちろん、汐里さんには何の責任もない。

 しかしこれから先、いつ現れるともわからない正体不明のものに怯えながら暮らし続けなければならないのかと考えると、憂鬱としかいいようがなかった。


「……今の私ではあまりお力になれなくて申し訳ないのですけど、少しでもお役にたてればと思って、持参したものがあるんです」

 そう言うと、汐里さんは横に置いてあったバッグから何かを取り出した。

「これです」

 汐里さんが差しだしたのは、どこかの外国のコインにきれいに五角形の星形に糸を掛けたものだった。

「これは?」

「ええと、魔除けというか、おまじないとでもいいましょうか。裏も見てもらえますか?」

 汐里さんにいわれてコインの裏を見ると……ん? 何か変だ。

「それは、ダブルサイドコインといって、表と裏が同じが模様のコインなんです」

「ああ! なるほど、ホントだ」

「その五角形の星は五芒星といって、古来から魔除けなどに使われてきたものです。何か強く願うことや回避したいことに対して、それを象徴するものを使って印を付けるのは私なりのアレンジです。今回は表裏に同じ人物の図柄が描かれたコインを、タクさんの今の状況を表すものとして選んでみました」

「そうなんですか……でも、このコイン珍しいものじゃないんですか?」

「本当のエラーコインなら何十万円もするそうですけど、それは手品用に売っているものなので気になさらないでください」


 なぜだろう。

 気休めに過ぎないと言われればそれまでなのに、汐里さんからもらったコインを握っていると、微かな温もりが手の中に広がってくるような気がした。


「できれば、これに入れていつも身につけていただきたいのですが」

 そう言うと、汐里さんは白いバックスキンで作られた小さな革の袋を差し出した。

 袋は、やはり革で作られた輪のような紐でくくられている。

「あ、校則で禁じられていますか?」

「目立たないように付けていれば大丈夫だと思います」

 僕は、コインを革の袋にしまうと、左手の手首に紐をまわして結んだ。

「ありがとうございます。大切にします」


 それから間もなく、僕と汐里さんは喫茶「アスカ」を出て▽▽駅へ向かった。

 電車を待つホームで、汐里さんが一枚のメモを僕に差し出した。

「私、SNSは使ってないので、もし何か起きた時はそのアドレスにメールを頂けますか?」

 そのアドレスは、スマホ用のものと思われた。

 電話番号は……さすがに教えてくれないか。


 その時、電車の到着を告げるアナウンスが流れた。

「それじゃ、僕はこの電車に乗ります。今日は本当にありがとうございました」

「はい。私は反対の方向なので、これで失礼しますね」

 電車のドアが開き、乗り込んだ僕に背後から汐里さんの声がした。

「タクさん、本当に、本当に何かあった時は、遠慮しないで連絡してください」

「はいっ、ありがとうございます。そう言ってもらえると、とても心強いです」

 ドアが閉まり、電車がゆっくりと動きはじめた。

 遠ざかる汐里さんの姿を目で追いながら、僕は左手に付けたコインを握る手に力を込めていた。



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