第45話 唯菜・中

 篠原が住んでいる彼の実家は、兵庫県の宝塚たからづかという男装歌劇団で有名な宝塚線の、梅田と正反対の駅だ。兵庫県は神戸が有名になりがちだが、宝塚も有名な観光地で高級住宅街だ。篠原が17歳の頃には閉園してしまったが、遊園地兼動物園だった『宝塚ファミリーランド』という家庭的な施設があった。そこでは当時、珍しいホワイトタイガーが飼育されていた。小さい頃は、兄と共によく遊びに来ていた。歌劇は母が好きでよく通っていたし、その間兄弟は父と手塚治虫記念館を訪れていた。

 宝塚は今津線の沿線が山手と呼ばれ高級住宅地エリアと表現される閑静な街並みで、芦屋にも並ぶ関西人が憧れる土地だ。篠原の家は残念ながら、宝塚線に近い田畑が多い住宅地だ。父方の祖父は『三大植木産地』の一つと呼ばれるここで、はさみが持てなくなるまで植木職人をしていた。

 唯菜が通うのは、家から近い宝塚市立東小学校だ。随分久しぶりに乗る阪急線で駅に着くと、歌劇を代表する曲が流れていた。櫻子は舞台を見た事ないが、この舞台に立つための学校がある事は知っている。この曲は、彼女たちの憧れの歌だ。

「さくらこちゃん」

 唯菜は、口数が少なく大人しい。元気で賑やかな子供に馴染み無い事で苦手な櫻子にとって、唯菜は付き合いやすい子供だった。

「ごめんなさい、唯菜悪い子で」

 我儘を言った自覚はあるようで、少し肩を落としている。ピンクのランドセルが大きく感じるほど、唯菜は小柄だった。

「いいのよ、私もお仕事少し休みたかったから助かったわ」

 ほんまに?と、唯菜は櫻子を見上げる。櫻子は笑顔で頷いた。

「今日は、おじちゃんに来て欲しくなかったの」

 唯菜の言葉に、櫻子は首を傾げた。


 住宅街にある学校に着くと、4時間目が始まる前の休み時間だった。母親と思われる女性達が校内に沢山見られる事に、櫻子は不思議そうに辺りを見渡す。そこに、担任だと名乗った越智おちという年配の女性が、慌てて唯菜に駆け寄ってきた。櫻子は警察手帳を見せ、唯菜の父親代わりの篠原大雅の上司で、彼の代わりに来た旨を伝えた。唯菜の家庭の事情を知っている越智は、安心したように大きくため息を零した。

「そろそろおうちに電話しようかと思ってたんです――そうか、今日の授業参観はおじさんじゃ嫌だったんやね」

 越智は、納得したように櫻子の頭を撫でた。唯菜は黙って頷いて、ランドセルを置きに教室の中に入っていく。

「今日は、今から授業参観なんですよ」

「え?篠原君は何も言ってませんでしたが?」

 越智の言葉に、櫻子は驚いたように呟いて、母親の姿が多い訳がようやく分かった。

「性教育の授業やから…恥ずかしかったんじゃないでしょうか?」

 その言葉に、櫻子はふと自分の子供の頃を思い出した。授業参観、性教育…確かに、もう彼女は5年生だ。血が繋がっていても、恥ずかしさを感じる年頃なのだろう。

「私が、代わりに参観させて頂きます。ご迷惑をおかけしました」

 櫻子が頭を下げると、越智は気にしないように言って授業の用意を始める為に彼女から離れた。櫻子はスマホを取り出すと、篠原にメールを送った。


「あの子って、篠原君のお兄さんの子供なんだ」

 紅茶は、スリランカのヌワラエリヤという種類だった。ストレートを楽しむなら、これが一番茶葉を楽しめる――と、笹部に教えて貰った。

「はい、兄と兄の嫁さんは亡くなってしまったので、俺が実家で親と育ててます」

「『宝塚無差別通り魔事件』」

 笹部の言葉に、まだ温かい紅茶が入ったカップを強く握り締めてしまった。妙な汗も背中を伝う。

「2016年だから…唯菜ちゃんが6歳くらいなのかな?森田もりたゆずる受刑囚が起こした事件の、少ない生き残りだっけ。「宝塚に住んでる金持ちの人間が憎い」ってつまらない理由で、柳葉包丁と文化包丁3本で駅前にいた人たちに切りかかって起こした事件――あれって、死刑判決が最高裁で棄却されて無期懲役になったんだよね」

 笹部の目元は髪に隠れていて、表情が読めない。篠原はゆっくり頷いて、紅茶を一口飲んだ。その篠原のスマホに、メール着信の音がやけに静かな部屋に響いた。

 恐る恐るそれを取り出した篠原は、メールの文面に瞳を丸くした。


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