第46話 唯菜・下

 4時間目は道徳の時間は性教育との事だったが、櫻子は男子と女子が一緒にそれを受ける光景に、自身の頃を思い出して懐かしさを感じた。死んだ母の代わりに参観に来た叔母は、「叔母さんが子供の頃は、女の子と男の子は別に教わったで?」と驚いた言葉を言っていたのだ。育ててくれた叔父夫婦には、子供がいなかった。だから、喜んで櫻子を引き取ってくれたのだ。その点では、櫻子は恵まれていた。

 男の体の仕組み、女の体の仕組み。精通や生理、卵子が受精すると赤ちゃんが出来る。そんな話から、男子も女子も胎児と羊水の重さの袋をお腹に巻き付けて、実際の感覚で知る妊婦の体験。櫻子はまだ子供を身ごもった経験がないので、周りにいる主婦たちの「あの時、大変やったわー」「ほんま、お腹邪魔やったわ」などの小さな言葉に、共感できなかった。それから、順に首が座っていく赤ちゃんの人形が並ぶ。最初の首がぐらぐらする人形に、子供たちは小さな悲鳴を上げた。

 そんな中女の子たちは、もっぱら生理の話をひそひそと話していた。もう早い子は始まっているのかもしれない。子供は、女の子の方が成長が早い。唯菜はまだの様だが、始まった時篠原に言えそうにない彼女の事が、少し心配になった。櫻子は小学校6年生の秋に始まり、叔母にこっそり話をした。その晩ケーキが出されて、叔父の顔を見るのがとても恥ずかしかったのを思い出す。

 それから、話は自分の名前の由来になる。「お母さんとお父さんは、君たちに色んな意味を込めて名前を付けたんやで」と越智が話すと、子供たちは後ろを振り返ってチラチラ母親を見る。唯菜は、うつむいてしまっていた。

「じゃあ、お母さんたちに聞いてみましょう。お名前の由来を教えてくださいませんか?」

 母親たちが、ざわざわと周りを見渡して手を上げようかと迷っていた。そんな中、櫻子が手を上げた。

「あら…篠原さん、唯菜ちゃんのお名前の由来を教えてくださいますか?」

 意外そうな越智の言葉に、唯菜がびっくりしたような顔で振り返って櫻子を見つめた。他の子達も母親たちも櫻子に視線を向け、若く美しい彼女に一瞬ほうけてしまう。

「唯菜の「唯」は、他の誰でもない唯菜というたった一人の大切な子供という意味です。唯菜の「菜」は、純粋で可愛らしく育って欲しい。そう思いを込めて名付けました」

 櫻子は、はっきりそう言ってにっこり微笑んだ。多分名前に由来の話が出るだろうと、篠原にメールをして聞いておいたのだ。越智は櫻子の言葉に、穏やかな笑顔になって拍手をする。それにつられて、他の母親も櫻子に拍手をした。

 唯菜を見れば、大きな瞳に涙を滲ませて嬉しそうに櫻子に笑いかけた。櫻子はそんな少女に小さく手を振った。「お前のかーちゃん、すげぇ美人だな!」と、唯菜の隣の少年が思いの外大きな声で、唯菜に話しかけた。他の少年や少女も羨ましそうに頷いている。

「こら、隆太君!――じゃあ、次は隆太君のお母さん」

 越智が少年に声をかけてから、後ろの母親たちに向けて声をかける。そうして、賑やかに暫く我が子自慢の時間が続いた。


「さくらこちゃん、今日はありがとう」

 授業参観が終わり、唯菜は直ぐに櫻子に駆け寄ってきた。嬉しそうに、にこにこと笑っていた。櫻子は小さく微笑み、唯菜の頭を撫でた。

「いいのよ。何かあれば、遠慮しないでお話してね――それと、さっきお話に出た「生理」が始まったら、私かおばあちゃんに話すのよ?」

 その言葉に、唯菜は赤くなって小さく頷く。やはり、篠原に話すのは恥ずかしい様だった。櫻子は名刺を取り出すと、裏に携帯の番号を書く。そして、それを唯菜に渡す。

「これ、私のスマホの番号よ。何時でも電話してくれたらいいからね?」

 櫻子の名刺を受け取った唯菜は、大事そうにそれを抱き締めて頷いた。

「じゃあ、唯菜給食当番だから行ってくるね。さくらこちゃん、お仕事がんばってね」

 唯菜は手を振って自分に席に戻り、給食当番用の白衣を取り出し始めた。

「あの――篠原さん」

 ふと声をかけられたが、櫻子は一瞬自分の事だと分からずきょとんとしてしまった。

「篠原さん?」

 不思議そうに声をかけてきた他の母親たちが、そんな櫻子に再び声をかけた。そこでようやく櫻子は自分の事だと気が付いて、「はい!」と返答した。

「私たち、これからランチに行く予定なんです。よろしければご一緒しませんか?」

 所謂ママ友付き合いだろう。櫻子は、頭を下げた。

「申し訳ありません、私仕事を抜けて来ているので戻らないといけないんです。また、今度よろしくお願いします」

 櫻子の見た目は、誰が見ても仕事が出来るキャリアウーマン姿だ。母親たちは、「急に声をかけたので、気にしないでくださいね」と、了承してくれた。


 小学校の校門まで来ると、篠原が門に背を預けるようにして立っていた。

「篠原君」

 櫻子の言葉に、篠原は慌てて背を正して敬礼した。交番勤務の癖だろう。

「すみません、まさか授業参観だったとは知らず…一条課長にご迷惑をおかけしました!」

「いいのよ、――勉強になったわ」

 くすりと笑って、櫻子は歩き出す。その後ろ姿を、篠原は慌てて追いかけた。

「指輪の事、何か分かったの?」

「いえ、残念ながら。羽場の仕事先かフロントのアルバイトの所に行くのかと思い、迎えに来ました」

 歩きながら、二人は仕事の話に戻った――いつか先、自分の子供の「参観日」を見に来る事があるのだろうかと櫻子は考えたが、馬鹿らしいと苦々しく笑った。自分には、やらなければならない事があるのだ。人生をかけた、サイコパスである桐生との戦いが。

「じゃあ、まず――ランチに行きましょ」

「はい!」

 櫻子と篠原は、梅田へ戻る為に宝塚駅へと向かった。

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