文車妖妃(ふぐるまようひ)の涙

第37話 プロローグ

 先ほどまで賑やかだった居間は、今は電気も消えて静まり返っている。もう、夜も深い。三日月が雲に隠れて、朧な光が道路を照らしていた。家人は、みんな眠りについた様だ。外からその家をずっと見ていたが、春先でも山に近いここは夜にずっと立ち尽くしていると体が僅かに冷えた。若夫婦の暗くなった部屋に視線を移してからその視線を腕時計に落として、諦める様にゆっくり歩き出した。家の近くに停めていた駐車場に入り、車に乗り込んで家に戻る事にした。


 感情的が先走ったのかアクセルを踏む足に力がこもり、道が空いていたこともあり思いの外早く家に辿り着いた。鍵を開けてそのまま自分の部屋に戻ると、本棚の本の後ろに隠すようにしまい込んでいた手紙の束を取り出した。

 外で燃やすと誰かに通報されると思い、台所のシンクにそれらを無造作に投げ込んだ。カンカンと金属のシンクに当たった音が、暗い部屋に小さく響いた。

 燃えやすいように、台所にあった植物油をその手紙たちにかける。その手紙の幾つかもう日に焼けていて茶色くなっているものもあり、幼い女性が書いたような可愛らしい文字が所々に見える。可愛らしい便箋に、溢れるのは明るい言葉と文字。


「さようなら」


 そう呟くと、マッチを擦り手紙が置かれたシンクに投げ込んだ。すぐに、大きな火が上がった。火は乾いた紙を燃やし尽くすのに、そう時間をかけなかった。燃えて黒い炭になり、はらはらと灰へと変わっていく。

 何年も送られた手紙。何年も大事にしまっていた手紙。それが、一瞬でもうこの世から消えてしまった――そう、自分の想いと共に。

 思い出すのは、あの眩しい時間。笑いかけて来る少女と、秘かな時間。キラキラと輝き、思い出すだけで切なさに嗚咽が零れそうだった。


 だが、もう少女は大人になり自分の手の届かない所へと駆けていった。裏切られたのだ、自分は。こんなにも胸を締め付けるほど想っていたのは、自分だけだったのだ。ささやかな秘密の時間は、彼女にとってはただのお遊びだったのだ。


 そうして、スマホを取り出した。連絡を取り出さなければならない。先日聞いたあの話し――それが、こんな時に役に立つとは。



 そうして、男が一人死んだ。

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