第38話 死因・上
「おはよう」
五月ももう半ばを過ぎた。スプリングコートを身に付けなくなった櫻子は、相変わらず黒いスーツ姿だが明るい色の春のショールを手にしていた。青味がかかった口紅の下の噛み跡は、もうすっかり塞がった。いつも男の視線を受ける、変わらず美しい櫻子だ。
その櫻子が曽根崎警察の『特別心理犯罪課』のドアを開けると、掃除を軽くして換気していた篠原が爽やかな笑顔を向けた。
「おはようございます、一条課長」
相変わらず犬の様だ、と櫻子は小さく笑った。人懐っこくて従順。篠原が櫻子を裏切る事はないだろう。櫻子が出勤してくると、彼は珈琲豆をミルで砕き始める。この部屋に班員以外を入れたがらない櫻子の方針で、掃除やお茶は篠原が担当するのが自然と決まっていた。櫻子は、出勤してきた時と休憩する時は珈琲を好むので、篠原は彼女が来てから熱心に珈琲を淹れる練習をしていた。何故なのかというと、珈琲やお茶など、彼女は無意識に点数で味を評価するからだ。
「おはようございます」
大体櫻子の出勤から5分遅れぐらいで、笹部が部屋に入ってくる。眠そうに、ぼんやりとひっそりと。彼は存在感が薄いので、櫻子や篠原は慣れたが大半は彼が居る事に気付くのが遅い。だが本人は気にもしないし、存在感が薄くとも彼のネット捜査は誰もが認める腕前だ。ただ、変わらず長い前髪に、篠原は前が見えなくて転ばないかといつも心配していた。
「ヤスさんが、一条課長にお礼ってお菓子を貰いました」
「そう。気にしなくていいのに」
前回一条班が関わった連続殺人事件で、犯人に近すぎた道頓堀交番の安井巡査部長。篠原は心配で、彼に会いに行っていたのだ。
彼は一週間の謹慎と厳重注意で、再び道頓堀交番に帰ってきた。出て行ったはずの妻も、人伝に聞いたのか彼を心配して戻ってきたと聞く。塞ぎ込んでいた彼を救ったのは、確かに櫻子が与えられた『権力』だ。刑事局長に頼んで、彼の罪は全て不問にした。ただ、それだけではよく思わないものもいるだろうから、一応謹慎と注意というごく軽いが処罰を与えられたのだ。
篠原が淹れた珈琲の香りが、部屋の中を漂った。篠原は3人分珈琲を淹れて、安井から貰ったお菓子の袋を開けた。お洒落な紙袋から現れたのは、茶色い焼き菓子。その名を知らぬ篠原は、お菓子の袋を手に櫻子の許にそれを持って行く。
「あら、カヌレね。随分おしゃれなお菓子を、安井さんが?」
仕事一筋の不器用そうな彼が、フランスの菓子を選ぶとは意外だった。
「多分、奥さんが選んだんじゃないでしょうか?ヤスさんの奥さん、ケーキとか甘いものが好きだったような気がします」
「朝から甘いものは、脳にいいですね」
笹部は置かれた菓子を、早速口にしていた。姪も喜ぶだろうか?と篠原は「カヌレ」と復唱して自分の席に戻った。
今回篠原が選んだのは、「ホンジュラス ロスプリモス」という商品名の豆だ。梅田の百貨店に入っている店で、昨日帰りに買ってきた。
「あら、甘い香りね――フルーツみたい」
櫻子の鼻は適格だ。この豆には、黄桃や杏やハチミツなどが含まれているのだ。一口飲んだ櫻子は、瞳を閉じて味を楽しむ。
「うん、美味しい。70点ね」
次第に上がってくる数字に、篠原は嬉しそうな顔になった。笑顔で篠原も珈琲を口にする。
「――ボス」
カヌレを食べながらパソコンで一通り情報を眺めていた笹部が口を挟んだ。櫻子と篠原が彼に視線を向ける。
「どうしたの?」
「少し、楽しそうな事件を見つけました――ラブホテルで、毒殺された男が見つかった様です」
「毒殺?」
櫻子の綺麗に書かれた眉が、僅かに上がった。
「そうね、興味ある事件ね。詳しく教えてくれる?」
こうして、特別心理犯罪課が関わる第2の事件が幕を開けた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます