第33話 対面・中

 ガラスの部屋の前に、青山管理官は椅子を2脚用意した。そんな彼に、篠原は感謝の意を表すように頭を下げた。櫻子は僅かに顎を引き会釈すると、置かれた椅子にゆっくりと仕草で腰を落とした。篠原も事情が分からぬまま、櫻子に倣って椅子に座った。

「後ろにいるのは、新しい君の番犬かな?まだ随分若そうだ――確か、元道頓堀交番の篠原君と言ったかな?」

 桐生と呼ばれた男は、笑顔のまま篠原にも視線を向けた。篠原は顔を見合わせると、途端自身の背筋に悪寒が走った。『怖い』と感じたのだ。笑みを絶やさない、ガラス越しのこの繊細そうな男に。

「目線を合わせてはいけない。彼を見る時は、シャツの襟の合わせ目辺りに視線を落とすんだ」

 慌てたような青山管理官の言葉に、篠原は凍り付く身体を動かして首を落として男から目を離した。身体が、僅かに震えた。

「相変わらず、私の情報はあなたに簡単に知られているのね」

 櫻子は、真っ直ぐに見ているが恐怖の表情はない。むしろ、好戦的に相手を見返していた。震える篠原は、櫻子とこの男の関係が分からない。

「マリーゴールドと赤いヒヤシンスを『榊光汰』の名前で送ってきたのは、あなたね?ここから、どうやって注文したの?」

 櫻子の問いに、篠原は驚いた。「サキが送ったものではない」と、確か彼女は口にしていた。そして、浮かない表情を浮かべていた――彼は、サキかユウの知り合いなのだろうか。しかしここは刑務所でも留置所でもないが、それ以上に厳重なセキュリティで護られているように、篠原でもそれが分かった。

「普通の人が送る、小さな幸福な生活――そんなものに嫉妬する愚かな子供だったね。君ならそう時間はかからずとも犯人に辿り着いただろうが、一刻でも早く僕に会いに来て欲しくてメッセージカードを送らせて貰ったよ」

 蒼馬の言葉に、青山管理官は驚いた表情を見せて櫻子に首を振った。それを許可した覚えがないという事だろう。ならば、彼の秘密の手口で行ったようだ。

「人間関係も分からない事件の、しかも犯行が起こった直ぐ後で犯人を知らせて来るなんて――さすが、IQが高いサイコパスだわ」

 確かあの鉢植えが届いたのは、エマが殺されて直ぐだ。まどかの話を聞きに行ってミナミに行って帰ってきた時には、櫻子のデスクに届けられていた。櫻子達が『サキの存在を知る前』に、蒼馬はもうサキが犯人だと櫻子に知らせていた――この厳重な、情報のない監獄から。篠原は、緊張を和らげようとごくりと唾液を嚥下した。目の前の優男はとても危険なのだと、篠原はようやく理解し始めていた。

「確か、顎に黒子はなかったかな?」

 蒼馬は、どうやって鉢植えを注文したのか、何故サキが犯人だと分かったのか、については興味がない様だった。にこにこと、櫻子について尋ねてくる。

「消したわ、大学の頃に。顔に黒子があるのは、好きじゃないの」

「そうかな?すみれさんの目元の黒子は、とても綺麗だったよ。笑うと、涙を浮かべているようで」

 ダン!っと、櫻子が椅子の肘置きを握り拳で殴った。篠原と青山管理官は驚いて身を竦めるが、音が届かない蒼馬は笑顔を浮かべたままだ。すらりとした足はブランドのヒールに、スリムでいて肉感的な身体はシックなスーツで身を包んだ、美しい櫻子。蒼馬は、怒っている櫻子の顔すら愛おしい、というような笑みで彼女を見つめている。

「――母と父の名前を貴方の口から聞くのが、こんなにも不愉快な事だと思わなかったわ」

幸也ゆきやさんの名前は、確かに僕も言いたくないな。菫さんを幸せに出来なかった男なんて」

 櫻子は蒼馬を睨み、青味がかかった口紅を引いた唇を強く噛み絞めた。あまりにも力がこもっていたようで、血がうっすらと滲んでいた。

「顔を見るのと、アナグラムの確認に来ただけだから、もう帰るわ」

「櫻子さん、君も血が似合うね。菫さんも、血がよく似合う人だったね」

 櫻子と蒼馬の会話はかみ合わない。しかし蒼馬は、櫻子に会えたことが嬉しいと、そう笑みを深めていた。そうして櫻子の唇に滲む血を、うっとりと眺めている。

「――待って、どういう事?」

 櫻子は、蒼馬の言葉に少し混乱した。母である菫は、蒼馬が捕まっていた時に車にねられて死んだはずだ。蒼馬がその場面を見ているはずがない。しかし蒼馬は、動揺している櫻子に向かって、人差し指を唇に当てた。

「昔話は、ゆっくりしよう。また会いに来てくれるね?櫻子さん」

「待って、どうして母の最期の姿を貴方が知ってるの!?」

「面会は終わりです。一条警視、もうお戻りください!」

 問いただそうと立ち上がった櫻子を、青山管理官が止めた。櫻子が握り締めている会話用のボタンも取り上げられた。

「一条課長、帰りましょう」

 心配した篠原は、青山管理官から櫻子を預かる様に支えた。櫻子は支えられるまま、エレベーターへ向かう。その時、蒼馬が通話ボタンを押した。


「菫さんは、こっちに来れなかったよ。でも、僕は君とまた会えるよ。『君ならこっちへ来れる』筈だから」


 夢で聞いたセリフだ。完全に同じセリフを全て聞いた。櫻子の体が、びくりと震えた。慌ててガラスの部屋へ向かおうとした櫻子を、篠原が抱き締めて止めた。

「一条課長!あなたらしくありません!」

「…分かったわ――帰りましょう。ごめんね、篠原君」

 足元が覚束おぼつかない櫻子を支えて車に乗せ、篠原は急ぐ気持ちを押さえて大阪へと車を走らせた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る