第34話 対面・下

 曽根崎警察に戻ると、櫻子は暫くデスクのソファに凭れるように座って瞳を閉じてそのままの態勢で動かなかった。

 17時になると、「今日はもう帰りましょう」と、櫻子はまだ報告書が出来上がっていないにもかかわらず部屋を閉めて、2人に帰るように言った。篠原は櫻子が心配でマンションまで送るといったが、櫻子は首を横に振った。


 櫻子は、ミナミに来ていた。今日は少し、人が多い所で飲みたい気分だった。難波駅から近い名古屋コーチンがメインの居酒屋を見つけると、店内に入る。櫻子は1人だったが、個室に通された。

 普段はワインを好んで飲んでいた櫻子だが、その日は珍しく日本酒にした。おつまみも何点か頼み、周りの賑やかな声を聞きながら酒を口に運んで、少し酔いが回った頃だった。

「やあ、櫻子さん」

 そこに現れたのは、『セシリア』のオーナーであり『桜海會』の若頭である香田雪之丞だった。ミナミで会うのは不思議ではないが、居酒屋での意外な人との対面に櫻子は一瞬唖然とした。

「香田さん…何故ここに?」

「櫻子さんに花束を持って行かせた若いのがいたやろ?池田です。あいつが、この店に1人で入るあんたを見かけたらしく、連絡してきたんですわ」

 香田は櫻子に断りもなく彼女の向かいの席に腰を落とすと、慌ててきた店員に日本酒の追加を頼んだ。

「だからって、どうして?」

「ま、綺麗な顔見て酒が飲めるんなら、そんな機会逃すんは野暮やろ?」

 運ばれてきたのは、久保田という銘柄の『萬寿』純米大吟醸だった。高い酒で、普段飲みするような酒ではない。日本酒をあまり知らない櫻子でも、それくらいは知っていた。

「櫻子さんは、普段ワインやないですか?」

 櫻子は、普段なら香田が同席するのは断っていた。彼は反社会勢力者だ、警察官としてそれは許されるものではない。しかし、蒼馬と会って緊張と動揺で櫻子は誰かと居たかったのだ。篠原には分からなかったが、櫻子も緊張していたのだ。

「少し、気分を変えたかったの」

 萬寿は辛口だが飲みやすく、櫻子は十分味を楽しみながら喉に流した。

「櫻子さんは、警視なんでしょう?こんな、大阪の所轄なんかにいるような立場じゃないんやないやろ?エリートなら、東京で上目指さなあかんやろ」

 香田も、酒を飲み櫻子が頼んでいたつまみを口にした。

「警察官も、サラリーマンと変わらないわ。辞令が出れば、それに従うだけよ。それより、お店大丈夫なの?」

 酒が入っているせいか、櫻子の口調から他人行儀さが少なくなってきた。香田は酒のお替りを頼む。

「ああ、2日ほど店休ませてたけどもう再開して、いつも通りや。アイリは辞めるかと思ってたけど、今日も店出てるわ」

 サキとユウの自供の時にいたアイリ。彼女の心の傷にならなければ、と櫻子は少し胸が痛んだ。

「どないしたんや?」

 香田が、ふと櫻子の顔を怪訝そうに見つめた。

「え?」

 問われた櫻子は、何の事か分からない。

「唇、血が滲んでる」

 香田の言葉に、櫻子はそれを思い出した。血は止まっていたが、酒で血行が良くなりまた傷口が開いたのかもしれない。

「何でもないわ、自分で噛んだだけ」

 蒼馬の事も思い出してしまうので、櫻子は詳しく説明しなかった。すると、香田が軽く手招きする。

「何?」

 大きな声で話せない事かと、櫻子は前に身を乗り出し香田に近づいた。すると香田が櫻子の細い顎を指でつまんで顔を寄せて、その傷を舐めた。

「し、失礼しました!」

 丁度酒のお替りを持ってきた店員がその場面に遭遇して、酒を置くと慌てて去っていった。

「ちょっと、何で舐めるのよ。血が好きなの?」

 櫻子は身を捩り香田の手を離すと、座り直して彼を軽く睨んだ。「私、誰でもいいほど男に困ってないわよ」ともぼやいた。

「舐めたら傷が早く塞がるって、昔おかんによく言われてたからな。アンタも欲しいけど、そんな簡単に手に入るほど安い女やとは思ってへん」

 香田は楽しげに笑うと、スマホを取り出すと短い文面のメールを打ったようで直ぐにそれをスーツに直した。

 改めて彼を観察する。高級ブランドのダブルのスーツを着ているが、嫌味がなく彼によく似合っていた。年の頃を想定して、無駄肉のない締まった若々しい体付きだ。整った男らしい顔立ちで、微かに漂う香りは「エゴイスト」と名付けられたブランドのものだろう。女の扱いにも長けていて、清潔感がある。黙っていれば、反社会勢力者ではなくどこかの社長の様だ。

「そろそろ、私帰るわ。明日も早いし」

「ちょっと待ってや…あ、来たわ」

 ほろ酔いになった櫻子は、腕時計に視線を落とすと香田にそう声をかけた。それを止めた香田の声と共に、息を切らした池田が店に飛び込んできた。

「若、…お待たせ…しまし…た…」

 荒い息を繰り返して、手にしていたラッピングされた袋を取り出す。それを受け取った香田は、そのまま櫻子に差し出す。

「え?受け取れないわ」

「別に、非難されるようなもんやない。今のアンタに必要なもんや」

 怪訝そうな顔で、櫻子は袋の包みを解いた。すると、中から薬用のリップが3本ほど顔を覗かせた。

「…」

 櫻子は、思わずくすりと笑みを零した。若頭が、女の為に薬用リップを買って来いと下の者にメールしていた姿を思い出したのだ。その姿は、少し可愛らしさを感じた。

「会計を――」

「あ、姐さん!タクシー自分呼びますんで行きましょう!」

 店員を呼ぼうとした櫻子に、池田が慌てて櫻子の背中を押した。香田を振り返るが、彼は穏やかな笑みを櫻子に向けていた。小さく櫻子は頭を下げ、池田に押されるまま店を後にした。

「――今の人ですか?」

 池田達と入れ違いに店に入ってきた男が、櫻子が座っていた席に腰を落とした。髪を撫でつけてきっちりと整え、細いフレームの眼鏡をかけたいかにも知的そうなイメージの、香田とはまた違った整った顔のすらりとした男だった。淡い色のスーツ姿で、きっちりネクタイを締めている。

「ああ、真田。一条櫻子が、なんで大阪に来たか調べてくれどんなことでも、一つももらさんとな」

 香田は櫻子に見せて居た顔とは違う、何処か鋭い顔つきでそう彼に命じた。

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