第5話 発端・上
特別心理犯罪課に来てから、一週間が経った。しかし櫻子たちが出動するような事件は起きず、篠原は特にすることがなかった。珈琲を入れたり、部屋の掃除をするぐらいしかない。書類を眺めている櫻子やパソコンに向かっている笹部を見ているだけで、はっきり言うと暇だった。
「何か仕事はありませんか?」と篠原が櫻子に尋ねると、彼女から日本の未解決犯罪の資料をいくつか渡された。「犯人はどんな人物か、想像してみなさい」と、櫻子は笑顔でそう言った。パソコンを使って、調べてもいいと言われた。
笹部は、篠原が聞いてもよく分からないデータベースを作ると言って、朝から就業時間までずっとパソコンに向かっている。
ようやく自分に出来ることが出来た篠原は、日本三大未解決事件と言われる中の一つ「S田谷一家殺人事件」を読んでいた。東京に行ったことはないので、地理的な事は全く分からなかった。だが、痕跡が沢山あるのに犯人が見つからないことが不思議で仕方なかった。パソコンで調べると、動画配信サイトで自身の推理を考察している一般人もいて驚いた。それは一人ではなく沢山いて、動画だけでなくブログのようなものもあった。
一般人の『事件』への興味が深い事、一般人でもここまで調べられる時代になっていることに、びっくりしていたのだ。
「すごいでしょ」
キーボードから手を離さず、笹部は篠原に話しかけた。
「現代は、一般人でも色々な捜査状況情報を手に入れる事が出来るんですよ。マスコミレベルの調査してる人もいます。特に『事故死』なんて言われた遺族は必死に情報を集めます。それで警察が見つけることが出来なかった、真犯人を見つけたケースもあります」
相変わらず目元が前髪で隠れていて、よくそれで画面が見えるなと篠原はぼんやり考えながらその言葉を聞いた。
「不審死がよく事故死扱いになると聞きましたが……」
「うん、なるね。でもそれは、結局僕たちには何も出来ないんだよ。上層部が捜査したくないとか、そんな理由でうやむやにするから。検死にもお金がかかるしね」
キーボードから手を離すと、笹部は腕を伸ばして大きく息を吐く。
「篠原君、珈琲淹れてくれる?」
同じく紙の資料に没頭していた櫻子が、篠原に声をかけた。
「はい」
篠原は立ち上がると、珈琲ミルと豆を手にして再び椅子に座った。初日に『三十点』との低い点数をつけられた彼は、悔しくて上手に珈琲を淹れる事も勉強していた。ようやく少し点数が上がったのは、自動ミルではなく手動ミルに変えてからだ。
ゴリゴリと豆を砕くと、いい香りが部屋に漂う。
「あら? 豆、変えたの?」
香りだけで、櫻子にはそれが自分の持ってきた豆ではないと分かった様だ。ナッツのような香りが、砕かれた豆からほのかに香る。
「はい、一条課長が持って来られた豆が無くなったので取り寄せようとしたんです。ですが、今は一時的に品切れってなってて。グランフロント大阪のコーヒーショップで教えて貰って、美味しいと聞いた珈琲豆にしてみました」
グランフロント大阪とは、キタエリアにある複合商業施設だ。二〇十三年四月に完成した、最先端ファッションやお洒落な店舗が並ぶ、若い男女に人気の施設の一つだ。大阪は、いつもどこかで工事があるような気がする。どこまで大きなビル群が増えるのか、篠原には分らなかった。
休日に若い男女の中に混ざりカフェを訪れて、櫻子が気に入りそうなものを篠原は買いに行っていた。
「どうぞ」
櫻子と笹部の前にコップを置いて、自分の分も用意する。櫻子と笹部の様子を見るために、カップにはまだ手を付けない。
「マカデミアナッツね。ふふ、確かにフレーバー物は選ぶことが少ないから、新鮮だわ」
香りを楽しんでから、櫻子は珈琲を口に運んだ。この瞬間が、篠原にとって一番緊張する時だ。
「うん、美味しいわ。チョイスの成果も加味して、五十五点ね」
篠原は、内心ほっとした。先週の五十点から下がるのを恐れていた。笹部はようやく少し冷めた珈琲を、特に何も感想なく飲みはじめた。
審査のような時間が終わるとようやく落ち着いて、篠原は自分も珈琲を口にした。ナッツを煎ったような香ばしい香りだった。櫻子は酸味よりコクを好む。そして、苦みより甘味派だ。だから、あえて甘みをより感じるナッツのフレーバーを選んだ。
「あ、ボス」
珈琲カップを持ったままパソコン画面に目をやった笹部が、不意に口を開いた。
「どうやら、連続殺人事件が起こったみたいですね」
彼のパソコンには、櫻子の管轄するエリアの報告を表示するように、独自に設定しているようだった。
「連続殺人事件?」
その言葉に興味を惹かれた櫻子は、カップを手に首を傾げた。
「ずっと部屋にこもっているのも飽きてきたし、どんな事件か見に行ってみましょう」
これが、特別心理犯罪課の最初の事件となった。
そして、篠原が事件に潜む『闇』というものを知る地獄への階段を一歩降り始めたのだ。
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