糾える音

 今思えば、僕は彼女のことをなにも知らなかった。

 容姿はなんとなく思い出せる気がするが、性格だったり、成績だったり、交友関係だったり、そういった彼女のことは十年以上経った今では、ほとんど思い出せなかった。

 覚えているのは、ベルの向こうに見える横顔と、彼女の奏でる音だった。

 彼女は僕にとって、そして、彼女にとっての僕は相棒と呼んでも決して過言ではなかったはずなのに、随分と時間が経った今、僕は彼女のことほとんどということを


 結婚式の当日。

 僕が彼女と顔を合わせたのは久しぶりだったが、ほとんど変わっていないように思えた。思えたというのは、さっきも言ったが、僕は彼女の容姿をあまり覚えていなかったからだ。

 けれども、彼女を見て、懐かしさも違和感も全く感じなかった。毎日会っていたかのようにそこにいた。

 僕の結婚相手である彼女、式の前に籍を入れていたので妻のことだが、妻に呼ばれてやってきた彼女は、僕の顔を見てから少しだけ口角を上げると、楽器ケースを足もとに置いて肩を竦めた。

 僕も同じように口角を上げてから肩を竦めてみせる。やれやれという感じだ。

 それから挨拶を交わす。

 学生時代と違って、制服姿ではないし、結婚披露宴に参加するために盛装をしている僕達だったから、もっとぎこちないかと思ったけれど、そんなことはなかった。身体が覚えてくれたらしい。

「今日はよろしく」

 僕は辛うじてそう言い、彼女は「こちらこそよろしく」と素っ気なく言った。

 今日の僕らはとても友好的だった。

 彼女は妻とは古い友達で、驚くことに幼なじみとも言うべき間柄だった。僕は最近までそのことは知らなかったけれど、学生時代に二人が仲の良い友人だったことは、なんとなく記憶にあった。だから、僕らの結婚式の披露宴に彼女を呼ぶことを聞いたとき(このとき、初めて二人が幼なじみだと知った)、僕は違和感もなく受け入れたし、妻の希望で僕と彼女に余興の演奏をして欲しいと言われたときにも、僕はすぐに首を縦に振ったものだ。

 僕と彼女は、学生時代に同じ吹奏楽部で並んで演奏をしていた。二人ともトロンボーン吹きで、僕らは相方であり、ライバルでもあった。

 大体において彼女はトップを吹き、僕はセカンドのポジションだった。

 よく音楽と無縁の人生を送っている人達には勘違いをされるが、別にセカンドというポジションが二番手というわけではない。トップ(ファーストとも言う)とセカンドはエースと補欠でもなければ、先生と助手でもない。どちらかと言えば一塁手と二塁手とか、理系と文系とかいったようなもので、順位が付くような類いのものでもなく、それぞれの役割といった方がぴったりとくる気がする。

 つまり、僕らは吹奏楽部というバンド全体の歯車であり、それぞれが優劣のない大事な部品だった。

 もちろん、得手不得手はあった。

 彼女の方が高音域が得意で、メロディーを情緒たっぷりに歌うことに長けていたけれど、リズムを正確に刻むことと、ピッチを合わせるのは多分、僕の方が紙一重の差で得意だったと思う。

 僕はさっき彼女のことはほとんど知らないと言ったけれど、正確には彼女自身のことを知らないのであって、彼女の作り出すものはよく知っていた。覚えてはいなかったかも知れないが、僕の奥深くに染みこみ刻み込まれていた。

 僕らはクラスも違っていたし、部活でしか顔を合わす機会がなかったから、あまり言葉を交わすことはなかった。ただ、言葉は交わさなかったけれど、音楽は交わしていた。

 彼女は妻へ向かってにっこりと笑顔を向けると、嬉しそうに祝福の言葉を投げかけた。妻も嬉しそうにお礼を言ってから、はしゃぐように会話を始めた。

 幼なじみの二人の仲睦まじい様子がありありと現れていて、僕までもが温かい気持ちになった。

 一通り言葉を交わした後、僕の方をちらりと見てから、軽く肩を竦めた彼女が再び楽器ケースを抱えて控え室に去って行った後、妻が言った。

「ねえ、無理なお願いだった?」

「なにが?」

 僕は妻の顔をまじまじと見ながら言った。

「二人ともろくに挨拶もなかったし、ひょっとして仲悪かった?」

 彼女は少し不安そうに表情を曇らせた。

「別にそんなことはないよ?昔からあんなもんだし……むしろ今日は友好的だった気すらするけど?」

「ほんとに?昔からあの子は部活の話はあまりしなかったし……今日も仲良くは見えない気もしたけど……部活で一緒に楽器吹いてたんでしょう」

「うん。だから余興の演奏を頼んだんだろ?」

「そうだけど……まあ、あの子も変わってるのは確かな……誰かさんみたいに」

 ちなみに妻は楽器は演奏できない。運動は得意で、学生時代は陸上をやっていたが、音楽は可も不可もなくというところらしい。

 もっとも、音楽が苦手とか嫌いとかいうわけではなく、むしろ好きなのだと言っていた。ただ、楽器を触る機会がほとんどなかったというだけで、聞いたりするのは好きなのだ。

 だからだろう。僕らに演奏の余興を持ちかけたのは。

「心配しなくていいよ。今日はいい演奏をするよ」

 僕は苦笑いをしながらそう言って、先に楽器を持って控え室に入っていった彼女を追った。

 わずか十五分の予定だったが、音合わせをするためだった。妻は今から着替えや準備がある。

 僕は一人で彼女の待つ控え室へ向かった。すでに楽器は音出しの準備を兼ねた、控え室へ運んであった。

 厚い絨毯の敷かれた廊下を進むと扉越しに、くぐもったトロンボーンの音が聞こえてくる。

 僕と同様、どうやらウォームアップは自宅で済ませてきたらしい。

 今日演奏する予定のデュエット曲のメロディーが聞こえてくる。

 僕はノックだけをして、無言のまま扉を開けると軽く片手を挙げた。彼女は一瞬手を止めたが、楽器を少しだけ揺らして答えると、そのままおさらいを続けた。

 僕はため息をついてから、組み立ててあった楽器を手に取る。

 別に憂鬱なため息ではなかった。僕の癖のようなものだ。むしろ、楽しさすら感じている。それくらい、彼女の音色は僕に馴染み、奏でる旋律は僕をうっとりとすらさせた。

 今でも一つだけ彼女とのことで明確に覚えていることがある。


 学生時代、最後の夏のコンクールのことだった。

 僕らはアメリカの作曲家の遺した、殺人的な難曲を演奏した。ライバルだったホルン奏者に対し、故意に難しく書かれた曲だったが、他の楽器もかなり難易度は高く、けれども、大人気の名曲だった。

 とくにトロンボーンは、長く取り回しの難しいスライドをフル回転させながら、早いパッセージを刻み尽くし、最後の最後に強烈な和音とグリッサンドで終わる大役を担っていた。

 夏休みの間、僕と彼女と、それから数人の後輩は必死で練習したものだ。そして、お盆も目前の地方大会の本番のステージで、僕らは全力で演奏した。

 スライドを動かし続けて、息を送り込み続け、必死で演奏した。必死だったがこの上なく楽しかった。

 コンクール独特の緊張感と、ステージの雰囲気が相まって、一度きりの演奏で僕らのボルテージは最高潮に達した。

 急緩急の構成の中間部にある緩やかな旋律を終え、バスクラリネットのソロの後、駆け始めた主題を呼び込む。そして、旋律の下で僕らは和音のリズムを刻み続けた。

 頭が真っ白に飛んでいきそうなくらい興奮して楽しかったが、芯のどこかでは冷静さを保っていた。

 僕らはお互いを杖のように頼り、あるいは突き放しながら、けれども支え合いながら演奏した。

 彼女の音を僕が正確なリズムで導き、彼女の表現は単調になりがちな僕の音に寄り添うようにして支えた。僕らはお互いの音楽を頼り、支え合い前に進んだ。

 それは互いの音楽に対する信頼だったと思う。

 さっきも述べたが彼女も僕も互いにあまり語らなかったから、お互いのことをそれほどは知らなかったと思う。それこそ、ただの疎遠な同級生くらいに。けれども、音は雄弁だったし、僕らは音を交わしていたからこそ、お互いの音楽を信頼していた。

 最後のフレーズが終わり、曲の締めくくりで僕らは互いのブレスを意識しながら、最高のタイミングで、最高の和音を放った。

 低い音から高い音へのグリッサンド。スライドを伸ばしてから絶妙なタイミングでスライドを手前へ戻す。

 それは、後輩も含めてトロンボーンパート全員が実力を出し切った瞬間だった。

 最後の一音がホールの空間を満たし、響き、虚空に消えた。

 一瞬の間の後に割れんばかりの拍手が響いた。

 僕は大きく息を吐き出しながら、指揮者の手の動きに合わせて起立した。全員が立ち上がり真っ直ぐ前を見つめる。指揮者の先生が前で客席に向かって頭を下げたとき、視界の右端に見慣れないものが映った。

 彼女の拳だった。

 僕は躊躇うことなく楽器を片手で支えたまま、右手をグーに握って、コツンと軽く拳を合わせた。

 グータッチなんて初めてだった。

 そして、最後だった。

 あのとき、僕らは間違いなく交わっていた。僕らだけではなく、バンド全体の音楽が交わっていた。

 そして、あのときちらりと見えた彼女の拳と横顔は僕の記憶に刻み込まれ、今も数少ない記憶として残っている。

 

 僕らは十五分間、昔のように必要な会話以外はほとんどなく、練習を終えた。

 そこからはバタバタだった。

 すぐに式場のスタッフに呼ばれ、間もなく挙式が始まった。ほとんど覚えていないくらい緊張していたようで、気が付いたときにはスタッフの一人に袖を引かれ、高砂から控え室へ連行されるところだった。

 僕は控え室に置き去りになっていた楽器を手に、広間へとんぼ返りする。

 すでに譜面台が置かれ、彼女は楽器を片手に僕を待っていた。

 ちょうど真正面には高砂席があって、妻が少しだけ心配そうに、でも期待するように目を輝かせて見守っていた。

 司会者が僕と彼女を紹介し、彼女はマイクを片手に持つと、紹介に答えるように挨拶をして、幼なじみとしての祝辞を述べた。

 にこやかに、嬉しそうに。

 僕はよくよく考えてみると、あまり彼女のそんな姿は見たことがないような気がした。いや、本当はそんなことはないのだろうが、どうも演奏をしているときの真剣な姿だけが記憶にあって、他の部分を覚えていないようだ。

 本当の彼女は愛想のいい、友達も多い、普通の女学生だったのだろう。

 僕が悪いのだ。

 大きな拍手で我に返ると、彼女が楽器を構えるところだった。

僕もゆったりと楽器を構える。

 演奏する曲は、元々はピアノとユーフォニアム二本のために書かれた、デュエット曲だった。イギリスの人気作曲家の作品で、かなりの技巧曲だったが、妻の要望で決まった。学生時代に演奏したことがあったのを聞いていたらしい。

 その頃はまだ、妻とはろくに話をしたこともなかったようなときだったが、よく覚えていたようだ。好きな曲だと言っていた。

 僕の左側で大きく息を吸った彼女は、ゆったりとした旋律を楽器で歌い始めた。

 いつもの並びだが、今日はピアノ抜きで変則的に演奏する。

 彼女の旋律は相変わらずの豊かさだった。音色も表情もたっぷり詰め込まれた演奏だ。

 彼女の歌い尻を捕らえて今度は僕が歌う。そして、彼女が再び僕の旋律に絡みつくと、ハモりながらメロディーが流れる。

 さらにフレーズが止まると、曲が走り始める。

 そして、踊るように二つの旋律が跳ね回った後に、恐ろしく難しい掛け合いが始まる。

 一瞬ずつの積み重ねを交互に繰り返しながら、一つの旋律を作り上げていく。彼女が八つの音を素早く重ねると、それを引き継いで僕が八つの音を正確に刻む。彼女はそのリズムを聴き取って、同じ形で返してくると、僕は彼女の歌を真似ながら同じように音を重ねる。

 それを幾度も繰り返しながら音楽が形作られ、会場を満たしていく。

 最後にハモったまま階段を駆け上がるように、高い音へ駆け上がり、音を一杯に伸ばして音楽が終わった。

 妻が真っ先に立ち上がると拍手を始めた。

 会場が大きなどよめきと拍手に包まれる。

 僕は楽器を降ろすと、彼女も楽器を降ろした。

「……おめでとう」

 僕は顔を上げて彼女をまじまじと見た。彼女は一瞬だけ笑顔を浮かべていた。僕は釣られるように一瞬だけ笑ってから「ありがとう」と答えた。

 そして正面を向いた後、どちらからともなく拳を差し出して、顔を合わせず拳だけを軽く合わせた。

 拍手が大きくなる。

 安心したのだろうか、妻は顔の全てを笑顔に変えて泣くように笑っていた。

 僕はため息をついてから、深々とお辞儀をした。

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Nostalgic muse 春成 源貴 @Yotarou2019

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