雨と音

 雨が降ると思い出す。

 それも、晩秋の冷たい雨が窓ガラスを濡らしていると、僕はとてもノスタルジックな感覚に襲われる。


 その日の午後の音楽室は、気持ちのいい緊張感と共に、凜とした空気が漂っていた。

 白い壁に沿って、大きく円を描くように広がった僕らは、音楽室の中心で静かに燃える小さな石油ストーブに向かうようにして、各々が気になる箇所を練習している。

 廊下側の壁に、張り付くようにして立つ僕の視界の先には、一人の女の子と、その背後の窓ガラスがあった。綺麗に磨かれた窓ガラスの向こうには見慣れたグラウンドが広がっていて、霧のように小さな雨粒が静かに土のグラウンドを黒く染めていた。

 一瞬の間、なにかの弾みにみんなの音が途切れると、サァーというスピーカーのノイズにも似た微かな雨音が教室を覆い尽くすようだった。

 本番まではあと二時間を切っている。

 三年生の僕は高校生活最後の演奏会に向けて、余念なく速いパッセージの指を復習う。クラリネットの黒い木製の本体と銀のリングの上を行き交う指を、一生懸命制御しながら周囲の音にも耳を澄ませていると、ふと、聴き馴染みのある旋律が聞こえて来た。

 それはさっきの女の子の持つトロンボーンから流れてくる、夏のコンクールの課題曲の冒頭だった。春先から数ヶ月かけて練習した曲は、楽譜を見るまでもなく身体に染みついている。僕が復習っていたフレーズを止めると、ちょうどストーブを中心に、教室に渦巻いていた音の奔流はピタリと止まり、すぐにひとつの流れに変わった。

 彼女の旋律に追従するように伴奏が付き、合いの手が入る。すぐにファンファーレ部分が終わると、僕は数人の仲間と共にメロディーを奏で始める。

 気が付けば自然発生的な合奏が始まっていた。

 気心の知れた仲間同士の練習であれば、こんな合奏もままあることなのだが、今日が最後になるだろうと思うと、演奏にも熱が入る。

 今日は毎年恒例の、文化祭での野外コンサートの日だ。例年であれば雨天でも屋内に切り替わるが、今年は体育館の改修工事が影響して、空き部屋が少なく、雨天の場合は中止と決まっていた。

 その演奏会までもう残された時間は少ない。

 五月の甘い風の漂う課題曲の、トリオの旋律を柔らかく吹きながら窓の外を眺めると、まだ霧のような雨が降っている。

 音楽は流れ続け、僕らの想いと音色はくるくると部屋の中を踊り続けた。伴奏はステップを踏みメロディはオブリガードと手を取り合って舞い続ける。やがて曲は後半のヤマを越え、テンポを揺らしながら盛り上がって終わった。

 和音が余韻となって教室の中を響き、最後の一音が消えたとき、みんなが弾けたように笑い出して、僕もけたけたと笑った。なにが可笑しいというわけではない。けれども不思議と笑いたかった。ただただ楽しかった。ひとしきり笑うと、円を解いて、銘々が窓ガラスの側に寄って、外のグラウンドに目を凝らした。雨の様子が気になるのだ。

 雨の幕はとうに上がり、空を覆い尽くしていた雲は薄く、空は明るくなっていた。予報通りなら、まもなく雲も切れて、青く高い秋の空が姿を見せるだろう。そうなれば、演奏会の準備を始めなければならない。

「……もう少しこうしてたかったな」

 僕の隣で彼女が呟くように言った。僕がそちらを振り返ると、彼女はトロンボーンのスライドを弄りながら、顔をグランドに向けたままだった。僕はからかうように訊ねた。

「本番が緊張するから怖い?」

「違うわよ。みんなの吹く姿を見るのが最後になるのよね。いつも背中ばかりだから」

 トロンボーン奏者の彼女の席は最後列だ。

「みんなの後ろ姿を見分けさせたら、私たちが一番ね。背中で感情まで分かるかも?」

「それを言ったら、こっちは姿すら見えない」

 最前列の僕は言った。彼女は、はにかんだ顔をこちらに向けた。

「そういえばそうね」

 そのとき、ひときわ大きな歓声が上がった。

 窓の外グラウンドの向こうに光が射しはじめ、彼方にくっきりと虹が浮かびがった。半円に七色がはっきりと見てとれる。

 彼女も同級生たち一緒に感嘆の声を漏らした。みんな口々に「虹だ!」「きれい」と騒いでいる。

 僕は小さくため息をついて窓辺を離れた。

 僕ら最前列は姿を見ることは出来ないが、背中で音を感じている。音色で誰が吹いているかはもちろん聞き分けられているし、やっぱり感情まで分かっているかも知れない。

 けれども、僕はそれを彼女には伝えなかった。彼女に僕の気持ちが伝わっているかも知れないが、こちらにも気持ちが伝わっているのだ。

 だから、何も言わない。

 言えなかった。

 僕はぼんやりと虹を見つめた。


 それからすぐに連絡があって、僕らの最後の演奏会は屋外で無事に行われた。

 奇しくも僕たちの最後の演奏は「虹の彼方に」で、彼女は全編にわたるトロンボーンのソロをトランペットの同級生と共に美しく、切なく、そして少し嬉しそうに歌い上げた。

 いまでもそのメロディーを、ついさっきの演奏のように覚えている。そして、僕はいつもの通り背中で音を聞きながらメロディーを支えた。

 彼女の気持ちを感じながら。

 少し淋しくなりながら。

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