音のいく処

 バンド全員の激しい一音をきっかけに、ファンファーレが始まった。

 約九分にわたる長い旅路の始まりだ。

 スペインの音楽を題材にしたこの曲は、二十年前、高校三年生だった僕らが最後に演奏した曲だった。卒業前の定期演奏会の、プログラムの最後に演奏した。アンコールには三年生は乗らなかったから、全員が揃った最後の演奏だったはずだ。

 静まりかえったホールの客席はほとんど満席で、老若男女が思い思いに音楽を楽しんでくれている。

 トランペットが力強く溜めたファンファーレが響き渡ると、木管楽器が狂ったように波を作り、打楽器と共に音楽が疾走を始めた。

 ホルンが吠える。

 ステージの上手の奥に座る僕は、楽器を構えてピストンを動かし、息をコントロールしながら、必死で木管の波の奔流を追った。少しの休符の間、楽器を膝の上に降ろし周りを見廻す。

 改めて見れば、中々のメンバーだと思う。

 同じ高校に通った、同年代の四十五人の卒業生が、誰一人欠けること無くそこに居た。母校の吹奏楽部の創立五十周年記念の演奏会で、何組か出演するOBバンドのひとつだった。いわば再結成といったところだ。

 二十年前のメンバーが、姿形こそ変われど、当時と同じ席で同じ曲を演奏している。

 感慨に耽る僕は、気を取られて一瞬次の出番を忘れかけてしまった。それでも、当時、毎日ひたすら練習したこの曲は身体に染みついていたようで、遅れること無く、僕は楽器を構え直して対旋律に入った。

 口の中に空間を作り、響かせながら息を吐き出す。唇が震えて楽器に振動が送り込まれ、音色に変わる。ベルから送り出された音色が他の音色に反発し、あるいは溶け込みながら音楽を描いていった。

 緊張感の漂う緊迫した音楽は、ホールの客席で渦を巻き、観客の気持ちをも静かに巻き上げていく。

 舞台の上からでも、それが感じられるようだった。

 僕がひな壇の中段から、見下ろすように左前に視線を落とす先には、コントラバスを構え、指を動かし弓を弾き続ける女性の姿があった。

 フラメンコに似たリズムと旋律が続いていたが、突然、音楽にブレーキが掛かった。テンポが落ちて、代わりに余韻が響きいて中間部へと移っていく。

 オーボエのソロが始まり、美しいけれどもはかないメロディが移ろっていく。

 視線の先の女性は、仲の良かった同級生だった。

 僕は楽器を膝の上に降ろして次の出番まで、耳を澄まして音楽に身をゆだねる。

 ふと、それまで随分と忘れていた記憶が目の前に浮かんだ。


「ねえ、今の演奏ってどこに行ったのかな?」

 確か、高校生活最後の演奏を終えて、舞台袖へ捌けていくときのことだったと思う。いたずらっぽい彼女の笑顔は今よりも随分と幼かった。

「あ~、きっとどこかに音楽だけが集まった倉庫があって、そこへ送り込まれるんじゃないの?」

 演奏を終えてヘトヘトになっていた僕は、ろくに考えもしないまま、思いつきを口にする。

「なるほどね……どうしてその倉庫へ?」

「……さあね、わかんないけどさ……倉庫ってくらいだから、また、誰かに聞かれるためじゃないかな?」

 僕は大人のスタッフに頭を下げながら、舞台袖の扉をくぐった。

 楽器を当てないように丁寧に抱える。

 彼女は身体よりも大きな楽器を両手で抱えたまま、蟹のように器用に横歩きをしている。

「うーん」

 彼女は歩きながら眉を曇らせた。どうやらお気に召さなかったようだ。いつも同じパートとして練習を付き合っていた僕は、なんとなくそれを察することが出来たから、慌てて頭を回転させた。

「……まあ、その倉庫って言うのは……ここにあるんだろうね」

 僕は片手を放して、人差し指で自分の頭を指した。

「あるいはここかしらね」

 彼女は歩みを止めると、持っていた弓で自分の胸を指し示す。

「そこで加工されるのを待ってるんじゃないの?よい演奏はパッケージされて保存され、そうでない演奏も……やっぱりパッケージされて……」

 僕は頭を捻ってそう言った。

 自分でもなにを言っているんだろう、と思った。

「うん、それ、悪くないね」

 意外にも、彼女は嬉しそうに頷くと、女子用の楽屋の方へ歩いて行った。

 僕は肩を竦めて彼女を見送った。

 普段からこんな会話の積み重ねだったが、とても親密空な気の流れる会話が多かったように思う。


 僕がぼんやり思い出していると中間部は進み、出番が回ってきた。再びゆっくりとリズムが動き始め、僕は、隣に座る後輩と一緒に背景のうねりを歌う。木管楽器が何度となく繰り返して旋律を歌い、僕らは景色に変化を付けてゆく。

 やがて展開を繰り返した音楽は転回を迎えて、静かに消えはじめた。

 後輩が隣で繋ぐ間に、僕は息を吐き出し、ゆっくりと吸い直す。そして、柔らかい息を送り込みながらソロを歌い上げ始める。

 中間部の終わりだ。

 跳躍を繰り返しながら音を積み重ねる。ゆったりと高音へ駆け上り、響かせながら伸ばす。

 たぶん、二十年前はこんな吹き方はしなかったし、出来なかった。楽譜のとおりに吹き切るだけで精一杯だった。全くの未完成品だっただろう。もちろん、それがダメだと言うつもりはない。あのときの到達できる最高点だったという自負と満足はある。

 けれども、今だって完成したなどと言えはしないが、それでも、今日の演奏は、僕自身の積み重ねが、音をも積み重ねているように思う。

 最後のFの音がホールの天井の向こうへ消えて、木霊のようなAの音が、辺りに纏わり付くように残った。

 僕はマウスピースから口を離し、静かに溜めていた息を吐き出した。すると、突然、スネアとウッドブロックが纏わり付く余韻を散らすように疾走を始め、後半部分が始まった。

 木管楽器が再び走り始め、いろんな楽器の音色が絡まり始める。方々から伸びてきた触手のような音色が、絡みつきながら一つの大きな流れを作ってゆく。トランペットが鳴り響き、スペインのフラメンコのような旋律が奔流となってステージから客席へあふれ出した。

 僕は生み出されては流れていく音の激流の中で、感覚が揺さぶられ、頭が真っ白になり始めた。

 そう、一言で言ってしまえば気持ちよくなってしまった。

 ぼんやりとした視界の中で、音を飛ばし続ける。

 不意に二十年前の演奏が蘇った。鮮やかな記憶の音楽に、目の前の演奏が重なる。

 だが、何かが違った。

 ろくに合奏の時間も取れなかった今回の演奏だったが、耳に届く音はあまりにも懐かしく、けれども懐かしさだけではなかった。

 そして、その演奏は重さを持っていることに気が付く。

 それは、あのとき終わって、どこかにある倉庫に仕舞われたはずの音楽だった。パッケージされた音楽は、再び開封され、溶かされ、混ぜられた。

 いや、違う。

 僕は気持ちよさで麻痺しそうな脳を、なんとか冷静に保つ。

「どんな演奏の時も、頭のどこか一部で、冷静にいなさい」

 顧問の先生はそう言っていた。

 片隅に冷静さを保ち続けながら、爆発する感情の中で、僕は答えを見つけた。

 最高潮に盛り上がった音楽は、そのままフィナーレへなだれ込み、金管楽器の最後の溜めの後、駆け上がった全ての楽器の一音がホールに余韻を残し、演奏は終わった。

 指揮者の元顧問の先生が指揮棒を降ろすより早く、ボールは割れんばかりの拍手に包まれた。客席がどよめきと笑顔であふれかえっているのが、ステージの上からでも手に取るように分かった。

 僕らは立ち上がり、指揮者は客席に一礼する。

 再び手と手がぶつかる音でホールが埋め尽くされ、それも一つの音楽となる。司会者が袖から現れ、マイクを握って喋り始めると、ステージは暗転し、僕らは退場を始めた。

 後輩と軽くハイタッチを交わしてから、楽器を抱えてひな壇を降りた。

 すぐ近くにセッティングされたコントラバスの脇を通ると、にゅっと手が伸びてきたので、僕は軽く手の甲を合わせた。

「お疲れさま」

「お疲れさん」

「ねえ……」

 彼女は例の笑顔を浮かべて口を開いた。

「今日の演奏はどこへ行くのかしらね?」

 その表情も声も、記憶にあるよりもきちんと時間を重ねたものだった。僕は立ち止まった。

「どこかの倉庫へしまわれるんだよ」

 僕は茶化すように、首をかしげて答えた。

 そして、自分の頭を指して付け足す。

「ここにあるんじゃないかな?」

 すると彼女は嬉しそうに目を細めてから、持っていた弓で自分の胸を指した。

「あるいはここかもね?」

 弦を押さえたままの彼女の左手に、きらりと指輪が光った。

「で、なんのために倉庫へしまうの?」

 彼女は、はにかんでから続けた。

 僕は当たり前のように、小学生の足し算をわざわざ電卓で叩いて答え読み上げるくらい、迷いなく答える。

「きっと、続きをするためにさ」

 やり直すのではなく、新しく作るのでもなく、再び積み上げるために。続けるために取っておくのだ。

 僕がそう答えると、一瞬考えた彼女は笑顔で言った。

「悪くない。それ、いいわね」

 そこにあったのは、あの十代の女の子の面影の残る笑顔だった。

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