Nostalgic muse

春成 源貴

 いつもの練習帰り、僕は愛車を走らせている。

 遅い時間に走る国道は昼間と違って車はまばらで、カーオーディオから流れるドビュッシーとエンジンの低い音が心地よく車内を満たしていた。

 片側二車線の幹線道路は山の裾の高台に伸びていて、眼下には静かな住宅地と、遠くの方に瀬戸内海の静かな水面がたゆっている。冬のよく澄んだ夜空に浮かぶ月は、年内最後の満月で、柔らかな銀の光は、世界を蒼白い海の底のように染めている。ヘッドライトは、辛うじていつもの世界を照らし出すが、ライトを消せば、昼間と全く違う世界が広がっているだろう。

 車は海中を泳ぐように、月明かりの中の凜とした空気を切り裂いて走る。

 やがて、目の前に赤いテールランプが見えると、ハンドルを右に切って車線を変更した。テールランプは視界を流れ、僕の車は、今、前を走っていたバスに並ぶ。

 僕らが楽器を練習している練習場から、駅の方まで走っている路線バスの最終便だ。練習が終わって会場を飛び出せば間に合う唯一の公共機関で、少し前まで僕も利用していた。

 走りながらちらりと視線を横に向けると、バスの中の蛍光灯に見慣れた顔が浮かび上がる。田舎の終バスなので乗客は一人しか見えない。それは、ショートカットのよく似合う、楽団でコントラバスを担当している女の子だった。

 同じ低音楽器を担当している僕とは仲もよく、バスで帰っていた頃はたびたび一緒になったものだ。バスのなかの彼女は白いオーバーコートに身を包み、赤いマフラーを巻いていた。文学少女でもある彼女は、文庫本を膝の上に広げて熱心に読みふけっていたから、併走する僕には気が付かないようだ。一番好きな作家は夏目漱石だと宣言して憚らず、たくさんの作品の感想やエピソードを語ってくれたが、文学的素養のない僕は、いくつかを除いてすっかり忘れてしまった。けれども彼女は何度でも教えてくれたし、僕はそんな彼女の話を聞いているのが楽しかった。

 バスがスピードを落としたので、クラッチを踏み込み、ギアを入れ替えてスピードを調整する。

 月光の海を、ただ二台の車だけが静かに泳いでいく。道に沿って流れるままに併走していると、彼女がふと視線を上げた。僕は何度かちらりちらりと視界に入れていたのだが、彼女はそんな僕に気が付いたようでにっこりと微笑んだ。

 僕もにこりと微笑み返す。

 僕が数ヶ月前に車を買った頃、彼女も夢を叶えて、遠くへ行くことが決まった。今日、最後の練習日を迎えて、年明けにイベントで演奏する「ウィアーオールアローン」を合奏した。彼女はいつものようにほっそりとした白く長い指を弦の上に踊らせ、身体を大きく使って演奏した。

 いつも以上の熱演だったと思う。あるいは、最後だったからそう感じたのか。終了前に最後に一回通したときに、彼女は一回だけ目元に手をやったように思う。

 「同じ演奏は二度とない」とは学生時代の恩師の言葉だったが、今日の合奏はもう通り過ぎてしまった。そして、今までに際限なく繰り返してきた、数えられないほどの演奏と同じところへ行ってしまった。

 僕は車を走らせながら漠然と、過ぎ去った演奏の行き着くところに思いをはせる。宝石箱なのだろうか。墓場なのだろうか。ひょっとしたら再生工場のようなところで別の何かに生まれ変わっているのかも知れない。

 練習の終わりにミーティングがあって、彼女はみんなに別れの言葉を贈り、僕らの代表が彼女に小さな電子メトロノームを贈った。いつも愛想よく、控えめな笑顔を見せながら話す彼女も、そのときばかりは、満面の笑みだった。

 遙か遠くに小さく信号が見えた。あそこまで走れば、バスはこの道を降りて駅へ向かい、僕はこのまま国道を走り家路を向かう。僕らはそれぞれの道を走り家へ向かうわけだ。

 ドビュッシーのピアノ曲が終わり、次の曲が流れる。やはり、ドビュッシーのピアノ曲を管弦楽に編曲した演奏だった。ストリングスが柔らかくゆっくりと美しくもの悲しい旋律を奏でていく。

 分かれ道が近づき、視線を移すと、彼女が小さく手を振るのが見えた。

 僕は小さく左手を挙げたまま、正面を向いて呟いてみる。


「月がとっても綺麗ですね」


 届かない言葉が車内に木霊して、ドビュッシーと調和する。

 言えなかった言葉を言えた、安堵とも寂しさともつかない不思議な気持ちは、車の振動にかき消されていく。

 僕は彼女に顔を向けて、一度だけ手を振った。彼女ももう一度だけ振り返す。

 バスは天井を銀色に輝かせながら側道に消えていく。

 僕はオーディオに手を伸ばすとボリュームを上げ、それからギアを切り替えてペダルを踏み込んだ。

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