第25話 異世界へのグラン・パ・ドゥ・シャ1

 美嘉がロイクの屋敷で目を覚ました時には、アナクレトが火種を巻き、オーバンによって大きくなってしまった一連の騒動はひとまずの終息を迎えていた。

 心配のあまりに蒼白になっていたナディアは、目を覚ました美嘉に何度も何度も「私が目を離したせいで」「大事がなくて安心しました」と涙ぐみながら謝った。元はといえば、美嘉が一人不貞腐れてナディアを拒絶していたせいなのに、こうも謝られてしまっては美嘉がいない間ナディアがどれ程己を責めていたのかが分かって胸が苦しくなった。

 あの日、美嘉は唐突に意識を失った。医師によれば、洗脳魔術に抵抗したことにより脳への負荷が大きくかかったことによるものだという。

 現に美嘉は三日もこんこんと眠り続けていたらしい。

 いろんな人に心配をかけてしまったようで、代わる代わるやってくる見舞い客に美嘉は恐縮していた。

 今も、どこかの貴族の坊っちゃんのような格好をしたマティアスと、青マーブルのフクロウがお忍びでお見舞いに来てくれているところだ。


「もう起き上がっても大丈夫なのか?」

「平気。お医者様にも大丈夫だって言われたから」

「そうか。……身内が色々とすまなかった」


 二人を客間に通して世間話の延長のようにのんびりとお茶を楽しんでいると、マティアスは疲れたように肩を落としながら謝った。

 謝罪をされた美嘉は複雑な心境になって、持っていたティーカップをソーサーへと置く。


「謝らないでください。別にマティアス様が直接何かしたわけではないでしょう?」

「いや……そうとも言いきれない。そもそも、俺がオーバンの儀式に参加しなければこんなことにはならなかったかもしれないしな」


 大きく息をついて、マティアスは話し出す。

 それは当事者として、美嘉が知る権利があることだ。


「お前にとってははた迷惑な話だろうが……聞いておいて欲しい。今回の件、そもそも俺が花嫁を乞うというオーバンの夢物語な言葉に乗ったのは、王子としてそれを望まれたからだったんだ」


 落ち着かないのか、マティアスはアナクレトの使い魔を膝の上にのせ、そのもふもふとした背中を執拗に撫でまわす。

 ―――ロテワデム国の第二王子であるマティアスは、王太子の座をかけて、第一王子と同じように王となるための教育を受けてきた。

 それは第一王子の方がわずかに生まれが早いとはいえ、能力的にはほぼ同じだった二人の王子に対して、どちらが王になっても構わないと王が言ったからだった。

 二人の王子は仲が良く、別にどちらが王太子なっても良かった。だが、王のその一言で躍起になったのは王子の周りの人間たちだった。

 側妃腹とはいえ、第一王子派は寵愛を受けているという自負があり。

 正妃腹である第二王子派は、たった数日の差で王位から遠退くことを良しとしなかった。

 家同士の確執が大きく、年を重ねるごとに王位継承権争いが激化していくなかで、マティアスは常に綱渡りをして生きてきた。

 誰もマティアス自身をかえりみない。

 皆が第二王子という地位しか見てくれない。

 多少笛が得意だからといっても、それが王子の何に役立つと揶揄されるような場所で生きてきた。勉強が嫌で、楽に逃げれば、せいぜいが宴の一興止まりだと何度叱責を受けたことか。

 いつしか個性なんてものは必要とされていないと気づいたマティアスは、凡庸ながらも常に『王子』のあるべき姿で周囲の期待に応えることにした。

 マティアスにとって不幸だったのは、そんな折に第一王子に王から他国の姫が婚約者として与えられたことだろう。

 オーバンを筆頭に、それを知った第二王子派は焦りだした。

 数度の手紙のやり取りと、数回の訪問で、運命の歯車がカチッと嵌まったかのように第一王子と他国の姫君は惹かれあっていた。

 ならば、第二王子にも花嫁を。

 第一王子よりも秀でた花嫁を。

 歴史に名を残すような優れた花嫁を。

 凡庸な王子に与えよう。

 初めの内は自分を取り巻く第二王子派の主張にマティアスも苦笑していた。だがオーバンの魔術が完成に近づくにつれ、もし成功したら第一王子のように互いに理解しあえる人が現れるのだろうか……という思いが芽生えていたことは否定できない。

 儀式の場でオーバンがマティアスに望んだものは二つ。

 一つは、マティアスの魔力。術に行使する魔力の核をマティアスの魔力で作り上げ、その補助をするようにオーバンは自分の魔力で術を発動した。

 二つ目は、理想の花嫁を願うこと。オーバンはきちんと子が産める体で、王妃としての気品を持つ素晴らしい女性が理想だと述べた。

 儀式の核になる魔力はマティアスのものだから、マティアスの願いが強く反映される。

 だからマティアスは望んだ。

 自分の孤独を理解できる花嫁を。

 自分と同じような境遇の人間を。

 それでいてマティアスにはない、王妃たるに相応しい誇りを持てるような女性を。

 でも。


 ―――もしそんな人間がいるのなら、自分の元ではなく、その人間にふさわしいものを与えてくれる人間の元へ行くべきだ。


 マティアスが望むような人は、なおさらマティアスの側にいてはいけないと思ってしまった。マティアスは傷の舐めあいを望まないし、慰めてほしいわけでもない。

 ほんの少しよぎってしまったそれが術に反映されたのか、儀式は失敗に終わり、マティアスの前に花嫁が現れることはなかった。

 だが術を構成し発動したオーバンと、儀式の核になったマティアスには、召喚そのものは成功していることが分かったから、完全な失敗でもない。

 儀式の後、宮殿で申請した術とは全然違うものを行使したことが魔術師団長に知られ、業務詐称ということでオーバンを筆頭に儀式に関わった者たちにはひっそりと罰がくだされた。

 しかしながら、アナクレトから国王へ報告されたこの件は、後にロイクから報告された美嘉の存在によって無視できるものではなくなった。

 そういう経緯で、第二王子が関与していたこともあり、事が大きくなる前に処理するようにと国王からお鉢が回ってきた先が、アナクレトだったわけだが。


『まーまー、王子も妖精さんもさー、全部丸く収まったからいいじゃん? これでしばらくデベルナール家は身動きとれないし? 王子も別に王位継ぎたくないんでしょ?』

「お前なぁ……」


 アナクレトの取った手段は最善策とはとうてい言えないものだった。

 結果として美嘉はロイクのもとに居ることが出来ているけれど、どこか釈然としないところもある。

 アナクレトの言うとおり、一応丸くは収まってはいるので、これ以上あれこれいうのも今さらかもしれないが。


「ね、二人とも」

「ん?」

『なーにー?』


 話が一区切りついたところて、美嘉はティーカップのお茶に映る自分の顔を見つめながら、小さく口を開く。


「ロイクさんって、今何してるのかな」


 実は、美嘉が目覚めてからというもの、ロイクと顔を合わせていなかった。

 帰宅が遅いのかと思えば、そもそも帰宅している様子もなく。

 ナディアに聞けば、困ったように「そのうち帰られますよ」と言う。

 美嘉は早くロイクに会いたいのに、どういうわけか、ロイクに避けられているように感じてしまって気が塞いでいた。

 そんな胸の内を吐露していると、マティアスが首をひねっている。


「騎士団長なら王宮の医療棟で……」

『おおっと、足がすべったー』

「いたっ」


 何か話そうとしたマティアスの膝を、青マーブルのフクロウが足の爪で引っ掻いた。

 驚いたマティアスが声をあげるが、アナクレトはささっとテーブルに移動するとぽふんとテーブルの上に座った。


『彼なら王宮にいるよー。後処理とか色々してる。まだ数日は会えないんじゃないかなー』

「ほんとう?」

『ほんと、ほんと。だから君はお菓子を食べながらゆっくり待ってればいいよ』


 アナクレトがそう言えば、美嘉は少し考えた後にこくりと頷いた。

 そんな美嘉とアナクレトのやりとりを見ていたマティアスがむくれた表情になる。

 ジト目でアナクレトを見ていれば、アナクレトから美嘉に聞こえないように思念が飛んできた。


『彼女、洗脳魔術の後遺症で一部記憶が抜けてるんだよ。キシダンチョーに怪我をさせたことを覚えてないんだ。キシダンチョーに口止めされてるから、話しちゃ駄目だよ』


 マティアスは軽く目を見張ってから、痛ましそうに美嘉を見た。

 丁度美嘉は紅茶からテーブルの上のお茶菓子に目を移していて、クッキーを一枚手に取っているところだ。

 当事者の一人として、マティアスも今回の件についての一通りの話を聞いてはいた。

 もちろん、ロイクがオーバンのところへ乗り込み、オーバンに操られた美嘉によって深手を負ったことも知っていた。

 ロイクは美嘉が眠っている間、王宮の医療棟で治療を受けていた。本来ならば全治一ヶ月だったところを治療魔術で無理矢理縫合し、今は医療棟で術後の経過を見ながら仕事をしているらしい。

 アナクレトの話したこともあながち間違いではないが、真実を知らせなくても良いのかとつい思ってしまう。

 だが当のロイクが美嘉に話さないようにと手を回している以上、マティアスには何も言う権利などない。

 こんなことばっかりで、マティアスは嫌になる。

 王子とは言っても、結局主導権はいつも他人が持っていて、マティアスは常に誰かの掌の上だ。

 言いたいことをぐっと飲み込んで深々とため息をついていると、美嘉が顔をあげた。


「マティアス様、お疲れですか? 疲れたときは甘いものが良いってナディアが言ってた」


 どうぞ、と美嘉にクッキーをすすめられる。

 そんな美嘉の様子に、忘れた方がいいこともあるかとマティアスは無理矢理に納得した。

 せっかく落ち着いている美嘉を、わざわざ苦しめる必要はないのだから。

 マティアスは美嘉にすすめられたクッキーに手を伸ばす。

 テーブルの上に並べられているのは以前、料理長とナディアの三人で作ったジャムのクッキーだ。

 マティアスは初めて見るクッキーが気になっていた。ようやく食べられる機会が得られて少しだけ気分が浮上する。

 アナクレトに関しては、あくまでもここに来ているのは使い魔であるフクロウなので食べられないと気づくや、さっきからごねてマティアスの膝の上で転がっている。


『いいなー、いいなー、王子ばっかりいいなー』

「あー、邪魔」


 転がるアナクレトをマティアスは落とそうとするが、アナクレトは器用にマティアスの手を避けてコロコロと転がった。マティアスがクッキーをかじりながら舌打ちをする。

 王子とフクロウのやりとりを見ていた美嘉はほんのりと目を細めて微笑んだ。遠慮のない二人の会話は聞いていて楽しかった。

 ふとアナクレトが起き上がると、マティアスの膝からテーブルの上へと移動した。

 クッキーを食べるのかなと思って見ていると、青色マーブルのフクロウはぽてぽてと歩いて美嘉の前までやってくる。


『そういえばさー、君さー』

「はい」

『なんだかんだとこの世界に馴染んでるけどさー、元の世界に帰りたいって思う?』


 アナクレトのこの場に、マティアスが息を飲んだ。

 まだ咀嚼できていなかったクッキーが、マティアスの喉元を過ぎようとして、喉につまってしまう。


「ごっほ!! げっほ!!」

「マティアス様、大丈夫っ?」


 むせたマティアスに美嘉が驚いて、ソファから腰を浮かせた。

 マティアスは大丈夫だと美嘉を視線で制し、紅茶を涙目であおった。


「……はぁ。悪かった。続けてくれ」

『王子、動揺しすぎぃー』


 ケラケラ笑うフクロウを、マティアスは軽くこづく。

 ぽてんと転がったフクロウは、そのままテーブルに寝そべると、もう一度美嘉へと言葉を投げかける。


『王様から言われたんだよねぇー。もし本当に異世界から来た子なら、元の世界のご両親とか心配しちゃうでしょ? もし元の世界に戻せるのなら、どうにかしてやれないかってさー。ひじょーに、かなーり、めんどーだし、限りなく不可能に近い気もしてるけど、もし君が望むのなら、その方法を探してみるよ?』


 アナクレトの言葉に美嘉は目を丸くした。

 それから困ったように眉を下げる。


『変な顔をしているね?』

「……お父さんと、お母さんのことを考えれば、帰らないとって思う。だけど私、もう一度あの世界で生きていける気がしなくて……」


 心底困っているという顔の美嘉に、マティアスは眉をひそめた。


「どうしてだ? そんなにミカの世界は過酷なのか?」

「ううん。むしろこの世界より生きやすいんじゃないかな。便利なものが多いし。だけど私……人生間違えちゃったから」


 マティアスやアナクレトの視線を真っ直ぐに返せなくて、美嘉は窓の外を見た。

 明るい太陽の日差しが、ガラスの窓を通して室内に差し込んでいる。

 今の美嘉にとって、その明るさは舞台のスポットライトより何倍も魅力的に見えた。


「マティアス様には話したよね、私はバレエ……踊ることしか価値がないって」

「あ、ああ」

「私、本当に踊ることしかできないの。それ以外の生き方ができないの。それなのに私、人生をかけた大舞台で失敗したの。そんな私が元の世界に戻っても、きっと両親の期待と、現実の厳しさにつぶれてしまうと思う」


 寂しそうに呟いた美嘉は、視線をマティアスたちに戻すと柔らかく微笑んだ。


「でも私、この世界でなら、きっと、もっと、いろんなことができる気がするの。ロイクさんが、ナディアが、お屋敷の皆が、私の知らないことをたくさん教えてくれる。一からきっと、やり直せると思うんだ。……私、今度は妖精じゃなくて、ちゃんとした人間になってみたいの」


 そう言ったはにかんだ美嘉は、どこか吹っ切れたような顔をしていた。

 普通だったら、生まれた場所に未練が残るものだと思うのに、美嘉は事も無げに今生きる場所を、生きたい場所を選んだ。

 美嘉にはバレエしかなかった。

 それは真に、身、一つで異世界での人生を決められるほどに、春川美嘉という人間を形作っていた。

 だから美嘉は、アナクレトの問いに対して、こう答える。


「お父さんやお母さんには申し訳ないけど、私はここで生きてみたい。たとえ帰る方法があったとしても、私はこの世界を選ぶと思うよ」


 黒曜石の瞳が、美嘉の決意を宿してきらめく。

 美嘉のその意思の強さに、マティアスは眩しげに目を細め、アナクレトは興味深そうににやにやと笑っていた。

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