第24話 シャッセを遮る黒い影5

 階段を駆け降りる時間すら惜しいと思ったロイクはその脚力に任せ、ほぼ垂直であった階段を地上から地下めがけて飛び降りた。

 一歩でも間違えば天井に頭を強く打ってもおかしくはないような場所で、ロイクは躊躇しなかった。

 背後で共犯者であったヴァネッサを縛り上げたアナクレトの称賛の声があがったが、そんなものは置き去りにした。

 地下へと降り立ったロイクはゆっくりと視線を上げる。

 最初に目に入ったのは、緑の髪をした魔術師。

 そして、無防備にも白磁のようにまろやかな背中をさらして、はらはらと大粒の涙を流す美嘉の姿。

 ……人間というものは、感情の臨界点を突破すると、思考が突如凪ぐ瞬間がある。

 ロイクは今まさに、美嘉のそのあられもない姿を見た瞬間に、その境地に達した。


「……オーバン・デベルナール。ミカを、返してもらう」


 口からこぼれた言葉に、感情は乗っていなかった。

 オーバンを見据え、ロイクは立ち上がる。

 対するオーバンは堂々と居直った。


「返すも何も、この娘は元々我々のものだ。私が召喚した。私に所有権はある」

「ミカは物ではない。所有権など、誰も持たない」

「綺麗事を。そう言っていられるのも今のうちだ。―――さぁ、名乗れ。忘却すべき汝の名を」

「は、ぁ、……っ」


 美嘉の喉から言葉が溢れ出そうとする。

 言ってはならない。

 それを言ったら、もう後戻りできない。

 本能的に察した美嘉は、懸命に言葉を飲み込んだ。

 霞がかる脳内の霧を打ち払うように強く目をつぶる。

 息をすれば言葉がつるりと出てしまいそうで、細く、浅く、呼吸を繰り返した。


「オーバン、今すぐ魔術を解け」

「貴様の頼みを聞く筋合いはないな」

「お前がやっていることは婦女子誘拐に該当する犯罪だ」

「犯罪? 笑わせる」


 オーバンは面白そうに口角を上げると、ロイクの方を見た。


「それを言うのなら、貴様こそ窃盗で捕縛されるべきでは? ロイク・ディグリー。貴様は私たちの手元に落ちるはずだった異界の姫君を、横から掠め取ったのだから」


 オーバンの言葉に、ロイクは眉間に皺を寄せる。

 確かに、美嘉を召喚したと主張する魔術師側から見たらそうかもしれない。

 だが、その事に対して、ロイクは後ろめたく思うことをしなかった。

 むしろ。


「それは人違いだろう。お前たちの元に落ちるはずだったというのなら、俺の元に落ちてきたミカとは別人だ。俺には、魔術師の使う魔術に干渉できるような力量はない」


 平然と、そんな事を言い出した。

 さしものオーバンも一瞬だけ目を見開くが、すぐに表情を取り繕う。


「ぬけぬけと……。だが、そう主張するには少し遅かったな。この娘は間もなく我が手中に堕ちる。そうすればお前の証言は全て裏返されるだけだ。全ては私に都合が良いように動くだろう」

「……彼女に何をする気だ」

「なに、都合の悪いことは忘れてもらうだけだ」


 オーバンの足元が輝く。

 必然と、美嘉の足元の魔法陣も輝きを増した。


「述べよ、述べよ、述べよ。汝が忘却すべきもの。汝の名を捧げよ」

「は、る……、……、……っか、っ」

「オーバン……!」


 苦しそうに美嘉が声を絞り出す。

 美嘉も耐えている。

 ギリギリのところで、オーバンへ抵抗している。

 美嘉の努力を無駄にしまいと、ロイクは即座にオーバンの儀式を邪魔するべく動いた。

 対するオーバンは、ロイクが邪魔をすることなど見通していた。冷静に、美嘉にかけている蔦の魔法をロイクにめがけて伸ばしてくる。

 ロイクは腰から剣を引き抜くと、魔力で出来た蔦を切り裂いてみせた。


「ほう、さすがは騎士の長。だが、これはどうだね?」


 オーバンが何事かを呟く。

 葉のような形をした、純粋な魔力の塊が無数にオーバンの傍らに出現する。

 風に踊るかのようにひらめいて、ロイクの方へと真っ直ぐに魔力の葉が滑空した。


「小賢しい」


 ロイクは剣を横に凪いだ。

 純粋な魔力を、ロイクは単純な剣圧のみで散らした。

 これにはオーバンも目の色を変えた。


「魔力を使わずに打ち払うとは……騎士団長の名は伊達ではない、か」

「ミカにかけている術をほどけ」


 難なく背を向ける美嘉のすぐ後ろまでたどり着いたロイクは、オーバンに向けて剣を真っ直ぐに突きつける。

 脅しのようなそれに、オーバンは喉の奥をくつくつと震わせた。

 不審な態度のオーバンに、ロイクは眉を潜めた。


「何を笑っている」

「確かに貴様の剣技は脅威だが……いいのか? こんなに近づいてしまって。―――剣を拾え、刺し殺せ」


 オーバンの声にロイクは周囲に視線を配る。

 オーバンの命が誰へのものかを認識するよりも早く、ロイクの視界で小さな黒い頭が動く。

 美嘉だと思った。

 それが油断だった。

 トンっ、と軽い衝撃。


「……ミカ?」

「ぁ……、あ……っ」


 ロイクの間近で、美嘉が唇を震わせる。

 美嘉にも何が起きているのか分からないという顔をしていた。

 涙をいっぱいにためた黒曜石の瞳。

 やがてその瞳が、自分の手元に向けられる。

 美嘉の手から短剣の柄が離される。

 短剣は―――ロイクの腹に、深く突き刺さっていた。


「ろいく、さん」

「ミカ」

「わた、し」

「泣くな、ミカ」


 黒曜石の瞳がロイクの琥珀の瞳と交わるよりも早く、涙が頬を滑り落ちる。

 美嘉の瞳に、驚愕と、恐怖と、絶望とがない交ぜになって浮かぶ。

 それは行き場のない感情になって、美嘉の中に滞った。


「わたし、わたし……っ、ああ、ごめんなさい、ごめんなさい……! ちがうの、ちがうの……っ、わたし……っ」

「ミカ」


 自分が何をしたのか気づいた美嘉が、かたかたと震えながら後退しようとして、かくりと膝が折れる。

 オーバンの拘束は未だに効いているようで、美嘉はそれ以上動くこともできず、ただ目の前で銀の短剣に伝うロイクの赤い鮮血が流れていくのを見せつけられる。

 目を閉じるのも許されない。

 犯してはならない一線を、美嘉は越えてしまった。

 全身を頼りなく震わせる美嘉に、ロイクは手を伸ばした。


「ミカ、落ち着け。平気だ」

「ごめんなさい、ごめんなさい……っ」


 ロイクは半狂乱になったミカの腕を引き、自分の方へと寄せる。大丈夫だと繰り返し言って聞かせるが、美嘉の耳には入らない。

 そんな二人を嘲笑う声が響く。


「くはははっ、無様だな。その娘は諦めて貴様にくれてやろう。せいぜい墓守がわりに連れていけ」

「待て、オーバン……!」

「計画はまた一から立て直せば良い。さて、私は一足先に王宮へ戻ることにしよう。貴様が死体となって戻ってくるのを楽しみにしている」


 そう言ってオーバンは、泣きじゃくる美嘉と、怪我を負ったロイクの横をすり抜けるようにして階段へと向かう。

 ロイクは腹の短剣をそのままに、落ち着かない美嘉の腰を抱き寄せながら、視線だけは鋭くオーバンへと向けた。

 平然と立ってはいるものの、ロイクの額には脂汗が滲んでいる。

 少しでも動けば内蔵が裂け、短剣を抜けば失血してしまうのは目に見えていた。

 オーバンはそんなロイクを嘲るように嗤う。


「残りの余生を地下で楽しむといい」


 そして悠々と階段を上ろうとし―――


「あ、やっと帰るの? 待ちくたびれちゃったよ」


 行く手を遮る声に、オーバンは顔をあげた。


「アナクレト……!」


 聞きなれた声はまさしく彼の魔術師のもの。

 階段の中腹ほどで座っていたアナクレトと視線が交わったオーバンは顔を強ばらせる。

 対するアナクレトは、のんびりと待ち構えていたようでにこにこと笑っていた。

 咄嗟にオーバンは魔術を行使しようとする、が。


「あくびが出ちゃうよ」


 アナクレトがコツコツと階段を指で弾くように叩いた。

 オーバンが動くよりも早く、彼の足元に魔法陣が浮かび上がる。

 そしてそこから、オーバンが美嘉に使用したものと同じ魔力の蔦が伸び、オーバンに絡みついた。


「なっ……!」

「油断したね、オーバン。キシダンチョーだけでこんな短時間でここまでこれる訳ないじゃないか。それに僕がなーんの保険もなく君の前に餌をぶら下げるわけないじゃない?」


 よっこいしょ、と立ち上がったアナクレトをオーバンは睨む。


「餌、だと……? どういうことだ」

「マティアス様のついでに、君にキシダンチョーの妖精さんを会わせたことだよ。ちょっと最近、君たちの動きが派手すぎるからお灸を据えなさいって陛下に言われちゃって。いやー、さすがに子飼いの子だからって、王宮の魔術師使っちゃったのは不味かったんじゃない? キシダンチョーのお屋敷を襲わせたの、あれが不味かったよ」


 あっけらかんと言うアナクレトに、オーバンはギリッと奥の歯を噛みしめる。


「あれは私の意図したことではない。馬鹿共が勝手に暴走しただけだ」

「だとしても。君がちゃぁんと手綱握れてなかったのが駄目だった。あれで君達の動きも落ち着けば良かったけど……この状況下で君自身が動くのは愚策だよ。ねーねー、そんなに第二王子にお嫁さんあげたかったの?」


 純粋に疑問に思うアナクレトを、オーバンは忌々しそうに睨みつけた。


「……たかが数日違いの差。全てを平等とし、より優秀になった王子を王位につけると仰ったのは陛下だ。それなのに、第一王子に有力国の姫を与えた。それは果たして平等と言えようか」

「別にお嫁さんくらいいいじゃない」

「よくはない。ただでさえあの凡庸な王子は、第一王子のように優秀とは言い難いと言うのに。これでは王位から遠退くばかりだ……!」

「わぁー、それ、第二王子が聞いたら泣いちゃいそー」


 アナクレトが「およよ」と泣き真似をすれば、オーバンはさらに怒りの眼差しをアナクレトへと向けた。


「あの凡庸な王子を王位につけようとしているのだ。むしろ感謝されてもいいほどではないか」

「でも、それを第二王子が望んでいるかどうかは別だよね?」

「そんなものは知らない。正妃腹から生まれたというのに、側室の王子に王位を譲らざるをえない不名誉に比べれば、全てがどうでもいいことだ」


 第一王子と、第二王子の、王位継承権に関する派閥争いの発端はそこにあった。

 現王の正妃の生家であるデベルナール家は自尊心の高い人間が多い。生まれの順で王位継承権が得られないことは元より、己の一族から輩出された王子が凡庸であることそのものが許しがたかった。

 そんな王子を特別にするための計画。

 それが、今回の異界の姫君を花嫁に据えることだった。

 異界の人間の存在なんて、もはやお伽噺の領域だ。

 だが、かすかな希望を実現させるため、オーバンは何年もかけて召喚魔法の研究を続け、ようやくその成果があげられたと思った。

 それなのに。


「……どこで私は間違えた? 術は成功したはずだった。通常の召喚魔法のように手繰り寄せ、空間を越えた感覚はあった。だというのに、異界の娘はあろうことか、凡庸王子ではなくあの男の元に堕ちるとは……!」


 オーバンの魔力が怒気を孕んでゆらめく。

 アナクレトは目をすがめると、指を鳴らした。

 魔力の蔦が増え、オーバンを魔力ごと抑え込む。


「ぐぅ……っ、貴様、何を……!」

「君の独白聞くの飽きちゃった。ま、これからじっくりしっぽり根掘り葉掘り事情聴取されるだろうし、君のそれ、僕じゃない人にでも言っておくれよ」


 それだけ言うと、アナクレトはオーバンのように、自分の生み出した魔力の蔦に向かって命じる。


「拘束。階段上って、次の命令があるまで待機。魔力も封じるよ」


 オーバンの身体に魔力の蔦がこれでもかというほど絡みつく。

 力加減など無視して締め付けられたオーバンの身体から力が抜け、ぎこちない動きで階段を上り始める。

 この拘束魔術は下手に身体に力をいれると、筋肉や骨を痛める。その上、アナクレトは自分の魔力ではなく、オーバンの魔力を元に術を構成しているから、オーバンの魔力にまで制限がかかってしまった。

 オーバンが使用していた拘束魔術よりも何倍も上手なこの術は、魔力を抑制された今、オーバンにとって解呪が難しい代物だ。

 忌々しそうな視線を最後までアナクレトに向けたまま、オーバンは階段を上っていく。

 オーバンは捕縛された。

 今回の一連の騒動は、後は王の判断にて決着がつくだろう。

 さて後は。


「ごめんなさい、ごめんなさい……」

「泣くな、ミカ」


 傷を負った、少女と騎士のことだけだ。



 ◇



 手を震わせ、黒曜石の瞳からはらはらと涙を流す美嘉の姿はとても痛ましかった。

 美嘉の身体を拘束していた魔力の蔦は、アナクレトがオーバンを拘束した瞬間にかき消えた。

 腰が抜けるように床に座り込み、ただただ涙をこぼす美嘉をあやすように、ロイクはそうっとその身体を包み、頭を撫でてやる。


「ごめんなさい、ごめんなさい……っ」

「あやまるな、ミカ。俺は平気だ」

「嘘……っ! だって痛いもの! それは、痛いのよ!」


 短剣で突きつけられた恐怖を覚えている。

 その冷たい刃が自分の肌を想像するだけで、身体の芯の部分から震えが起こる。

 想像するだけでもそうなのに、短剣が深く突き刺さっている状態が「平気」なわけがなかった。


「ロイクさん……っ、ごめんなさい、私、あなたを、傷つけた……っ」

「大丈夫だ。これはミカの意思ではないことは分かっている。それにこれほどの怪我、言うほど痛くはない」

「そんなわけない……!」

「本当だ」


 ロイクはひどく優しい声で美嘉に声をかける。

 それでもなかなか聞く耳を持たない美嘉に、困り果てる。

 口が達者ではないロイクが美嘉を落ち着かせるには言葉がこれ以上見つからなかった。

 実際のところ、このまま治療を受けられない状態が長引けば、ロイクは再起不能になりかねない。

 今だって、呼吸をする度に傷口が抉られたかのように痛んでいる。

 本当なら美嘉を抱き上げてすぐにでもこんな場所を出たかった。

 でも腹に剣を刺したままでそれをするには、それなりの失血を覚悟しないといけない。

 それに、取り乱している美嘉にこれ以上血を見せたくはなかった。

 言葉が億劫になったロイクは、少々強引な手を使うことに決めた。

 泣きじゃくる美嘉の顎を少しだけ上向ける。

 涙の膜がはられた黒曜石に、ロイクの顔がめいっぱい映った。


「ミカ」


 ロイクが美嘉の名前を呼べば、美嘉の意識がこちらを向く。

 くしゃりと歪んだ表情。すぐに「ごめんなさい」を紡ごうとした唇をふさぐように、ロイクは口づけた。

 呼吸が、止まる。

 黒曜石の目が見開かれる。

 わずかにロイクの目元がゆるんだ。

 意識してロイクは美嘉の唇を食む。

 美嘉の身体が震えた。

 僅かに血の味がする唇は、美嘉がオーバンに抵抗した証。

 こんな時でなければ、ロイクは柔らかな美嘉の唇を存分に堪能していたかった。

 ロイクは美嘉が苦しくならないように、余裕を持たせて唇を離す。

 美嘉は今、何が起きたか分からずに、自分の唇にそっと手を当てた。


「ろいく、さん……?」

「落ち着いたか、ミカ」


 戸惑いながら、美嘉は頷く。

 落ち着いたかどうかと聞かれても、美嘉の心臓は激しく脈打ち、喉も身体も震えている。

 それでもようやく、ロイクの言葉が、言葉として美嘉の中に入ってきた。


「ミカ。助けに来るのが遅くなってすまなかった。不安だっただろう、怖かっただろう。……守ると言っておきながら、俺は不甲斐ない男だな」


 ロイクの独白に、美嘉は首を振って否定した。


「そんなこと……! 私が勝手にお屋敷を出たのが悪かったんです! 私が、お屋敷を出たいと思ったから……!」

「そんなことはない。窮屈な思いをさせてしまっていた俺に非がある。どうか許してほしい」

「どうしてロイクさんが謝るの……! 悪いのは私なのに……!」


 美嘉の表情がくしゃりと歪む。

 せっかく止まった涙が、また溢れだした。

 ロイクはその涙を、皮の厚い指先でそっと拭う。


「俺が悪い。こうなることが分かっていてお屋敷にお前を留めていたのに……結局、俺はお前を守れなかった」


 ロイクの声に後悔と自責の色が混じる。

 それに気がついた美嘉は、多少くらくらしていようとかまわず、必死に首を横へと振った。


「違うんです、違うんです。私が、ロイクさんを、ナディアを、お屋敷の皆を、信じきれなかったんです。だから、外に出ちゃ駄目だって言われて、一人で拗ねて……外の世界見たさにアナクレトさんの言葉に手を伸ばしてしまった。それがいけなかったんです」


 美嘉は懺悔をするようにその胸の内を吐露する。

 美嘉だって、こんなことになるのなら、外に出ようと思わなかった。

 ロイクはきっとこうなることを見越していたから、美嘉のお願いを駄目だと言ったのだ。それに不満を持ったこと自体が、そもそもの間違いだった。


「ごめんなさい、不安になってしまって。ごめんなさい、ロイクさんも、お屋敷の皆も、とても、優しくしてくれていたのに……!」


 嗚咽を漏らしながら謝り続ける美嘉の肩に、ロイクは自分の頭を乗せた。

 ずしりとした重みに、美嘉は震える手でロイクの服を掴む。


「俺も、言葉が足りなかった。もっと言葉を尽くすべきだった」


 美嘉の耳元で囁くロイクに、美嘉はゆるゆると頭を振って否定した。

 ロイクは不器用なりに言葉を尽くしてくれていた。

 それを汲み取れなかったのは美嘉だ。

 だから、ロイクが謝るのはお門違いだ。

 気を抜けば意識が離れていってしまいそうな状態で、美嘉は必死にロイクにすがりつく。

 痛かった。

 身体が張り裂けそうなくらいに痛かった。

 オーバンに対峙する恐怖はいつの間にか和らいでいたけれど、ロイクに与えてしまった痛みがそっくりそのまま美嘉に返っているかのように、心臓が弾けそうだった。


「ごめんなさい……痛い、でしょう……」

「ミカ?」


 うわ言のように、謝罪を繰り返す。

 まるで身体が痺れてしまったかのように、全身の感覚がなくなっていく。

 明滅する視界の中、美嘉は必死にロイクの首へと腕を回した。

 二人の距離がぐっと縮まって、身体が密着する。

 美嘉は大きく息を吸った。ロイクの匂いだ。ロイクの腕に包まれるだけで、ほっとする。


「ロイク、さん」

「ミカ、どうした」

「私を、離さない、で。私を、見捨てないで」

「何を今さら。ミカこそ、俺のもとから離れていくな。お前の帰る場所はここだ。ここ以外に、あり得ない」


 ロイクの言葉に、美嘉は安堵する。

 そこが限界だった。

 美嘉の身体から力がくたりと抜ける。

 明滅していた視界は白く染まり、手足の感覚が抜け落ちる。


「ミカ? ―――ミカ!」


 ロイクが美嘉を呼ぶ声が聞こえる。

 美嘉はその事が嬉しくて、わずかに微笑んだ。

 ロイクの必死の声が、美嘉の身体にじんわりと広がっていく。

 ロイクが側にいるだけで、美嘉は満たされた気分になる。

 傷をつけてしまったことが、美嘉の心に痼として残るけれど、でもそれはまるで美嘉に付けられた楔のようにも思われた。

 それはきっと、この世界で生きていくための楔。

 ロイクの隣にいるための、枷だ。


「ごめん……な、さい……」


 人を傷つけることはこんなにも痛い。

 それは覚悟の必要なことだ。

 白い世界の向こうで、「滑稽ね」と笑った少女の顔が浮かんだ。

 彼女はどんな思いで美嘉が堕ちる瞬間を見ていたのだろう。

 コンクールの後、彼女はどう思ったんだろう。

 知りたいけれど、それを知る術は美嘉にはなかった。

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