第23話 シャッセを遮る黒い影4

 くらりとした感覚に視線を上げれば、また見知らぬ部屋に立っていた。

 窓はなく、暗い部屋だった。

 かろうじて足元に輝く魔法陣で木造の建物らしいことが分かったけれど、光が収束するにつれて、視界が再び闇に閉ざされる。


「ここは……」

「どこでもいいでしょ。……オーバン様、こちらへ」


 美嘉の問いをヴァネッサは切り捨てると、そのままオーバンを連れて、部屋の扉を開けた。

 扉の奥には素朴な椅子と机、そして窓が見えた。

 オーバンはヴァネッサと共に部屋を出る。

 だが、美嘉は無言の抵抗として、二人に着いて行こうとしない。

 それに気づいたオーバンが美嘉を一瞥する。


「着いてこい」

「嫌です」

「着いてこい」


 一回目よりもやや強い口調でオーバンが命じると、美嘉の足が勝手に動き出す。

 まるで操り人形のような状態に、美嘉は唇を噛んだ。


「抵抗するだけ無駄だ」


 鼻で笑うオーバンを、美嘉は睨みつけた。


「帰してください。この、変な魔法も解いてください」

「馬鹿なことを、お前が帰る場所はここだというのに」


 そう言って、オーバンはヴァネッサの後ろをついていく。

 ヴァネッサは台所らしき場所の床の収納庫を開けた。

 収納庫に入れられていた荷物を取りだし、さらに収納庫を底を外す。

 その下には、階段があった。

 明らかな隠し部屋に、美嘉の不信感が増す。


「降りろ」


 行きたくないのに、美嘉の足は勝手に動き出す。

 するすると足は動いて、ぎこちなくも一歩ずつ暗い階段を降りていく。

 ヴァネッサが魔法で明かりを灯す。

 そこには沢山の本や、アナクレトの部屋にも置いていた器具のようなものがきっちりと整頓されて置いてあった。


「オーバン様、ここなら魔力が外に漏れることはありません」

「ご苦労。後はこちらでやる」

「はい」


 ヴァネッサはそう言って、降りてきた階段を上ろうとした。

 だけど、一瞬ためらったようにオーバンを見る。


「あの、オーバン様」

「なんだ」

「これが終われば、私の婚約者の、魔術師としての名誉をお守りくださるんですよね」

「そのことか。彼の者についた経歴の傷は消すという約束だったな。問題はない」


 オーバンがヴァネッサを振り向くことなく答える。

 オーバンの答えに満足したらしいヴァネッサは、今度こそ地下から去っていった。

 取り残されたのは美嘉とオーバンの二人だけ。

 魔法の明かりで明るい部屋の中、美嘉はオーバンの顔を見据えた。


「こんなところにまで連れてきて、私をどうするつもりなんですか」

「ふん。愚問を。先も言ったが、躾るだけだ」


 オーバンは気丈に振る舞う美嘉に淡々とした視線を送る。

 そして美嘉に命じた。


「背を向けよ」


 美嘉のつま足がくるりと後ろを向く。

 オーバンの顔が見えなくなる。


「ひざまづけ」


 かくん、とひざから力が抜けた。

 ぺたんと座りこんだ美嘉はぎこちなくもなんとか首を後ろに向けると、オーバンを見た。

 そして、オーバンの手の中にきらめく銀色を見つけて、血の気が引いていく。


「そ、れは……」

「恐ろしいか? 少々粗っぽいが、今からお前に隷属印を刻むには致し方あるまい」

「や、やめて……っ」


 さすがの美嘉も刃物を見せられて落ち着いてはいられなかった。

 美嘉は短剣から逃れるように、必死に立ち上がろうとする。

 けれど、足はまるでコンクリートで固められたかのように重たく、微動だにすらできない。

 そんな美嘉を、オーバンは嗤った。


「安心しろ。従順になれば、それなりの待遇を約束しよう。なにせ、未来の王妃だからな」

「そんな日はきません……! 私の居場所はそこじゃないもの……っ!」

「愚かだな。お前の居場所は最初から我が手中にあり。―――腕を床に。拘束せよ」


 ずるりと、美嘉の身体を細長い何かが這う。

 それは美嘉の身体を無理矢理操る、魔法の蔦だった。

 蔦は美嘉の指先まで伸びると、その手を操り、地面に手をつけ、背筋を伸ばすような姿勢に固定した。

 怯える美嘉に視線を落としたオーバンは、ふっと鼻で笑った。


「魔力なしな上にこうも反抗的では見映えが悪いな……。だが、失敗作であっても、隷属印を刻むついでに記憶も消しておけば傀儡としての役割は果たせよう。お前という人間は、今日をもって生まれ変わるのだ―――」


 その狂喜に満ちた暗い瞳の色に美嘉の身体が震えた。

 オーバンの言葉が美嘉の胸をずたずたにする。

 オーバンは美嘉の全てを否定する。

 何も見ない。

 何も省みない。

 美嘉に対して心を割かない。

 オーバンの心無い言葉を「痛い」と感じたのは、美嘉がこの世界で、ロイクとナディアから感情や想いを学んだからだろうか。

 いつか、ロイクが言っていた「誰かの悪意」をこうやって「痛い」と感じていたら、未だ美嘉は舞台で踊り続けていただろうか。

 そんな詮無いことを思ってしまう。

 目の前の現実がどこか浮世離れしてしまって、一瞬だけ意識を別のことに向けた美嘉。

 そんな美嘉の耳に、ビリっと絹が裂かれるような音が聞こえた。

 同時に、美嘉の背中を冷たい風がすぅっと撫でた。

 白く、ほっそりとした背中が、暗い地下室の中に浮かび上がる。

 美嘉の服が、切り裂かれた。

 その事実に動揺した美嘉が息を飲む。


「ほう……肌は綺麗だな。貴族の令嬢にも負けず、劣らず。顔はそれなりだが、ドレスに映えそうな体つきをしている。……そのまま大人しくしていろ」


 カラン、と軽い音がする。

 オーバンが短剣を床に置いた音だ。

 力なく項垂れる美嘉の足元に、魔法陣が浮かび上がる。

 美嘉の、肩甲骨のあたりに生温かいものが這う。

 ぞわっと、鳥肌が立った。

 これからされることを想像し、美嘉は気丈にも身体の震えを唇を噛んで堪える。

 オーバンの言葉から、美嘉は自分の身に起きていることをなんとなく察していた。

 おそらく、以前教わった『隷属印』というものを刻まれるのだろう。

 それが刻まれてしまったら、もう後戻りができないというようなことをロイクから聞いていた。

 主人となる人物の命令には絶対遵守。

 逆らえば、死にも等しい苦痛を味わう。

 そうなればきっと、二度と美嘉は自由になれない。

 バレエを踊ることも。

 誰かと笑うことも。

 ロイクの体温を感じることも。

 全部、できなくなってしまう。


(そんなのは嫌……!)


 踊りたい。

 跳びたい。

 あの人の手を取りたい。

 不器用ながらも、丁寧に言葉を掛けてくれる人がいる。

 何事にも無関心だった美嘉の心にするりと寄り添ってくれた。

 それは、美嘉がバレエと同じくらい、大切にしたいもの。

 ようやく手のひらにすくえるようになったものをこぼしてしまうことが、美嘉は嫌だった。


「っ、放して! 私に、触れないで……!」

「騒がしい」


 その大人しそうな見た目に反して、本気で騒ぎ始めた美嘉に、オーバンは苛立ったように吐き捨てた。

 あろうことか、美嘉のたおやかな首をその手で締め上げる。

 気道を圧迫され、美嘉はうめいた。


「くる、し……っ」

「外に声が漏れないとはいえ、騒がれるのは気に障る。―――声を奪え」


 光の蔦が美嘉の喉に絡みつく。

 ぞわりとした感触に悲鳴を上げようにも、美嘉の喉からは空気が抜けていくだけ。

 人魚姫の海の魔女のように、オーバンは美嘉から声を奪ってしまった。


「……」


 ぽたぽたと。

 美嘉の頬を大粒の涙がこぼれ落ちる。


(怖い、怖いよ、ロイクさん)


 美嘉は静かに涙を流しながら、唇を噛んだ。

 血の味がにじむ。

 唇だけじゃない。

 どうしようもない現実に傷ついて、心も血を流している。


「……先に記憶を消した方が良いか。馬鹿な娘だ。騒がなければ、もうしばらくは己との別れを惜しめたものを」


 オーバンが美嘉の前へと回り込む。

 涙にまみれた黒曜石の瞳の前に、オーバンの手が翳された。

 ロイクに会いたい気持ちばかりが募る。

 ロイクがいれば、きっとどんな不安も払拭してくれたのに。

 涙の向こうに、恋しい人の姿が滲む。

 外は危ないと言ったロイク。

 ロイクはきっとこういうことを懸念してたのに、それにへそを曲げて、屋敷の内側とはいえ一人でふらふらとしていたのは美嘉だ。

 これはきっと罰。

 あれほど美嘉の身を案じてくれていたロイクを信じきれなかった美嘉への、神様からの罰だ。

 屋敷の誰にも、何も言わないで、アナクレトの手を取ってしまったこと自体が間違いだった。

 きっとナディアも、美嘉が屋敷からいなくなったことに気づいていないはず。

 そんな状況下で、助けを期待するのは難しい。

 美嘉は目を閉じ、力を抜いた。

 もう、どうにもならない。


「汝は忘却する。その名を述べよ」


 美嘉の頭に霞がかかる。

 美嘉はどうしてか、オーバンの言うとうりに名前を言わなければと思ってしまった。

 自然と口が開く。

 それまで美嘉の喉に絡みついていた蔦がするりと下がった。


「わ……たし、の……名前……」


 言ってはいけない気がする。

 だけど言わないといけない気もする。

 どちらが正しいかも曖昧なまま、自分の本心とは裏腹に、言葉が喉から絞り出されていく。

 震える声で、美嘉が答えようとした瞬間―――


 ダァンッ


 派手な音を立て、何か重いものが地下室に降り立つ。

 オーバンが顔をあげる。

 そして忌々しげに顔を歪めた。


「……オーバン・デベルナール。ミカを、返してもらう」


 耳に心地よい低い声。

 美嘉の脳裏にかかっていた霞が消えていく。

 美嘉はゆっくりと首を巡らせた。

 地下と地上を結ぶ階段を、まるで飛び降りたかのように、膝をついていた騎士が顔を上げた。

 黒い騎士服を纏う、アッシュグレーの髪の男。

 その琥珀色の瞳が、獰猛な獣のように金色に輝く。


「ロイク……さん……」


 望めないと思っていた待ち人に、美嘉は胸の奥がいっぱいになった。

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