第26話 異世界へのグラン・パ・ドゥ・シャ2

「ロイクさん、おかえりなさい」

「あぁ、帰った」


 数日ぶりに会ったロイクは少しだけ窶れて見えた。

 それでもロイクはしっかりとした足取りで屋敷の玄関をくぐると、出迎えた美嘉をそうっと抱きしめる。

 唐突なロイクの抱擁に美嘉は一瞬驚いたけれど、久しぶりのロイクの体温が嬉しくてつい猫のようにすり寄った。

 まだ夕食の時間には随分と早い時間だ。名残惜しく感じながらも、美嘉はおもむろに抱擁をほどくようにロイクにお願いして、談話室でゆったりと過ごすことにした。

 美嘉が先に談話室のソファに座っていると、着替えたロイクが後から入ってくる。そして美嘉の隣に腰を下ろすと、美嘉の腕を引いた。美嘉はほんのりと表情をゆるめて、傍らのロイクへとそっと寄り添う。

 執事のサロモンが簡単な軽食と飲み物を用意してくれた。美嘉のティータイムのために焼かれた焼き菓子と紅茶、それからロイクのための軽い酒が饗される。

 ロイクはお茶の準備をしたサロモンを下がらせると焼き菓子に手を伸ばした。フィナンシェを一つ摘まむと美嘉の口元に運ぶ。

 美嘉はちらりとロイクを見上げてから、ぱくりと一口齧った。

 咀嚼して飲み込むと、またずいっと口元に寄せられる。また齧って咀嚼する。

 しばらくされるままに餌付けされていたけれど、三個目を食べた辺りで美嘉はストップをかけた。


「待って、ロイクさん。この時間に沢山食べると、お夕食が食べられなくなっちゃう」

「む」


 ロイクは四個目に伸ばそうとした手を降ろそうとしてさ迷わせると、やがてゆるりと美嘉の腰に腕を伸ばして抱いた。

 そうしておもむろに話の繋ぎにと、久方ぶりに耳馴れてしまった台詞を告げた。


「不足はないか」


 いつもの言葉。

 でも違うのは、美嘉の答えだ。


「あります」


 ロイクは美嘉の言葉に、眉間の皺を深くする。


「……粗相があったのか。俺が留守の間に、何か」

「違うよ。お屋敷の人は皆優しいよ」


 美嘉はロイクの頬をそっと挟んで自分の方へと向ける。こんな風に誰かに触れる事すら美嘉にとって新鮮なことだ。

 ロイクはいつも必要なことは真っ直ぐに言葉を伝えてくれるし、美嘉に優しく触れてくれる。

 美嘉の両親はいつも忙しそうだった。美嘉はそれが当たり前だと幼いながらも理解しているような子で、美嘉に習い事をさせたきっかけもその時間に働きに出るためだったのを知っていた。だからか、小さい頃ですら触れあうようなことをしてもらった記憶があまり美嘉にはない。

 その上、美嘉の母は劣等感を抱えて生きてきたような人だった。

 何をするにしても中途半端、特別に出来が悪いわけでも、出来がよすぎるわけでもない。

 その事がコンプレックスだったのか、幼い美嘉が母親の希望で始めたクラシックバレエでその頭角を表した時、それはもう喜んだ。それこそ母は美嘉がコンクールで優勝してから、仕事を減らして美嘉の全面的なバックアップに回るようになったくらいに。

 美嘉にとって不幸だったのは、その行き過ぎた喜びが美嘉への過度な期待になってしまったことだ。両親は美嘉の才能を伸ばすためなら全面的に助力を惜しまなかったが、同じくらい厳しく接して甘えを許さなかった。

 それが、ロイクにこうして抱きしめられるようになって、こんなにも人肌とはほっとするものだと知った。

 十七年分の甘えをロイクに受け止めてもらえると、心のどこかで思っていた。

 でもそれは違っていて。


「……私には、ロイクさんが足りないです。本当は、もっと沢山、甘えたい。でも、それが良いのか分からなくて、不安になるの」


 ここ数日、ずっと美嘉は不安だった。

 一緒にいたいのに帰ってこないロイクに、厭きられていないか、怒っていないかと、ずっと胸の奥ではそんな思いがくすぶっていた。

 美嘉は黒曜石の瞳をそっと目蓋の裏に隠して告げる。

 そんな美嘉を、ロイクは心の内で両手を広げるように受け止めた。


「……甘えればいい。俺はお前を喜ばせる方法がわからないから、やりたいことはどんどん口にしろ」


 そう、ロイクはこういう人だった。

 無条件で美嘉の全てを包容してくれる。

 それが嬉しくて、ほっとして、でもやっぱりどこかで不安になる。

 未だに美嘉を無条件に受け入れてくれることが信じがたくて、まるで自分が細い綱の上を歩いているような気がしてしまう。

 こんなにも美嘉を想ってくれる人を信じきれなかったことが、とても心苦しかった。


「……あのね、ロイクさん」

「なんだ」

「私、きっと我が儘なんです。今回だって、駄目って言われていたのに、お屋敷の外に出て迷惑をかけてしまった。ロイクさんの言葉を信じきれなくて、不貞腐れて……それでも、そんな私を、側に置いてくれますか……?」


 美嘉は我が儘だ。

 ロイクにとことん甘えてみたいし、自分の言うことには肯定してほしい。

 ロイクが優しすぎるから、美嘉はどんどん我が儘になる。


(そんな女の子嫌でしょう。幻滅するでしょう)


 それが至極普通の欲求だと知らない美嘉は、自嘲するように寂しげに笑う。

 そんな美嘉の頬にそっとロイクの指が添えられた。

 美嘉が身をよじって逃れる前に、いつもは不機嫌そうに細められている瞳に熱を灯したロイクの顔が降ってくる。


「…………」


 ちゅ、と美嘉の唇にロイクの唇が重なる。

 とろけるような熱が、じんわりと唇から身体中に広がっていく。

 ほんのり目尻を赤く染めて、一瞬だけ美嘉の唇を啄んだロイクは、熱に浮かされたようにその心を述べる。


「愛している」


 呆然と自分の唇に指を当ててロイクを見る美嘉へと、不器用な言葉を届ける。


「我が儘でいい。俺はお前を甘やかしたい。だが、それは親の代わりではなく、恋人としてが良い。……ずっと塞いでいたお前の笑顔を、見たかったんだ。俺がお前を、笑顔にさせたかった」


 だから我が儘で良いと、甘えて良いと―――自由に生きろと、ロイクは言う。


「ランディに言われた。俺は、ことのほか独占欲が強いと。俺の腕にお前が落ちてきた以上、俺はお前を逃がしてやれない。逃がしてやるつもりもない。ミカこそ、こんな俺でもいいか? 俺も大概我が儘だから、また小さなことでお前を傷つけるだろう」


 柔らかな声で落とされた言葉に、美嘉はふるふると首を振った。

 それは、お互い様だ。


「ロイクさんが、私だけを見てくれるならいいよ」


 価値を見定める目でも、夢を求める目でも、嫉妬にかられる目でも、羨望する目でもない。

 美嘉を、美嘉だけを好きだと言ってくれるロイクの目。

 言葉よりも雄弁に語る目を、美嘉は信じたい。

 舞台のホールを埋め尽くすような幾百の目よりも。

 たった一人、ロイクの目が美嘉に向けられるなら。

 美嘉はそれが良い。

 ロイクが美嘉を一番に考えてくれるなら、それを信じてちょっとした不満くらい我慢する。

 美嘉はそろそろと背を伸ばして、姿勢を正す。

 熱量の増したロイクの琥珀の瞳に、美嘉の顔が映り込んだ。

 首を少し上向けて、美嘉はロイクの唇に甘いお返しをあげる。

 美嘉の我が儘は我が儘じゃない。

 美嘉がこれまで我慢してきたあれこれだ。

 必要以上の我慢は、美嘉から色々なものを奪ってきた。

 ロイクは美嘉の全てを肯定する。それはとても心地良いものだから、美嘉も安心して甘えられる。

 でも、親しき仲にも礼儀はある。

 どの程度までなら許されるのか手探りしながら、美嘉はロイクに甘える。

 そっと触れるだけのキスをした美嘉が笑み崩れて、照れたようにロイクの肩に顔を押し付けた。


「ロイクさん、もっとぎゅっとして」

「こうか」


 ロイクが口角を上げて破顔する。

 珍しいロイクの笑顔に、美嘉はその肩に顔を埋めているから気がつかない。

 ロイクが首を伸ばして、美嘉の首筋に口づける。美嘉はそのくすぐったさに身をよじった。


「私、ロイクさんと一緒にいたい」

「ああ」

「私のこと、ずっと見つめていてほしい」

「ああ」

「ロイクさん」


 あのね、と美嘉は自分からロイクの背に腕を回す。

 美嘉が逃げ出しても、ロイクは追いかけてくる。

 ただその側に置くために、何もできなくても、我が儘でも、ロイクは美嘉の側にいてくれる。

 このくすぐったい気持ちはお砂糖のように甘くて、蜂蜜のようにとろりと美嘉を包み込む。

 美嘉とロイクは互いの体温で心の隙間を埋めあった。

 とくとくと鼓動するロイクの胸に身を寄せる。

 美嘉の胸の中で、言葉では言い合わせられないくらいの感情がとめどなくあふれてくる。

 この気持ちのまま、高く、高く、浮かび上がって、舞い上がって。

 最高地点まで到達したその先で。

 ロイクへのこの想いを解き放ちたい。

 美嘉が自分の気持ちを言葉に表すには、彼女の中にある辞書の語彙では到底足りなかった。

 だから美嘉は、ロイクに「お願い」をすることにした。

 この思いの丈を、届けるために。


「いつか、ロイクさんは言いましたよね。私がもし跳べるようになったら、ここからいなくなってしまうのかって」


 ロイクの琥珀色の瞳が揺れた。

 いつも泰然とかまえているロイクの瞳に不安が差し込んだのを見つけてしまった美嘉は、いっそう胸の奥にたまらない感情がわき出てくる。

 嬉しかった。

 この不安が、美嘉だけじゃないことが。

 美嘉は可憐に微笑む。

 それは、マティアスとアナクレトに美嘉の決意を伝えた時以上に綺麗で、純粋な輝きを持っていた。


「証明しましょう。私が跳べても、ずっとあなたの元にいるということを。だからありのままの私を……今までの私の生き様を、見て欲しい」


 そう口にした美嘉に、ロイクは瞳を見開く。

 そしてゆるりと表情をゆるめると、琥珀色がとろりと溶けて、黒曜石へと落ちてくる。


「……俺も、知りたい。お前が今まで、どうやって生きてきたのか。これから、どんな風に俺と生きてくれるのかを」


 ロイクがまた一つ、愛しさを込めて美嘉へと口づける。

 甘やかな熱を互いに感じあった後、そっと唇を離すと、美嘉はその唇に言葉を乗せた。


「―――私に、お化粧道具を貸してください。それから広い、できれば板張りの部屋も」


 畢竟、美嘉の全てを伝えるのなら、言葉よりもバレエで。

 ―――愛という感情を知った妖精は、その熱量を糧に、羽ばたく瞬間を待ち望む。

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