第20話 シャッセを遮る黒い影1
緑の植え込みと白く塗られた煉瓦の壁に挟まれて、美嘉は生まれて初めて知った事実がある。
美嘉はどうやら極度の方向音痴なのかもしれない。
来た道を引き返していたつもりが、見た覚えのあるような、ないような庭に出てしまった。
左右前後を見渡しても塔が見当たらない。
おそらく全然違う場所に出てしまった気がして、美嘉は溜め息をついた。
人通りも全くないような静かな場所だ。こんなことになるなら、早々に出会った人に道を尋ねればよかったと項垂れる。
戻る道も分からなくて、とりあえず美嘉は歩き続けた。
どこかで人に出会ったらその人にアナクレトの所まで連れていって貰うしかない。
そうやって自分の居場所も分からないままふらふらと歩いていると、不意に笛の音が聞こえた。
フルートのように澄んだ、高い音。
奏でられる旋律に導かれるようにして美嘉は歩く。
笛の音が聞こえるということは、人がいるということ。迷子脱出の機会を逃すまい。
視線をあちこちに向けて、音色が聞こえる場所を探す。かなり近くなのに場所が分からない。
ゆったりとした調べは耳に心地いい。美嘉は知らないうちに、ステップを踏んでいた。
足を打ちつけるようにシャッセで地面を滑り、右足はつま先立ちのルルベ、左足は軽く後ろで宙に浮かせる。もう一度シャッセ。今度は左足を軸にルルベ、右足は軽く宙へ。
曲調が変わった。美嘉は足の赴くまま、指先の思うままに、笛の調べに身を任せる。
くるりと片足軸の
踵を下ろして、視線は指先へ。
気持ちよく指先を進路方向へ伸ばした時、音が止む。
宙へと伸びた指先へ向けた視線が、別の一対の視線と絡む。
木の上で木漏れ日に隠れるようにして枝に腰かけていた少年が、口に当てていた横笛を離して、気まずそうに視線をそらした。
美嘉は両手両足を落ち着ける。さくさくと芝生を踏み鳴らして、同じ年頃だと思われる少年のいる木に近づいて頭上を見上げた。
「すみません、道を教えてほしいのですが」
「真顔かよ」
少年が少し顔をひきつらせて、美嘉を見下ろした。
「……お前、俺を連れ戻しに来たんじゃないのか?」
「連れ戻しに……? あなたは誰かに追われているの?」
美嘉は少年の言葉の意図が分からずに首をひねると、少年は一度辺りを見回してから、枝から飛んで地面に降り立った。
木陰から出たことで、少年のゆるく三つ編みにされた銀髪が陽の光を反射する。口が悪そうだけれど、その儚げな美貌が太陽の下で一層輝く。まばゆい照り返しに美嘉は目を細めた。
「……魔術師のローブを着ているから焦ったが、よく見ると魔力なしかよ。焦って損した」
はぁぁと笛を肩に当てて、空いている手で顔を覆う。
どうやら美嘉を誰かと勘違いしたらしい。
「というか、この俺に向かって道を聞く時点でアイツらの仲間じゃねぇか……ただの迷子かよ……まぎらわしい……」
少年は一人で納得のできる答えを見つけたらしい。納得したところで、今度はじろじろと美嘉を眺めはじめた。
舞台に立って大衆の目にさらされるのには慣れているけれど、知らない人に一対一でじろじろと見られ続けるのは居心地が悪い。オーバンの時も思ったが、この世界の人達の視線はあまりにも不躾過ぎないだろうか。
「……あの、道を教えてほしいんですけど」
「誰に」
「……あなたに」
「そうか」
あなた以外に誰がいるのという言葉はぐっとこらえた。初対面の人に対してそれこそ不躾だ。しかも今の美嘉は不審者同然なので、事を荒立てるのは得策ではない。
少年は美嘉の観察が済んだのか、くるりと背を向けた。木の根元で屈んだので、美嘉はそれを後ろから覗きこむ。
木の根元には横笛のケースが置いてあり、少年は慣れた手つきで笛をケースに戻した。あの軽快な音がもう聞こえなくなるのが少し残念だった。
「笛、上手ですね」
「皆そう言うが、下手の横好きだ。そんなに上手くないのは俺が一番よく知っているから、お世辞は要らねぇ」
お世辞抜きで思ったことを述べただけなのに、どこか投げやりな少年の言葉に美嘉は不思議な気持ちになった。
「……下手だと思っても、好きなんだ」
「当たり前だろ。じゃなきゃ、こんな無駄なことやらない」
「無駄なこと?」
「笛なんて幾ら吹いても、それで食っていく訳じゃない。俺は楽士になんかなれやしないからな。無駄でしかないだろ。ま、趣味なんてそんなもんだ」
憮然と言う少年。美嘉は目を瞬く。
「趣味……」
「そうだ。ただの趣味。お前にもそれくらいあるだろ」
言われて、美嘉は今までの自分を振り返る。
でもやっぱり思い浮かぶのはバレエのことばかりで、趣味と言えるようなものは見つからない。
最近は出来ることが増えたけれど、それは趣味と言えるほどに傾倒してやっていることとは言えない気がする。
見つからない趣味を探そうと考えていると、笛を片付けた少年が立ち上がった。
美嘉とあまり身長の変わらない少年の目が美嘉に向く。
「どうした?」
「趣味を探していて」
「は?」
「私の趣味って何だろうって思って。私はバレエ以外……踊ること以外に何もないから」
美嘉の言葉に少年が「ふぅん」と適当な相づちを打つ。
「変な奴。さっきも踊ってたけど、踊ることが好きなのか?」
「……どうなんだろう。跳ぶのは好きだったけど……跳べなくなってからは、分からない」
「とぶ?」
「そう。踊る時に大きくジャンプするの」
「へぇ。それで跳べなくなったってどういうことだ?」
「……舞台の上で大きな失敗をしたの。それから、怖くて、跳べなくて。……つらくて」
「できなくてつらいなら、好きってことだろ」
美嘉の目が大きく見開かれる。
少年の言葉が、すとんと胸に落ちた。
確かに、そうなのかもしれない。
美嘉には盲目的なほどにバレエ以外何もなかった。美嘉という人間が他者からどう見えるかなんて気にも留めずにいたから、あの日の舞台で悪意に気がつかずに失敗した。
この世界に来て、ロイクに愛をもらって、バレエ以外の事を知って、それでもやっぱり自分はバレエ以上のものを見つけられない。
それは自分の生き様云々以前に、バレエが好きだからだと気がついた。
アナクレトに振り回されて後悔していた美嘉だけれど、少年の言葉は今の美嘉にとって必要なものだった。それだけで、ここに来た価値はある。
「そうね。私、バレエが好き。バレエをやる事でしか自分の価値が決められなくて見失っていたけど……今の私なら、素直に好きだって言える」
自然と笑みがこぼれた。
美嘉自身に価値があると、ロイクは言っていた。
バレエがあっても、なくても、美嘉という個人の価値は失われない。
それを知った今なら、素直にバレエが好きだと言える。
少年は少しだけ目を丸くして微笑む美嘉を見つめていたけれど、すぐにふいっと視線をそらした。
「自分の価値と自分の好きなものが直結するとか、羨ましいな」
「羨ましいの?」
「ああ。俺の価値を決めるものは笛じゃないからな。その上、周囲が俺に求める価値は、俺には荷が重い。だからこうして息抜きに笛を吹いてるんだ」
笛の入ったケースを一撫ですると、少年は美嘉に背を向けた。
振り向きざまに、少年の美しい銀の三つ編みがゆらりと揺れる。
「おい迷子。息抜きついでに道案内してやるよ。どこに行くんだ?」
「アナクレトの所。魔法の研究をしたくなったって言って、置いていかれたの」
「よりにもよって師団長かよ……まぁ、あの人らしいが。あの魔法狂いめ」
呆れたように言いながらも歩きだした少年の後ろを、美嘉は慌てて着いていく。アナクレトの如く置いていかれたらたまらない。
儚げな美貌や、笛を扱っていた繊細な指先とは違って、少年は大股でずんずん進んでいく。美嘉が早足でその隣まで来ると、少年はふと思いだしたかのように美嘉に尋ねた。
「そういや、お前、名前は」
「美嘉です」
「ミカか。師団長の気紛れに付き合うと身がもたないからな。あれはたいがい大雑把すぎる。普通の奴等ならその魔術師のローブを着ているだけで魔術師と勘違いするだろうけど、魔術師からしてみれば魔力がないのは丸分かりだ。下手なことに巻き込まれる前にさっさと帰れよ」
ぶっきらぼうな口調の中にもしっかりとした優しさが垣間見えて、美嘉はゆるりと頬をゆるめた。
いつも不機嫌なロイクの表情の差異も分かるようになった美嘉だ。少年の隠れた優しさに気づかないわけがない。
今まで気がつかなかった優しさも、こうやって気がつくようになったことが素直に嬉しい。ちょっとひねくれた言葉でも、その言葉の意味を正しく美嘉は受け取れる。改めて、ロイクが与えてくれたものの大切さが身に染みる。
美嘉は気遣ってくれた少年の言葉に大きく頷いた。
「アナクレトのせいでお屋敷を黙って出てきちゃったから、きっと心配してる。早く、帰らないと」
そしてロイクと沢山話をする。
足りない言葉も補いながら、ゆっくりと、沢山の話をしよう。
勝手に不安になって、勝手に不満を抱いたのを謝って、ちゃんと言葉で説明してもらおう。
美嘉もロイクも不器用だから、不器用な分、時間をかけて言葉を尽くしていこう。
「ありがとう。あなたのお蔭で色々なことに気づけた」
「俺は何もしていないぞ」
「ううん、私にとっては意味のある言葉をかけてくれたから」
横を歩きながら、足が軽はずみする。
つま先でくるりと回りながら美嘉は少年の隣を歩く。
二歩ほど少年より前に進んで、ステップを踏むようにくるりと回転した時、ふと少年の名前を聞いていないことに気がついた。
美嘉はほんのりと耳を赤く染めて仏頂面をしている少年と向き合う。照れているのだと思ったら、何だか美嘉も急に恥ずかしくなった。自分が何か恥ずかしいことを言った気になってしまう。
「ねぇ、そういえばあなたの名前は?」
熱を持ち始めた頬に気がつかない振りをして、美嘉は早口になりながら少年の名前を聞く。
すると少年は足を止めて、少し瞠目してから苦笑した。
「もしやとは思ったが……マジか。お前、本当に気がついてないのか?」
「えっと、何に?」
「俺のことだよ」
少年は後ろで揺れていた三つ編みをひょいと摘まむ。
「これ、この色。知らねーの?」
「ええと……? 綺麗な銀色ね。邪悪なものを追い払う、神秘の色」
美嘉がありのままに感想を述べれば、一度目を瞬いた後、ぶはっと少年は豪快に吹き出した。神秘の色を纏って、繊細そうな見た目をしている割には、言動が大雑把なのがもったいない。
少年はくくくっと肩を震わせて笑う。
「すげぇ。ミカ、お前どんな田舎から出てきたんだよ。そうか、神秘の色か。はは、これはいい。フレッドにも教えてやらねぇと」
はぁー、とひとしきり笑った少年は、ぽんっと美嘉の頭を撫でた。なぜ撫でられたのか分からない美嘉は困惑して、少年を見上げる。
「俺の名前はマティアス・デベルナール・ロテワデムだ。ロテワデム国民ならちゃんと覚えろよ」
この国の名前を名乗る少年に、美嘉は一瞬思考が止まった。
マティアス。
そういえば今日どこかでその名前を聞いた気がする。
それからゆっくりと、少年の名前を復唱する。
「まてぃあす、でべなー……?」
「デベルナール」
「まてぃあす、でべるなーる、ろてわでむ」
名前を呼べば、儚い美貌の少年はにっこりと微笑んだ。
その綺麗な面立ちの笑顔に、美嘉はごくりと息を飲む。
そうだ、思い出した。確か、アナクレトが美嘉に対してその名前を告げていた。
「よろしくな、ミカ」
そう言ったこの国の第二王子は、綺麗な笑顔のままで不敵に口角をつり上げてみせた。
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