第18話 青い鳥のグリッサード3

 初めての高みは完璧ではなくて、美嘉が思うよりも不安定なものだった。

 飛ぶということは、こういうこと。

 重力というしがらみから解放されて、風を踏みしめて、全身が浮かび上がる。

 不思議な気分だ。

 不安定なのに、恐怖はない。

 むしろ跳ぶことにこだわっていた自分が、何を求めていたのかがようやく分かって、感動しているくらいだ。

 美嘉が目指していた高みが今、眼下に広がっている。

 人の視線に晒されないくらいに、高い、高い空を飛んでいる。

 煩わしさも、しがらみもない、真に身一つだけ。

 この感覚は、美嘉が元の世界にいたら得られたものだろうか。

 それは否。

 感情に疎かった頃の美嘉には、きっと得られなかった。

 ふと、この景色を共有したいと思った。

 夢の中のように輪郭がぼんやりとして、景色が広がっている。

 まばたきをすれば雫が一つだけ頬を転がって、風に流されていく。

 この景色を見せてあげたいのは、落ちてきた美嘉を受け止めてくれた、あの逞しい腕の持ち主。

 彼が受け止めてくれるのなら、この想いを込めて何度でも美嘉は跳べる……いや、『飛べる』とさえ思った。

 遥か遠くにある地上を見下ろして、美嘉は初めて見る街並みを目に焼きつける。

 美嘉が落ちてきて、受け止めてくれたロイクが生きている世界を。

 街並みは古典的な西洋世界のようだった。

 不格好に舗装された石畳の道路や、石造りっぽい家々。

 庶民らしき家が集中している場所は人の活気に溢れていた。

 ロイクの屋敷のように大きな屋敷も点在していて、ここは大都市なのだろうかと思考を巡らせる。

 屋根より高く飛ぶアナクレトに咥えられたまま、美嘉はあちこちに視線をやった。眼下に広がる街並みも、人が生き生きとしていて見るのが楽しいけれど、それと同じくらいに目を引くものがあった。

 それは街の中央にある、一際立派な尖塔を持った塔と、それをぐるりと囲むように作られた白塗りの建物群だ。細長い線は渡り廊下だろうか。建物同士が蜘蛛の巣のように繋がっている。

 あの塔の一番上にはラプンツェルでも住んでいるのだろうか。冗談でも一瞬だけそんな事を思ってしまってくすりと笑った。

 物語から出てきたような騎士様に、真面目で優しい使用人達。お喋りする青い鳥に、小さくなった自分。極めつけはラプンツェルの塔で、この世界はまるごとお伽噺のようだ。

 しばらくは上機嫌でそんな景色も堪能していたけれど、だんだんと吊り下げられて飛んでいるのがつらくなってきた。背中の服を咥えられたせいで、喉がしまらないようにと襟をつかんでいた腕が疲れてくる。


「ねぇ、どこまで行くの?」

『もうちょっとで着くよ』


 ずっと気になっていたけれど、アナクレトは声帯から声を出していないようだ。脳に直接響く声に、ますますお伽噺の世界だと美嘉は思う。

 バサバサとアナクレトが羽ばたいて、町で一番目立つ塔に近づいていく。

 高度をさらに上げる。

 さすがにしっかりとした支えもなく、不安定な状態でいるには怖い高さだ。段々と今までの余裕がなくなって血の気が引いていく。怯える美嘉に気がつかないまま、アナクレトは塔の中でもかなり高い位置の窓に滑り込んだ。


「はい、到着」


 頭に直接響いていた声が、今度は左右の耳から届いた。

 ぺいっとアナクレトが机らしき所に美嘉を落とす。

 ぽとっと落とされた美嘉は今までの浮遊感でふらつく頭を振って、平衡感覚を取り戻す。

 乱暴に扱和ないでと言おうと思って顔を上げれば、巨人が美嘉を覗き込んでいることに気がついた。

 巨人は青マーブルのフクロウと同じような色彩を持っていた。紺碧の髪は光の加減でスカイブルーに輝き、右目はアクアマリン、左目はサファイアを嵌め込んだ、柔和な面立ちの青年。青色ガラスのモノクルを右目にかけていて、一見したら両目が同色になっている。袖や丈の長い白色のローブを着ていて、ローブの胸元に紋章のようなものが堂々と飾られていた。

 寒色をまとっているのに冷たい印象はない。そんな爽やかに笑う青年は、美嘉と視線が合うと、青マーブルのフクロウと同じ声で話しかけてきた。


「やぁ、いらっしゃい。待っていたよ、キシダンチョーの妖精さん」

「え……っと」


 困惑した美嘉が青マーブルのフクロウを振り向くと、彼は鳥の本能を思いだしたかのように一点を見つめている。

 時折首がくりっと動いたり、胸が大きく膨らんだりするけど、さっきまでのお喋りはどこいったのか、物静かにこちらを観察していた。


「あぁ、それ。それは僕の使い魔さ。僕の魔力で動いているだけのお人形みたいなもの。見た目はその鳥だけど、君と話していたのは僕だ。だから僕が本当のアナクレト」


 なるほど、と美嘉は頷く。

 さすがにもう驚かない。

 しゃべる鳥に、小さな自分、加えて魔法使い。

 この世界には魔法使いが……もとい、魔術師がいることは教えてもらっていたのだから、そんなに驚くことではないと自分に言い聞かせる。


「ええっと、君の名前なんて言ったっけ。確か、えっと……」

「ミカ・ハルカワです」

「変な名前だね。キシダンチョーにならって妖精さんでいい?」

「美嘉でお願いします」

「それで妖精さん、さっそくだけど、まずは身体の大きさを戻そっか」

 この男、人の話をまるで聞かない。

 驚くべき会話の一人歩きに美嘉の顔がひきつる。

 思わず遠い目をしていると、勝手に話を進めていくアナクレトが、口を挟めずに机の上に座り込んでいた美嘉の体をひょいと摘まんだ。

 ぎょっとして体を硬直させると、アナクレトが何事かぶつぶつ呟く。

 またくらりと目が回る。ぎゅっと目をつむって開いた時には巨人はいなくて、美嘉より身長の高い細身の青年が、床に座り込んでいた美嘉を見下ろしていた。


「はい立ってー、手を出してー、まわしてー、ぐるりとその場で一回転!」


 突然体の大きさが戻った美嘉は、混乱しながらも言われた通りに立ち上がって、腕を出して、まわして、ぐるりとその場で一回転した。


「体に不自由なところはないね?」


 こくりと頷く。今の一連の動きは、体の不具合を調べるものだったらしい。

 美嘉の答えに満足したらしいアナクレトはうんうんと頷いて、備え付けの棚をあさって自分とお揃いのローブを取り出すと美嘉に着せた。

 アナクレトの予備のローブは美嘉には大きくてぶかぶかだ。アナクレトの太ももくらいまでの丈でも、美嘉にとっては膝くらいまである。袖もすっぽりと隠れてしまっていて動きづらい。

 どうしてこれを着せられたのかと非難めいた目を向けても、アナクレトはどこ吹く風だ。


「よぉーし、それじゃさっそく探し物をしに行こー」


 美嘉の視線をものともしないアナクレトが

 さっさと部屋の外へと出て行こうとする。

 慌てて美嘉はその背を追った。

 アナクレトがいたごちゃっとした部屋から一歩出れば、赤い絨毯に白塗りの壁というどこまでも上品な廊下があった。

 螺旋状の廊下は何歩か先で数段の階段になっている。アナクレトは幾つか階段を降りると、螺旋の内側についた扉を開いた。

 扉の向こうは畳四畳分くらいの小さな部屋になっていて、床いっぱいに複雑な文字や幾何学模様が描いてある。

 いかにも魔法使いが何かの儀式を行ったかのような模様に美嘉は固唾を飲んだ。これはいわゆる魔法陣だろうか。

 さっさと歩いていくアナクレトの後ろを追って、美嘉は恐る恐る部屋へと足を踏み入れる。

 アナクレトは部屋の中央に立つと、早くおいでと手招きする。そろそろと美嘉が近づくと、ぐいっと腕を引かれた。


「ほらほら、時間は有限なんだからきびきび動く」


 まともそうな事を言ったアナクレトは美嘉の腕をしっかりと掴むと、ぶつぶつと何事かを唱えた。

 目に焼き付く程の光が、カメラのフラッシュのように一瞬だけ部屋いっぱいに満ちる。

 同時にエレベータのような軽い浮遊感を感じた。


「はい、一階に到着」

「一階?」


 美嘉が聞き返しても、説明する気がないのかアナクレトは無視して歩き出す。腕を掴まれたままなので、美嘉は大人しくついて行くしかない。

 小部屋の外に出て驚いた。

 先ほどの人気のない螺旋状の廊下ではなくて、地面がきちんと平行だ。

 しかも廊下らしきところの先にある一際立派な扉を開くとそこは、青マーブルのフクロウと一緒に空から見た、塔を囲む建物群に囲まれた中庭ともいうべき場所が広がっていたのだ。

 つまり。かなり高い場所にあったアナクレトの部屋から、ほぼ一瞬にして地上にまで降りたということで。

 さながら瞬間移動のようなそれに、美嘉は唖然とするばかり。

 外の世界は規格外な事が多すぎる。

 でもアナクレトはぼんやりとさせてくれる暇を与えない。地上に出たら、一直線にどこかを目指して歩きだした。


「今の時間なら、あの子はあそこにいるかな~?」


 アナクレトが何やら一人で呟いているけれど、美嘉は当然のようにアナクレトの言う『あの子』というのが見当もつかない。置いていかれないように、アナクレトの後ろを着いていくだけだ。

 なんだか立派な建物を迷路のように歩いていると、廊下の反対側から誰かが歩いてくる。


「師団長!」


 今の美嘉やアナクレトと同じようなローブを着た三人組のうちの一人が大きな声をあげた。

 近くまで行って、美嘉はつい目を細めて笑みを浮かべた。

 一番右には赤髪が目立つ少年、その横には蜂蜜のような色をした金髪の青年、そして一番左はアナクレトより落ち着いた青髪を持つ少女だった。


(左から順に見事な信号機カラーね)


 他意なく横並びに歩いてきた少年少女の髪色を見て、美嘉はつい、そんなことを思ってしまった。

 お屋敷の人やアナクレトを見ていて、ウィッグのような髪色の豊富さに最近は慣れてきたけれど、この並びにはついつい笑いが誘われてしまった。


「珍しいですね、師団長がこんなところにいるなんて」

「というかツレがいるのも驚きだろう」

「しかも女の子じゃない。どなたなの?」


 三人とも興味津々にアナクレトと美嘉を見てくる。

 どう返すべきなのか戸惑っていると、美嘉の代わりにアナクレトがさらりと答えた。


「ふっふっふー。なんと聞いて驚いてよ。キシダンチョーの妖精を捕獲したんだー」


 アナクレトの得意げな態度に、三人とも「へぇ」と頷く。

 でも頷いてから違和感があったのか、三人で顔を見合わせた。

 アナクレトはにんまりとした笑みを浮かべている。


「騎士団長って、あの騎士団長ですか?」

「妖精って、こないだ禁固室に突っ込まれた奴等が何か言っていたよな」

「えっ? 師団長、あの騎士団長の屋敷の結界、突破したの?」


 三人とも思い思いに話すと、アナクレトは「どうだ」と言わんばかりにますます胸を張って見せた。

 そこは胸を張るところなのだろうかと思って美嘉がアナクレトをちらりと見てから視線を戻すと、三人組の視線が美嘉に集まっていた。

 ……どうやら話の矛先は美嘉だったらしい。

 美嘉は真っ直ぐに注がれる慣れない視線に躊躇いながらも口を開いた。


「……ミカ・ハルカワです。ロイクさんのお屋敷でお世話になっています。お庭を散歩していたら、気がついた時にはアナクレトさんに連れ去られていました」

「ただし合意」

「してないです」


 アナクレトが隣で補足してくるけれど、その捕捉が間違っている。

 青髪の少女が困ったように、右にいる金髪の青年に話しかけた。


「これ、いいのかしら?」

「良くないだろ。連れ去られたってことは無断で屋敷から出たってことだろ? しかも騎士団長の結界をぶち壊して」

「結界は破壊してないよ。ちょこっとだけ穴が空いたかもだけど、それも微々たるものだからね」

「いやそれでも結界の要は騎士団長だから、感知はするんじゃないんですか?」

「していると思うよ」

「えっ? 師団長、それまずいんじゃ」

「いいのいいの。これも僕のお仕事だからー」


 ひらひらと手を振って大したことないよという態度のアナクレトだが、美嘉が思うに、これは立派な誘拐な気がしてならない。

 悪意だけは感じないものの、やっぱりこのままではよくない気がする。

 美嘉が内心でもやもやと考えていると、青髪の美少女がこてんと可愛く首を傾げた。


「師団長ー、こないだ騎士団長の屋敷に突撃した馬鹿を禁固室に送ったの師団長じゃないですか。それなのに、彼らと同じことして良いんですか?」

「同意だから問題ないでしょ?」

「いやさっきしてないって言われたじゃないですか」

「んじゃあ、ちょっと借りただけ」

「物扱いはどうかと……」


 青髪の美少女の疑問に平然とアナクレトが答える。それに関して金髪の青年に否定をされれば別の言い訳をし、赤髪の少年にまで窘められる。

 明らかにこの場の誰よりも年上に見えるアナクレトの子供のような言動に、三人とも溜め息をついている。ちらと視線をあげれば、赤髪の少年に同情的な視線を向けられてしまった。


「そういえば師団長、禁固室に入れられた奴等どうするんですか。さすがに騎士団長の屋敷の結界ぶっ壊して侵入して、謹慎だけなんて甘いでしょ」

「んー? まぁ、悪くはしないよ」

「そういえばヴァネッサ、お前の婚約者もいたよな。何であんなことしたのか知ってるか?」


 金髪の青年が、青髪の美少女に話を振る。

 ヴァネッサと呼ばれた少女は「むぅ」と口を尖らせて不満げな顔になった。


「さぁ。知らないわ」

「知らないって、お前の婚約者だろ」

「それ、散々騎士団の人にも言われたけど、知らないものは知らないとしか言えないわよ」


 へそを曲げてふいっとそっぽを向いたヴァネッサに、金髪の青年がまだ何事か言葉をかけるけれど、ヴァネッサは取り合わない。赤髪の少年が苦笑した。


「たぶん副師団長の仕業ですよね。第二王子派の……。例の儀式の件で、師団長がかなり派手に力を削いでいたはずですけど」


 赤髪の少年が意味ありげな言葉をぼやくので、美嘉の意識がそちらに向いた。


「例の儀式って?」

「え? あ、あ~……それは、その」


 あまり深く掘り下げてはいけなかったのか、赤髪の少年が困ったように笑って口を閉じてしまう。

 他の二人にも視線を向ければ、ばつの悪そうな顔をして視線を逸らされてしまった。

 アナクレトにも視線を向けてみれば、彼は美嘉と目が合うと楽しそう目を細めるだけだった。

 気にはなったけれど、誰も教えてくれないのなら聞いてはいけないことなのだと、美嘉は一人で納得し、それ以上話を聞くことはしなかった。

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