第17話 青い鳥のグリッサード2

 外出はしないようにと言われた翌日、今日はいつもより遠くまで行ってみようと、美嘉は庭を歩いていた。

 ナディアもついて来たそうにしたけれど、外出をやんわりと窘められて以来のもやもやで息がつまっていたから、適当に理由をつけて遠慮してもらう。敷地内なら先日の襲撃事件の時に強化した一重目の結界があるから安全だとナディアも安心しているらしく、一人にしてくれた。

 さてどこを散歩しようかと足の赴くまま歩いていたら、いつもの庭に来てしまった。植木で目隠しされた、前庭の片隅。

 つるりとした深い緑に丸いピンクの花は、山茶花さざんかという名前なのだとナディアが教えてくれたことがある。

 ロイクは騎士としての仕事があるので、日中一緒にいる時間が一番長いのはナディアだ。

 ナディアは美嘉に色々なことを教えてくれる。

 花の名前も、お菓子の焼き方も、刺繍のやり方だって、教えてくれたのはナディアだった。

 山茶花を眺めながら、昨日のことが尾を引いて拒絶してしまったことを今更ながらに後悔した。

 ナディアも別に意地悪で美嘉を閉じ込めようとしているわけじゃないことは理解しているのに、感情というものはままならなくて、なんだかもやもやとする。

 やはり今日は誰かと一緒にいる気分にはなれなくて、美嘉はため息をついた。

 それからふと顔をあげて、くるりと辺りに視線を巡らせる。

 そういえば以前、初めてランディと出会った時に、彼がロイクの驚異的な腕力で遠くまで飛ばされたことを思い出した。ランディが突き破っていったのは、この山茶花の植え込みだったのを朧気に覚えている。

 あの時の事を思い出して少しだけ気分が上昇した美嘉は、いったいどこまで吹っ飛ばされたのかが気になりだして、ランディが飛ばされた場所を探しに行くことにした。

 ランディが吹っ飛ばされた方角を目指して歩く。確か、山茶花の植え込みを突き抜けていったような。

 山茶花の植え込みを注意深く覗き込みながら歩いていると、庭師によって巧妙に隠されてはいたけれど、人型らしき穴がぽっかり空いている場所を見つけてしまい、思わずくすくすと声をひそめて笑ってしまう。

 なんだか少年の冒険のようでわくわくしてくる。

 やんちゃだとは思いつつも、その穴を通って山茶花の植え込みを抜ける。

 お次は花壇だ。山茶花の垣根を抜けた向こう側には幅の広い花壇があって、背が低い花たちが風に吹かれて楽しそうに揺れていた。

 遠回りしようかとも考えたけれど、自分なら跳べるかもしれないと何気なく思った。

 花壇から数歩離れ、軽く助走をつけて、跳ぶ。

 一、二、三、で左足で踏み切って、宙に身を躍らせる。

 頬を撫ぜる風、空に飛び出した足、ふんわりと広がるスカートの裾。

 着地した瞬間、目の前が開けた気がした。

 ぱちりと瞬きを一つ。

 そっと自分の足に目を向ける。

 今、当然のように、自分は跳んだ―――跳べた。


「……っ」


 思わずその場にしゃがんで、自分の体をかき抱く。

 ドキドキと心臓が鳴っている。あれだけ跳べないと嘆いていた日々が嘘のようだった。


(私、今、跳べた―――私、跳べるんだ)


 どうして今跳べたのかは分からない。

 でも、跳べると思った。

 だから跳んだ。

 そして跳べた。

 跳べるなら。

 跳べる自分なら。


(ロイクさんの隣に、いてもいいのかな……)


 今すぐロイクに伝えたい。

 跳べる自分を見て欲しい。

 本当の自分を見て欲しいと思う。

 そのためにお願いしたいことがある。

 でも、今は。

 ロイクの考えが分からない。

 もし、昨夜のように断られたら。

 ロイクは昨日、どうして外に出ては駄目なのか教えてくれたけど、あれだけが全てではなかったと美嘉は気づいていた。

 どんなに取るに足りないことでも、言葉にしてほしかった。

 言いにくいことでも、消さないで言葉にして欲しかった。

 その小さな違和感が、美嘉をためらわせる。


(ロイクさん、どうして言葉をくれないの。どうして、心を隠すの。私はどうしたらいいの)


 泣きそうになるのをぐっと堪えて、美嘉は自分の身体を抱きしめる。

 ロイクと言葉を交わす度に、自分がどんどん欲張りに、我が侭になってしまう。

 もっともっと、ロイクの深い胸の内すらも知りたいと思ってしまう。

 すぅ、はぁ、と深呼吸して、美嘉はうるさい心臓を落ち着ける。コンクールの舞台に立った時ですら、こんなに心臓が落ち着かないなんてことは無かった。

 初めてジャンプを跳んだ時のように、中々収まらない興奮、胸の躍動。

 その中に、ほんの少しだけ締め付けるような痛みが胸の奥につきんと響く。

 この、胸に紛れ込んだ痛みは何だろう。

 初めてジャンプを跳んだ時には、こんな痛みは感じなかった。

 痛みを感じる度、どうしてかこんなに切なくなる。

 ロイクと一緒にいる時に感じる甘やかな痛みとは違う。

 喜びと同時に、得体の知れない不安感が心臓よりも深い場所で渦巻いている。

 ぐちゃぐちゃに混ざっている感情に戸惑い、しばらくじっとその場に蹲っていると、不意にコツコツコツという乾いた音がした。

 まるで、トゥシューズで板張りの床を歩く時のような音。

 心惹かれるその音に、重たい思考を放り出す。

 美嘉は緩慢な動作でどこから響く音だろうと首を巡らせた。

 コツコツコツ。

 上から?

 視線を上げる。

 ……背の低い生け垣の先にある塀の上に、何かかがいた。

 空のような青と海のような青を斑に散りばめた、でっぷりとした体の重そうな鳥が、塀の上で腹這いになっている。

 じっと見つめていると、コツコツコツとくちばしで塀として積まれた煉瓦をつついていた。

 間違いなく、この鳥が犯人だ。

 美嘉は少しだけ遠回りをして生け垣をぐるりと回り込むと、青マーブルの鳥を塀の下から見上げた。

 遠目から見たらでっぷりとしていたけど、近くで見たらフクロウみたいな鳥だと気がついた。フクロウならたぶん、肥満体型でというわけではないだろう。

 青マーブルのフクロウは塀をつつくのをやめて、緩慢な動作で塀に座り直した。

 くりっとした目は、右がアクアマリン、左はサファイアが嵌まっているような同系色のオッドアイ。

 お行儀よく座るのを見て器用な鳥だなぁと思っていると、青マーブルのフクロウはすっと右翼を上にあげた。


『やあ』

「……えっ」


 一拍置いて、美嘉は青マーブルのフクロウを凝視する。

 今、鳥が、喋った。


「今の、あなた?」

『反応にぶちゃん~。この場所に僕以外いないでしょ?』


 青マーブルのフクロウがぐるりと顔をめぐらせる。

 その姿が時計の秒針のように三百六十度ぐるりとめぐらせるものだから、さすがの美嘉もびくっと肩が跳ねた。首がねじ切れないのだろうかとハラハラしてしまう。


『ねぇねぇ、君、この家の子?』

「えっ……と、一応、そうですね」

『一応?』

「居候なんです」

『ほ~、それじゃあ君が噂の子か』

「噂?」


 青マーブルのフクロウが一匹したり顔で頷く。

 美嘉は何か自分に関する噂が外で出回っていると知って、教えてもらえないかと聞いてみた。

 すると青マーブルのフクロウは『え~』と面倒くさそうにまた塀で腹這いになる。


『めんどくさい』


 体現するくらいに、間違いなく面倒くさかったようだ。

 美嘉は呆れながらも、ものぐさな鳥に話しかける。


「話すだけじゃない」

『僕、知ーらない。そんなに気になるなら自分で聞きに行けばいいんだよ』

「簡単に言うけれど、私、お屋敷から出ないように言われているの」

『ふぅん』


 青マーブルのフクロウは腹這いのまま、しげしげと美嘉を見下げた。


『そうだ、良いことを思いついた。君、僕の探し物に付き合ってよ』

「え? 探し物?」

『付き合ってくれるなら、ここから出してあげるよ』


 青マーブルのフクロウは嬉々として身を起こすと、塀の上でぐるぐるし始めた。

 そうだ、そうしよう、それがいいと、自己完結しているけど、美嘉はまだ返事をしていない。


「待って、私は行かない。ロイクさんを困らせたくないの」

『困っているのはキシダンチョーじゃなくて君でしょ?』

「別に私、困ってなんか」

『出たくないと、出られないは、違うんだよ?』


 青マーブルのフクロウは、再び歯車のようにぐるりと首を巡らせる。


『君はどっちかな?』


 青マーブルのフクロウが美嘉の気持ちを見透かしたように問いかけてくる。

 美嘉は天秤を量った。

 好奇心と、ロイクの言いつけ。

 当然、ロイクの言いつけの方が重いけれど。

 幸せの青い鳥の誘惑は、抗い難い。

 美嘉は戸惑う。

 自分の選択に自信がなかった。

 これでいいのかと不安に思いながらも、美嘉は青マーブルのフクロウへと近づく。


「あなたの、探し物って?」

『そんな難しくはないよ。あ、ねぇねぇ、ちょっとこの塀に手をかけて』

「こう?」


 美嘉は言われた通りに塀に手をかける。

 視線より高い位置にある塀は、真下で美嘉が背伸びをしつつ腕を伸ばせば、なんとか届くくらいの距離だ。


『そうそう、上手い上手い。それでね、探し物っていうのはね―――君の運命の人さ』


 青マーブルのフクロウがぶつぶつと何かさえずずると、つんつんと美嘉の手をくちばしでつついた。

 その途端、くらっと美嘉の視界が明滅する。目眩を起こした時のような強烈な酔いに美嘉は思わず目をつむって、ずるりと塀に体を預けるようにして倒れこむ。加えて一瞬、体がエレベータに乗った時のような軽い浮遊感を感じた。

 何が起きたのかと、くらくらする顔を上げたら、目の前に大きな宝石ともふもふがある。


「……え?」

『うんうん、ちゃんと魔法がかかっているね』


 でっぷりとした美嘉の等身大のぬいぐるみが、もふんっと動いた。……動いた。


「フクロウさん……?」

『フクロウじゃないよ。アナクレトだ』


 野生のフクロウではないらしい。

 名前がちゃんとあるのだと、青マーブルのフクロウが主張する。

 青マーブルのフクロウ改めアナクレトは、くるりと首を巡らせた。


『ほらほら背中に乗って、しっかり捕まって』

「乗る? 私が乗ったら潰れちゃうでしょう?」

『つぶれないよ。今の君の大きさなら余裕余裕』


 アナクレトが不思議な物言いをするので、美嘉はどういうことだと辺りを見渡す。


「……嘘でしょ」


 等身大のぬいぐるみだけじゃなく、視線があまりにも地面から遠すぎる。その上、見える景色が全て巨大で壮大だ。

 今、美嘉はミニチュアサイズで煉瓦の塀の上にちょこんと座っていた。まさしくファンタジー。


『早く早く』

「で、でも黙って出掛けるのは」

『大丈夫大丈夫』

「でもナディアが心配するし」

『大丈夫だって。今頃キシダンチョーが気づいてるから』

「……アナクレトはロイクさんの知り合い?」

『もう、煩いなぁ。君は僕の探し物に付き合ってくれるんでしょ?』


 美嘉は話を聞いてからと言ったはずだ。

 手伝うとは言ってないのに勝手に話を進めたのはアナクレトだ。

 それを指摘しようとすると、アナクレトが美嘉の後ろに回った。


『それじゃ行くよー』

「きゃあ……っ」


 ぐいっと背中の服を啄まれる。引っ張られて首が絞まりそうになったから、慌てて襟を掴んで気道を確保する。

 何をするのと背中を振り向こうとして、バサッという音と共に、足が浮いた。

 どんどんと地面が離れていく。

 不安定な中、美嘉を咥えて文字通り空を『飛ぶ』アナクレト。

 美嘉は息をのんで、アナクレトのなすがままに空に連れ去られた。

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