第16話 青い鳥のグリッサード1
襲撃事件から数日、いつもの平和を取り戻した屋敷で、ふと美嘉はナディアに言葉をかけてみた。
「ねぇ、ナディア。外に出てみてもいい?」
「あら。お庭ですか?」
襲撃事件からしばらく、なんとなくいつものように過ごしていたけれど、そういえば自分はこの屋敷の外の世界を知らないなと思ったのだ。
当たり前のことだけれど、世界は広い。
襲撃事件の時に沢山の人がお屋敷に押し掛けてきて、彼らの生活がお屋敷の外にあるということがなんだか魅力的に思えた。
お屋敷に来てから随分と時間が経っているけれど、一度もお屋敷の外に出たことがない。むしろ今までの美嘉の考え方なら、外出するという考えすら思い付かなかったくらいだ。
日本にいた時も家と学校、レッスンスタジオの往復ばかりで、同年代の子と遊びに行ったこともない。日本のコンクールで幾つもの賞を戴いて世界のコンクールに飛ぶようになっても、旅行気分なんて味わったことがなく、ホテルや現地でひたすらバレエのレッスンをしていたくらいだ。
ずっと考えていた。
もう元の世界に戻らないとして、この世界でどうやって生きていけばいいのだろうと。
衣食住に関してはロイクが気にしなくていいと言っていた。でもその言葉に甘えてばかりもいられないと思ってる。
生きていくのなら、美嘉も何かをしなければならない。
踊ることしかできなかった美嘉だけど、踊る以外の生き方ができるのならそうしてみたいとも思った。
だからまずは、外の世界のものに目を向けて、一つ一つ丁寧に見ていきたい。
そうしていつか、自分の価値を見いだせたら―――。
ナディアはあまり能動的ではない美嘉が、あれをしたい、これをしたいと主張すると、大体喜んでやらせてくれる。
だからナディアに一声かけてみたのだけれど。
「お庭じゃなくて、お出掛けをしてみたいの。この国の町の様子が、見てみたくて」
「まぁ、お屋敷の外に……」
美嘉は軽く驚いた。美嘉の予想では、ナディアは手を叩くように喜んで一緒に行きましょうと言ってくれると思っていたから。
けれど現実のナディアの言葉は歯切れが悪く、難しい顔で黙りこんでしまった。
いつも明るいナディアとは違う態度に、美嘉は戸惑う。
「あの……無理ならいいんです。困らせたい訳じゃないから」
「……申し訳ございません」
「こっちこそ無理を言ってごめんなさい」
心底困っていた様子のナディアに謝ると、明らかにナディアはほっとした顔になった。
その表情が、ちくりと美嘉の心に棘を刺す。
所詮、美嘉はこのお屋敷で、ロイクの好意によって住まわせてもらっている居候だ。好き勝手して良い訳じゃない。
そのことに思い至って、美嘉は自嘲した。
何でも許されるとか思うなんて子供じみている、と。
愛していると言われたって、美嘉は何一つその気持ちに報いていないというのに。
ナディアが微妙な反応を示したのは、きっとロイクが美嘉の外出に関して何か言っていたからだろう。帰ってきたら聞いてみればいいだけの話だ。
ナディアが気をまぎらわせようとしてくれているのか、いつもより少し多めのお茶菓子を用意してくれた。美嘉が前に教えたジャムのクッキーにマドレーヌ、シフォンケーキにスコーンまで。
紅茶の茶葉の良い匂いに紛れて、焼き菓子にたっぷり使われたバターの匂いが鼻孔をくすぐる。
「ふふ、全部食べたら太っちゃいそう」
「ミカ様はもっと沢山お食べになられた方がいいですよ。腕などとても細くて、いつ折れてしまうのかと不安になってしまいます」
「腕だけだよ。足は脹ら脛とかに筋肉がついているから太く見えがちだし。むしろ痩せたいです」
「そんな事ありませんよ」
「私から見たらナディアこそ食べなくちゃ。腰回り細くて見てるこっちがひやってするから」
美嘉は日本人女子の平均身長を考えれば高身長の部類に入る。しかもバレエでそれなりの運動量を得て、体作りもしっかりとしていた。
高い身長と体脂肪率まで完璧にコントロールされたスレンダーな体型は、バレエにとって欠かせないもの。衣装を身に纏った時に美しく見えるようにと、美嘉の母が忙しいながらも神経質なほどに食事や運動量に気を遣い、体型維持をしていた。
それがどうだろう。
この世界に来て、ロイクやナディアに甘やかされて、以前のような運動量もない生活でこうやって甘いものに舌鼓をうっていれば、あっという間に体は怠けてくる。体重計が無いし、きちんと鏡を見たわけではないけれど、ちょっぴりお腹回りの贅肉が気になってしょうがない今日この頃。
もう着ることはないだろうけど、この世界に着た時に身にまとっていたチュチュが着れなくなってしまうのは、美嘉のそれまでの人生を全て否定するようでなんとなく嫌だった。
それでも知ってしまった娯楽には逆らえずに、美嘉はマドレーヌに手を伸ばした。贅沢に口一杯お菓子を頬張っても、ここにはカロリー制限に目を光らせる五月蝿い母親はいないから。
「食べたら、お庭に行っても良いですか?」
「はい。今日はいつものお庭じゃなくて、別のお庭をご案内しましょうか。お屋敷の裏にある庭園の花が見頃なんですよ」
「そうなの? お散歩したかったからちょうど良いですね」
バターの油っぽさでしっとりと濡れた指を舐める。ナディアが微笑みながら布巾を差し出してくれたので、少しばつが悪いけれど肩をすくめながら受け取って指を拭いた。
今度はつやつやとしたオレンジ色のマーマレードのクッキーに手を伸ばす。
今日は何時くらいにロイクが帰ってくるのだろう。
ほんの少しもやもやとした気持ちをお菓子と一緒に飲み込みながら、美嘉は言葉の足りないロイクに想いを馳せた。
お昼にたっぷりとおやつを頂いた美嘉は、最近なら部屋に籠って勉強をしたり刺繍をしたりする時間を裏の庭での散歩にあてた。裏の庭はナディアが言っていた通り、花壇に咲く花がたいへん見頃だった。
ただ、やっぱり花の名前にも疎い美嘉だったから、その花が元の世界にもあったのかが分からなくて、寂しい気持ちになる。もっと早くに色々なものを見るべきだったと、ここ最近よく押し寄せてくる後悔の念に肩を落とした。
ロイクが帰宅し、共に夕食の席についた時、その事をかいつまんでロイクに話した。ロイクは綺麗に皿を空にしながら、美嘉の話に耳を傾けて相づちを打ってくれた。
「ミカが故郷で興味がなかったものも、ここで覚えていけばいい。それだけこの場所が魅力に溢れているということだから、俺は嬉しい」
ロイクがふっと雰囲気を和らげた。
美嘉はロイクの優しい思いやりに、心がふんわりと温かくなる。
けれど同時に、庭へと行くことになったナディアとの会話も思い出してしまって、ふんわりと膨らんだ想いは急速にしぼんでしまった。
美嘉は切り出すなら今だろうかと、咀嚼していた魚のムニエルをごくんと飲み込んだ。
「ロイクさん、聞きたいことがあるんですが」
「なんだ、改まって」
「外におでかけしては駄目なんですか」
音も立てずにナイフとフォークを操っていたロイクが、小さくかちゃんと皿とぶつける音がした。
食事のマナーもナディアから教えて貰っているから、食事中に音を立ててはならないということは知っている。ロイクはそのがっしりとした巨体でいつも器用に小さなカトラリーを扱うのだが、珍しいこともあるものだと美嘉はロイクの動揺を見抜いた。
ロイクはナイフとフォークを一旦置いて、赤ワインの注がれたグラスを手に取り傾けた。
「何か用事があるのか?」
「特には。でも、このお屋敷に来てから一度も外に出たことがないと気がついて」
取り繕う意味もないから、美嘉は素直に答える。
ロイクは渋面になりながら、内面の動揺を抑えているように見えた。ワインのグラスが何度も傾いているのに中身が減る気配はない。
じっと美嘉がロイクの様子を観察していると、ロイクはやがて言葉が纏まったのか、ワイングラスをテーブルに戻した。
「……魔術師の動きが心配だ。特に用がないのなら外出は控えるべきだ。外はこの屋敷のように安全ではない」
「……そうですか」
美嘉は殊勝に頷く。
ロイクが本当に言いたいことではないことに気づいたけれど、美嘉は何も言わなかった。必要になったら教えてくれるはずだともやもやとする胸を宥める。
美嘉はフォークをムニエルに突き刺して、ナイフを差し入れる。ゆっくりと引いて切り離すと、何てことのないように口元に運んだ。
香ばしかったはずのムニエルは、何だか味気なく感じた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます