第15話 見えない誰かのシソンヌ・フェルテ5

 夜も更け、紫闇の闇に包まれる。

 使用人も眠たげに目蓋を擦り始める頃、ようやくロイクが帰宅した。

 まんじりともしないで待っていた美嘉が玄関で出迎えると、ロイクは美嘉の頭を優しくひと撫でる。

 ロイクのごつごつとした指が離れるとき、美嘉の頬をかすめた。

 優しい手。

 力強い手。

 その手の感触に、美嘉は少しだけ安心する。

 そのまま二人で居間へと移動する。

 サロモンが夜食を用意し、後は邪魔だろうと言わんばかりに部屋を出た。

 いつものソファに、美嘉とロイクは腰かける。

 しばらく何も言わないで二人の時間を味わう。

 でもいつまでもそのままではいけない。

 こんな遅い時間まで残っていたのは、大事な話があるから。

 ゆったりとした時間は、ロイクがふとため息をついたことによって終わりを告げた。

 美嘉が身じろぎをすると、ロイクが不本意だと言わんばかりに不機嫌を滲ませて、ぽつりと言葉をこぼす。


「昼の、ことだが……」

「はい」

「……気づいてはいた。ミカはきっと、この世界の者ではないと。でも、それを認めたくなかった。だからお前に知らせないまま、こんなことになってしまった……」

「どういうことですか……?」


 ロイクの不思議な言い回しに、美嘉はふと顔をあげた。

 いつもの不機嫌そうな顔とは違う、険しさのまじる表情で、ロイクは重たげにその口を開く。


「……お前を探している者達がいる」

「私を?」


 きょとんとしてみれば、ロイクは忌々しそうに眉間にさらに皺を寄せる。


「ミカを異界から呼び出した者達がいるということだ。だが呼び出しの儀式が失敗して、お前は俺の元に落ちてきた」

「ええっと」

「一時的な召喚ならば、一定時間を経て送還される。だがミカの場合、儀式の中に送還の要素が組み込まれていなかったのか、送還の気配が全くない。この意味が分かるか」


 突然そんなことを言われ、意味が分かるかと問われても困る。

 『召喚』も『送還』も、美嘉には馴染みがない言葉だった。

 困ったようにロイクを見れば、ロイクは分かっているというように頷いた。


「ミカには、ピンとこないことかもしれないな。喚ばれた自覚もないだろう?」


 おもむろに、こくりと頷く。

 呼ばれたかどうか聞かれても、ロイクの言うとおり美嘉には呼ばれた自覚なんてものはないし、誰に呼ばれたのかも知らない。

 階段から落ちた。

 気がついたらロイクの腕にいた。

 それだけが美嘉の中の事実。

 誰かに名前を呼ばれたとか、誰かに誘われて来たとか、そういうことは一切身に覚えがない。

 美嘉の不安そうな顔に察したのか、ロイクは「大丈夫だ」と安心させるように美嘉の頬に手を添えた。大きな掌が、美嘉の頬を優しく撫でる。


「この世界は魔法がある。その魔法でお前は喚ばれたんだ。それだけ知っていればいい」

「どうして私なんかを……私なんて……」


 美嘉が睫毛を臥せる。

 美嘉が言わんとした言葉に気がついたロイクが、美嘉の顎に手を掛け、すくいあげる。

 美嘉の揺れる黒曜石の瞳が、ロイクを映しこむ。


「魔法を使うには色々な条件がある……特に、異界から人一人を召喚するためには、かなり細かい条件がかかっているはずだ」

「条件……?」

「ああ。ミカでなければならなかった理由があるはずだ。だから今日のように、多少強引な手を使ってでも、向こうはミカを連れていこうとするんだろう」


 昼中の出来事を思い出し、美嘉は自分の体を抱きしめる。

 屋敷を襲撃してきた人達の目的は美嘉で間違いないようだった。

 恐ろしさに身を震わせた美嘉を安心させるように、ロイクは彼女の頭を自分の方へと引き寄せる。

 ロイクの厚い胸元に、美嘉はされるがまましなだれかかった。

 とくとくと脈打つロイクの鼓動は、美嘉の不安をほんのりと和らげてくれる。


「向こうはミカを利用するために必死になってお前を探しているが、ミカが異界から来たことを申し出ない限りは見つけられないはずだった。本来なら召喚された際に召喚者に従うように付与されるはずの『隷属印』すら、付与されていないからな。だがどういうわけか、向こうはミカの存在を嗅ぎつけてきたらしい」


 『隷属印』はかけられた対象の目の届かない位置に発現する。

 隷属印は主に召喚に使用されるものだが、転じて奴隷や刺客などにも利用されていることがある。

 つまるところ、主人となる人物を裏切らないように、主人の手の元を離れないように、魔法で制約をつけるのが隷属印だった。

 それゆえ、自分では解除ができないよう、大体が背中に刻まれる。しかも魔法に長けた人間にしか見ることができないから、魔力のない人間には解くことも敵わない。

 魔法が不得手なロイクの代わりにランディが確認してくれた結果、美嘉には隷属印がないことが分かっていた。


「お前を妖精だと思ったのは本当だ。魔法のあるこの世界にも、何もない空間から人間が突然降ってくるなんて現象はそうそうないからな。だが、その数少ない方法を、奴らは取ったらしい」


 現実的な方法なんて限られている。

 ロイクが話すには、選択肢としてはまず転移魔法が挙げられるということだった。挙げられるが、美嘉の話からもただの転移魔法ではないことも窺えた。

 そこでさらに挙がる候補は召喚魔法。

 本来は、魔術師が使役するために魔獣や、聖獣、それに準ずるモノを、文字通りに召喚する魔法だが……人間が召喚された前例が無いわけでもなかった。

 ただ、とロイクは目を伏せる。


「召喚の魔法は難しい。お前を異界に戻せるのもその者達だけだ。魔法に明るいものでも召喚魔法は複雑で、理解が及ばないことが多い分野だと聞く。唯一分かることといえば、召喚の際に送還制限を設けなかった事を考えると、お前が異界に戻ることは……」


 ロイクの言葉はその先に続かなかった。

 美嘉の理解の範疇を越えているが、それでも言いたいことはわかる。

 美嘉はゆるゆると首を振った。


「……ロイクさんがそんな顔、しないで」


 美嘉を召喚した者たちは、美嘉を帰すつもりがない。

 よしんば送還しようにも、なにがしかの弊害が出るのだろう。

 それは、美嘉には最初から帰るという選択肢が無いに等しい。

 帰りたくても、誰かの悪意で帰れない。この広い世界を探せば、もしかしたら帰れる方法が見つかるかもしれないけれど。

 先程のロイクの言葉を思い出す。

 羽が治っても一緒にいてくれるかという問い。

 飛べなくても、何者でも、愛しいといってくれたロイク。

 美嘉は酷い人だと微笑む。


「ロイクさんの責任じゃない。私は自分で選んでここに残ります。どうせ帰っても、跳べなかった私の居場所なんて、もうないから」


 コンクールでありえない失態をした。別のコンクールで成功を納めたとしても、それは美嘉の汚点となって、常に彼女を苛む。

 今だからこそ分かる。

 このお屋敷で過ごした時間で学んだ感情が、あの時、美嘉の失態を嘲笑った子が自分に向けた感情を教えてくれた。

 ナディアと読んだ物語にも描かれていたその感情は、嫉妬。

 そしてその嫉妬は、あの子だけの感情なのだろうか。

 美嘉はふとした時に思うことがある。

 あの頃、バレエだけではなくて、もっと周囲の人間にも目を向けていたら。

 そこにあるだけで、気にも留めなかった感情の源泉に気づいていたのなら。

 結果は、未来は、変わっていたのかもしれない。

 ……でも全ては過ぎたこと。

 美嘉はそう自嘲する。

 美嘉はあの日、あの舞台で、嫉妬という魔物に足をすくわれた。

 例えあの失態を挽回したとしても、一緒にいた仲間たちには認められることはなかっただろう。

 むしろ嘲笑されて、要らぬ神経をすり減らすだけ。

 今までの美嘉だったら、失敗を挽回できたのなら周囲の目なんて気にしなかった。以前のように、羨望も嫉妬もそこにあるのが当然として、見て見ぬふりすることなんて容易かった。

 でも今は。

 ロイクに愛しさというものを与えられた今は。

 知らなかった『愛』という感情が、むくりと鎌首をもたげる。


「跳べるようになっても、私はここにいます。ロイクさんが、私を望んでくれるなら……」


 誰かが自分を利用するために呼んだとしても、この瞬間、美嘉がいるのはロイクの腕の中。

 見えない誰かなんて怖くはない。

 その見えない誰かによって帰り道が閉ざされても、今はロイクがいる。

 自分以上に感情が表に出ない、不器用な人。

 その人が自分を大切にしてくれる。

 その人が自分を愛してくれる。

 帰れないからという理由でロイクを選ぶんじゃない。

 美嘉の意思でロイクの元に残ることを選びたい。

 だから、帰ることが難しいと知っても、そんなに落ち込むことはない。落ち込んではいけない。

 美嘉がここにいることを自分で選んだ。

 それはロイクにとっても、美嘉にとっても、大きな意味を持つ。

 だけど。


「……でも、ね。今の私は、ロイクさんにふさわしいとはとても言えません。あなたのくれる愛を、私は受け止めてあげることができないの……」


 美嘉は仄暗い光を瞳に宿して微笑んだ。

 どんなにロイクが美嘉のことを愛してくれても、美嘉自身が自分を愛せない。

 だからロイクの想いを受け止めることは、美嘉にとって難しい。

 きっと、跳べる美嘉だったらこんな風に戸惑うことも無かったのに。


(……ううん、ちがう。跳べる私だったら、ロイクさんの想いを受け止めたいなんて思わなかった)


 跳べなくなったからこそ、人の想いに気づけるようになった。

 水のように形を持たず、目にも見えない透明な想いを、手のひらにすくえるようになったのは、ロイクやこの屋敷の人達が美嘉に愛情を注ぎ込んでくれたからこそ。

 本当は、ロイクの想いに応えたい。

 それなのに、今の自分にその資格がないと、伸ばしかけた手を下ろしてしまっているのは美嘉だ。

 情けない顔を見られたくなくて、美嘉はロイクの胸に額をこするように密着した。

 とくとくと脈打つ鼓動を聞くと、なんだか安心するのはいつものこと。

 ロイクはそんな美嘉の華奢な身体を優しく抱きしめる。


「忘れるな。ミカの場所はここだ。誰にもお前を、奪わせたりはしない」

「ロイクさん……」

「いつかきっと、羽を取り戻したミカが俺に答えを返してくれる日を待っている」


 ロイクはどこまでも優しい。

 中途半端な美嘉のことを、こうして包んで見守ってくれる。

 その優しさに溶かされて、美嘉はいつまでもロイクの体温を寄り辺にしてしまう。

 この安らぎは、唯一無二のもの。

 美嘉がロイクの想いを受け入れるだけで、それが永遠になると気づいているのに。


 ―――美嘉の心の枷になっているものが、あれほど心血注いでいたバレエだなんて、世の中ままならないことばかりだ。



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