第13話 見えない誰かのシソンヌ・フェルテ3
美嘉がロイクに愛を捧げられた翌日。
美嘉はいつもの庭で、壊れたオルゴールのようにくるくると回り続けていた。
左足を軸に、右足のつま先を左足の太ももに添え、一回転のピルエット。
勢いがなくなって左足のかかとが地に着く瞬間、曲げている右足を伸ばして振る勢いで再加速する。
無心で回り続ける美嘉のそれはフェッテと呼ばれ、舞踊『白鳥の湖』に登場する黒鳥の行う超絶技巧として有名だ。
美嘉は白鳥の湖をやったことはないし、きっともう一生やることもないだろうけれど、今にも跳びそうな足のうずきをおさめるために、果敢にも超絶技巧に挑戦していた。
くるりと回って、地にかかとをつける。
足を伸ばして加速して、もう一回ピルエット。
同じ動作を繰り返す度、美嘉が加速をする度に、靴底が地面をえぐり、軸がぶれていく。
その場に留まろうと美嘉は軸足を意識した。でも軸足に気をとられ過ぎると目を回す。
視線を一点に固定する。
くるりとまわる一瞬ごとに、庭にある山茶花が一株、視界に留まる。
プロの演じる黒鳥のような激しい回転は難しい。
ぶれる軸と酔いそうになる視界に最近の怠慢さを感じ、くるりくるりと連続回転を三セットやったところで、美嘉は回転をやめた。
トゥシューズじゃないからか、回転に勢いがつかず、思った以上につま先に負担がかかる。そのうえ同じ場所に留まろうとしたからか、庭の芝生がえぐれて土を露出させてしまった。これはちょっと困った。後で庭師の人に伝えておかないと。
一つ息をついて、美嘉はさて次はどうしようかと思案する。
何も考えたくなかった。
ロイクの言葉を素直に受け止められなことを、後悔していた。
あれだけ激しくくるくると回転したのに、ふらつくこともなく涼しそうに別のポジションを取ろうとした美嘉へ、邪魔にならないように控えていたナディアが感嘆の声をあげた。
「すごいですね……あれほど回って、目が回らないのですか?」
「コツがあるの」
建物に近いところで庭にいる美嘉をじっと見つめていたナディアが、こちらに歩み寄りながら笑顔で誉めちぎる。
「今までされていたダンスよりも、激しかったですね。姿勢もピンとのび、足の動きはしなやか、拍も取れていて、惚れ惚れしてしまいました。きっちり三十二回転なのには、何か理由が?」
「数えていたの?」
一回転ごとに足を振り子のように開くから、他のターンよりは数えやすいとは思うけれど、まさかわざわざ回数をきっちり数えられていたとは思わない。
びっくりした美嘉は思わず目を丸くした。
「一回目は途中からでしたが……どれだけ回るのかと、二回目からはきっちり数えさせていただきました」
ただの好奇心ですよと微笑むナディア。
美嘉はそんな彼女に、自分付きのメイドなんて暇なんだろうなと申し訳なく思った。仕え甲斐のない人間でごめんなさい。
せめてものお詫びにと、ナディアの質問に答える。
確か、フェッテが三十二回転の理由だ。
とはいっても、そんな大した理由はないけれど。
「ええっと、どうして三十二回なのか、ということだよね?」
「はい」
どうやって教えようかと一瞬迷う。
単純に超絶技巧ですと伝えても良いけれど、それじゃなんだか面白くない。
せっかくの話の種だからと、美嘉は姿勢を楽なものにしてナディアの方へと近寄った。
「私の世界のお話が元になってるの。じっくりお話ししたいから、中でもいい?」
「あぁ、申し訳ありません。お邪魔をするつもりではなかったのです」
「いいの、気にしないで」
「ですが、本日はまだいつものダンスを……」
言い淀むナディアに、美嘉はくすりと笑った。
「今日は元々踊らないつもりだったの。どうやったって、今の私には跳べない。こんな中途半端な気持ちのままじゃ、きっと跳ぶための踏ん切りはつかないから」
だから踊らないの。
そう自嘲気味に笑った美嘉に、ナディアは痛ましそうな表情を浮かべた。
この屋敷に来てから塞ぎ込んでいたように見えた美嘉。それが今朝、さらに悪化していた。
食事も細く、いつにもなく苛烈な躍りをしてみせる美嘉に、ナディアは間違いなく自分の主人との間で何かあったことを察していた。
でも、ナディアと違ってバレエ一つで生きてきた美嘉には、他人の心の機微というものが難しすぎた。
今もまた、自分の事に手一杯で、ナディアの視線に気づけない。
喜怒哀楽の感情は知っていた。
難しい振り付けが完璧にできたら嬉しいし、自分の演技を貶されれば怒るし、使い慣れたバレエシューズやトゥシューズを買い換える時は悲しいし、ジャンプを気持ちよく跳ぶのは楽しい。
喜怒哀楽以外にも感情があることは知っていた。
でも、それらは嫉妬と羨望ばかりで、大きな怪我や失敗一つなくバレエ人生を送ってきた美嘉には『心配』も『安心』も初めてで。
ロイクの元に来てから、新鮮な感情が涌き出てくる。戸惑うこともあるけれど、美嘉はその感情をもって人間らしくなった。
一方で、それが怖くも感じていた。
自分の知らない感情に飲み込まれて、自分がどうなってしまうのか、分からなくて。
口下手ながらも言葉を交わすために、美嘉はナディアと一緒に部屋に戻り、談話室でお茶を用意してもらう。
ナディアに席をすすめるけれど、「使用人ですから」と断られてしまった。
美嘉がバレエを誇りに思うように、ナディアも使用人としての誇りがあるかもしれないと、無理は通さないで自分だけソファに座ってお茶を飲む。
ティーカップに口づけると、アールグレイのちょっと独特な風味が舌へと残った。
「ナディアに今から一つの物語をお話しします」
「妖精の国のお話ですか?」
「そう、ね。私の国の……世界のお話です」
異世界人だろうと妖精だろうと、美嘉がこの世界の人間でないことは確かだ。ナディアもそのことは気づいているだろうけれど、このお屋敷の人間は徹底して美嘉を妖精として扱う。
最初は違和感しかなかったけれど、ロイクがあえてそうさせているんだと気づいてからはあまり気にしなくなった。
美嘉は訥々と物語『白鳥の湖』を語りだす。
「昔、あるところに、とても美しい娘がおりました」
バレエ音楽として有名すぎるほどに有名な、チャイコフスキーの『白鳥の湖』。
そのストーリーは不朽の名作として、文学作品としても、絵本としても、美嘉の世界で親しまれてきた。
美嘉は先ほど庭で披露していた三十二回転フェッテに至るまでのあらすじを話していく。
湖にいる呪われた白鳥たちの話、白鳥の姫と王子の出会いの話、王子の舞踏会の話。そして白鳥に呪いをかけた悪魔の娘の黒鳥が、王子を騙して結ばれるのを確信して喜びを表すのが、さっきの踊りだと教える。
「どうして白鳥ではなく黒鳥の踊りを? そんな悪役の踊りをしなくとも……」
ナディアに不思議そうに言われて、美嘉は困った。
だって、理由なんてない。
足の赴くまま、気の乗るまま、ターンをしようと思っただけだったから。
「……私にも、分かりません」
とにかく体が動かしたかっただけだと伝えると、「ミカ様は以前黒鳥の演技をされたのですか?」と聞かれた。それにも首を振る。
黒鳥は基本的に白鳥の姫と同一人物が踊る。
つまり
確かに美嘉は技術がずば抜けて高かった。
でもそれはスタジオの中での話であり、まだ正式にはプロのバレエ団に所属はしておらず、舞踊劇の舞台に立ってはいない。
それでも一度は憧れるもので、自分ではまだ技術が足りないとは思っても、超絶技巧である三十二回転フェッテはしてみたいと思うのが、バレリーナを目指すものとしては当然だと思う。
その辺りのことをナディアに伝えたいけれど、口下手な美嘉ではなかなか上手く伝えられない。
紅茶を飲みながらバレエについて話し続けると、やがてナディアはふと理解したように微笑んだ。
「ミカ様はバレエがお好きなのですね。もしやバレエを司る妖精なのでは?」
冗談めかして言うナディアに、くすくすと笑ってしまう。
「そうだったらいいんだけど」
笑ってから、ふと自分に付けられていた二つ名を思い出した。
『東洋の妖精』。
そう呼ばれ、賛辞を受けていた。
期待の眼差しの中、失態を演じたあの時までは。
心の中で付け足した言葉にどこか暗く、遠い目をした美嘉。
それに気がついたナディアが再び声をかけようとした時、唐突にお屋敷全体が揺すぶられた。
カタカタと調度品が揺れ、天井の小さめのシャンデリアも揺れている。
地震かと思って驚き、窓の外を見ようと美嘉が視線をあげると、透明だったはずの窓が白く濁って不透明になっていた。
「え……? ナディア、窓が……」
「……どこぞの馬鹿が襲撃をかけてきたようですね。一重目の結界が破られ、二重目の結界が発動したようです」
驚いていたのか一拍返事が遅れたが、慌てることもなく言うナディアに、美嘉は必死にまばたきを繰り返して状況を理解しようとした。
「ええっと、襲撃って……」
「旦那様からミカ様の身の安全を仰せつかっておりますのでご安心を。私たちは万が一に備えて、特別な訓練も受けておりますので」
ランディの言っていたことを思い出した。
ロイクはその地位ゆえに、妬みや恨みを買ってしまうことがあるということ。
だから一人で住んでいるということ。
それは、こういうことらしい。
突然降ってわいた身の危険に血の気が引いていく。
そうしてふと、先日のロイクの言葉を思い出した。
―――それは、誰かの悪意に晒されたということか。
きっと、ロイク自身も、感じたことがあるからこその言葉だった。
ロイクは美嘉と同じだったのだと今更ながらに理解した。
そしてその言葉が、最大限に美嘉に寄り添ったものだったことも。
「ロイクさん……」
美嘉は見えない誰かの悪意を思い出し、そっと守るように自分で自分の体を抱きしめる。
どうしようもない不安に襲われて、落ち着かない。
屋敷の外で、何かが爆発するような音が響く。
ナディアが美嘉の隣へとやってきて、不安そうな美嘉の手をとった。
「いったい何が……」
「分かりません。ですが結界が破壊された時点で、旦那様の方にも連絡がいっているかと思います」
「……ここでのんびりしていていいの? 逃げたりとかは」
「大丈夫ですよ。今執事長が安全確認を行っているでしょうから、避難するのはその後です。それに二重目の結界は、外郭にありました一重目の結界よりも強固で、外から覗き見されることも防ぎますから。この結界が破れない限りは襲撃者に居場所を知られることもありません。もし破られても、このお屋敷の使用人はある程度旦那様に稽古をつけて頂いております。旦那様が戻られるまでの短い時間、十分自衛は可能です」
頼もしいナディアの言葉に、不安は残りつつも美嘉はナディアの指示に従う。
こういった緊急事態はパニックになってはいけない。結界というものがどれほどの効果があるのかは分からないけれど、結界が二重なのは安全のためだけではなく、こちらの心の準備を整えるような役目も持っているのかもしれない。最初は驚いた様子のナディアもすぐに状況を察知して、緊張はしつつもし過ぎるという様子がないことから、そういった役割を持つことがうかがえた。
ナディアに言われるまま、じっとその場に留まる。先ほどよりは心が落ち着いた。そんな余裕が生まれた中で、紅茶が冷めてしまっていたことに気がついた。でもさすがにこんな中で優雅にティーカップに口をつける気にはならない。
長い時間、緊張感の中じっとしていると、コンコンと談話室の扉がノックされた。
誰何すると執事長のサロモンで、ロイクが外で呼んでいるという。一瞬だけでもいいから姿を見せて欲しいとのことだ。
こういった場合、引きこもるのが普通じゃないのかと思って怪訝に思ってナディアを見ると、ナディアも不思議そうにうなずいた。
「分かりませんが……旦那様のご指示ならば従いましょう。何か意図があるはずですから。おそらく騎士団の者を多く連れてきていると思いますが、普段通りにしていただいてよろしいですよ」
ナディアに手を引かれ、美嘉はソファから立ち上がる。
何が待ち受けているのか分からない不安を抱えたまま、サロモンに案内されて移動する。
この世界に来てからずいぶんと履き慣れた、バレエシューズのように柔らかな靴で、絨毯を踏みしめ、歩いていく。
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