第9話 気まぐれのフェッテ2
それは、美嘉に物心が着いたばかりの頃の記憶だ。
父方の祖父母の家に遊びに行った時のこと。
美嘉の父は生粋のロシア人で、仕事で日本に来た際に母と出会い結婚した。父は結婚をした後、日本に移住したが、当然父方の祖父母はそのままロシアに住んでいた。
ロシアの冬は厳しい。幼い美嘉が体調を崩さないようにと、ある夏に祖父母へ会いにロシアへ遊びに行った。
まだ、バレエと出会ったばかりの頃だったと思う。
バレエを習いはじめたのと言って、祖父母の前で拙い踊りを披露した記憶があるから。
その時に、祖母が小さな美嘉に一緒にコズーリを作ろうと言ってくれたのだ。今の、ナディアのように。
ロシアの焼き菓子の一種で、日本でいうアイシングクッキーと同じようなお菓子。
一つ一つ、記憶の泡をつついていけば、飾りつけを手伝ったことが鮮明に思い出せた。
「えっと、確か卵白にお砂糖を加えて、練って出来たソースに、色を着けるんです」
「あー、マカロンみたいな感じか?」
美嘉にはマカロンの作り方が分からないけれど、マカロンも焼き菓子だ。
ただし美嘉の記憶に間違いがなければ、アイシングした後のクッキーは焼かない。
「……クッキーを焼いた後に、卵とお砂糖でできた絵の具で色を着けるんですけど……焼いたらマカロンになるんですか?」
「焼かないのか?」
「焼かないです」
「クッキーは?」
「クッキーだけ焼きます」
ちょっと不安になりながらも美嘉が答えれば、ポールは得心がいったのか、しきりに頷いた。
「なんとなく分かった。それならさっさとクッキーを焼いちまうか!」
「オーブンの余熱、しておきましたよ」
ポールの掛け声に、ナディアが即座に返事をした。
この世界には電気がない代わりに魔法があるので、オーブンを温めるのにもそう時間がかからない。
時折見ていた洋画に出てくるような前時代の直火を使ったオーブンではなかったことに安心したのは、美嘉だけの秘密だ。
ポールがオーブンにクッキーを入れる。
ナディアがオーブンに魔法をかけた。
オーブンが淡く輝いて、パチパチと火の粉がはじけ、クッキーが香ばしく焼かれていく。
美嘉はオーブンに魔法がかかる瞬間が好きだった。
初めて見たわけじゃないのに、子供のように無邪気に目を輝かせた美嘉を、ナディアが微笑ましげに笑う。
その間にもポールはささっと調理台に卵や粉砂糖、食紅などを用意して、アイシングの準備をしていった。
「卵白と粉砂糖を混ぜれば良いだけなんだよな?」
「たぶん……?」
「卵白は乾燥させりゃ固まるから、そんな心配すんな」
夢中でオーブンを見ていた美嘉が慌てて返事すると、ポールが笑った。
そのままボウルに手際よく卵白と粉砂糖を入れていく。
そして。
「そぉーら」
ボウルにいれた泡立て器に、ポールが魔法をかける。
泡立て器の鋼の部分が、ハンドミキサーのように回転を始めた。
「すごい……! どうなっているの? これも魔法?」
「そうだ。泡立て器の鋼の根っこの部分につむじ風を起こす魔法をかけてやると、こうやって回るんだ」
「オーブンの熱魔法と同じで、生活魔法の応用ですよ」
魔法に触れるたび、美嘉の心にぽつぽつと小さな火が灯る。
知らないことを知る喜び。
色々なことを経験させてくれようとするナディアが灯していく、好奇心という名の感情。
美嘉はうずうずとするその感情をもて余して、そわそわとポールが魔法で卵白をかき混ぜる様子を見つめ続ける。
「どれくらいだ? 固さはこんなもんか?」
卵白を角立てたポールに、美嘉はこくりと頷く。
「それに色をつけます」
「あいよ」
ポールが平らな皿を出して、その上に真っ白なクリームを適当に置いていく。
食紅の粉を少量ずつ取って、バターナイフのような道具でよくよく練り込んで色をつけた。
それを何色も繰り返す。
食紅で無い色は、色のついたアイシングを混ぜて新しい色を作っていく。
カラフルな絵の具が、お皿のパレットの上に広がった。
「よし、出来た。これをどうするんだ?」
「えっと……刷毛で塗ったり、袋にいれて絞り出したりして絵を描くんですけど……」
この世界にはビニール袋なんてない。
代替できるものなんて知らないから、美嘉が口ごもってしまうと、オーブンの番人と化していたナディアが声をかけてきた。
「絵を描くなら筆でもよろしいのでは? それとも新品のペンをご用意します?」
「ペンを出すくらいなら串で十分だろ」
ポールがナディアに呆れたような声を出して、調理用の刷毛と串を食器棚から出してきた。
「これでいいか?」
「ありがとう」
美嘉がありがたくそれを受けとると、厨房に焼きたてクッキーのバターの匂いが広がった。
「こちらも焼けましたよ」
魔法のオーブンの仕事の早さに、美嘉はパチパチと拍手する。
ポールは期待通りの香ばしい匂いにニヤリと笑うと、焼きたてのジャムクッキーを一つ美嘉に差し出した。
「綺麗にできてるじゃねぇか」
「え、と」
「お嬢のおやつだ。味見はお嬢がしな」
イチゴのジャムがルビーのように輝いている、大きなまぁるいクッキー。
熱々のそれを受け取ってわたわたしながら、美嘉はふぅと息をかけて冷ますと、おそるおそるクッキーをかじってみた。
一口ではジャムにたどり着けない。
もう一口かじる。
「……!」
溶けてしまうと思っていたジャムが、熱々のまま口の中で形を残す。舌の上でほどよくクッキーと絡んで、イチゴの甘酸っぱさがバターによって引き立てられた。
「美味しい……! ナディアも、ポールさんも、食べてみてください」
「いいんですか?」
「それなら遠慮なく」
ナディアが控えめに、ポールは無遠慮にクッキーを掴んでかじる。
「これは美味しいですね!」
「ほう、こりゃいい。見た目も綺麗だしな。作り方はこれであってたのか?」
「はい、私の知ってるクッキーと同じです」
「そら良かった。また作ってやるよ」
三人で一枚ずつ、ジャムのクッキーをかじった後は、ナッツやドライフルーツ入りのクッキーも一枚ずつ味見をした。
ナディアは甘酸っぱいドライフルーツ入りのクッキーが、ポールはざくざくとした食感のナッツ入りのクッキーが気に入ったようだった。
それぞれのクッキーを味見し終えると、いよいよ本命が待っている。
ポールが調理台に置かれたクッキーに魔法をかけた。
「さ、早いとこ描いちまいな」
あら熱を取るための風が、クッキーを撫でていく。
ナディアがささっとジャムやナッツの冷めたクッキーを取り除けば、調理台に残るのは、まだ飾りつけをしていないシンプルなクッキーだけ。
ポールに促された美嘉は、四角いクッキーを一枚手に取ると、串を手に取った。
ちょんちょん、とアイシングを串の先につけて慎重に絵を描いていく。
とりあえず、ピンクのアイシングでウサギを描いてみた。
「……ミカ様、これは」
「……新種の魔物か?」
「……うさぎです」
「いやいやいや、これのどこがウサもがっ」
「非常に愛らしいですね。特にここの耳? がうさぎの特徴をよく捉えていて」
「ナディア、それ、足なの……」
「申し訳ございません!」
日本でよく見た、かわいくて、元気で、大好きなうさちゃん。
服を着て、二本の足で立つあのうさぎの女の子を頑張って描いてみようとしたけれど、足を耳に勘違いされるほどにひどい出来映えだった。
あまりの絵心の無さに美嘉は肩を落として、刷毛を手に取る。
「えい」
「ミカ様!?」
「お嬢、ひでぇ!」
ピンクのアイシングを刷毛ですくった美嘉は、そのままウサギを塗りつぶした。
まっ平らなピンクのアイシングクッキーが出来上がる。
「ミカ様、そんなご無体な……」
「潔すぎるだろ……」
塗りつぶされたウサギを哀れんだ二人の視線から逃れるように、美嘉はまた別の刷毛を手に取ると今度は青色のアイシングをすくった。
「塗ります」
「豪快にいくなぁ」
「ミカ様! お待ちください! 何事も積み重ねが大切なのです! 見本があればきっと、ミカ様でも、上手に描けますから!」
苦笑していたポールを押し退けて、ナディアが主張する。
そして美嘉の隣で一枚のクッキーと、串を手に取った。
「ささ、私も書きますので、一緒に描いていきましょう? ミカ様は何が書きたいのですか?」
「……うさぎ」
「はい」
ナディアが串を使って器用に黄色のウサギを描いていく。
美嘉はそれをじっと見つめる。
耳と、顔と、目、鼻、それと真ん丸な体。
雪ウサギのように臥せっているウサギがクッキーの上に生まれる。
「ナディア、上手」
「ふふ、ありがとうございます。さぁ、ミカ様も」
美嘉は渋々串を手に取ると、もう一度クッキーにピンクのアイシングでうさぎを描く。
ナディアの見本と見比べながら描いたうさぎは、さっきのうさぎよりもよっぽどうさぎらしかった。
少なくとも、二足歩行はしていない。
「ほら、ミカ様も上手じゃないですか」
「それは、お手本があるから……」
「お手本がない時は想像するのです。特徴を掴みつつ、つぶさに思い出そうとすれば、意外と描けるものなのですよ」
「むぅ……」
ナディアは簡単に言ってのけるが、美嘉にはそれが難しい。
でも、アイシングをすること自体は、思ったよりも楽しかったから。
「……がんばる」
「その意気ですよ」
「はは、ま、思う存分遊んでな。さーて、俺は夕食の仕込みまで休憩行ってくらぁ」
「あ、行ってらっしゃい」
「ごゆっくりどうぞ」
ポールはひらひらと手を振ると、コック帽を取りつつ厨房を出ていった。
厨房に残ったナディアと二人で、クッキーに向き直る。
「ささ、沢山描きましょう?」
「うん」
二人で並んで、クッキーに色を着けていく。
失敗も多かったけれど、そのたびに塗りつぶしては、乾燥させて、上から新たに描くことを繰り返した。
夢中で絵を描き続けて、シンプルなクッキーに全部アイシングし終えた頃には、丁度良い具合にお茶の時間を過ぎていた。
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