第8話 気まぐれのフェッテ1
昼食を終えた、ある昼下がりの事。
「ミカ様、今日のおやつはクッキーです」
ロイクは朝から騎士団に出勤していったので、今はいない。
美嘉が食後の時間をもて余してぼんやりとしていると、唐突にナディアがお茶菓子をクッキーにすると宣言した。
まだ昼食を食べ終えたばかり。おやつの時間にはずいぶんと早い。
ぱちくりと目を瞬かせていれば、ナディアはにっこりと笑う。
「ミカ様、一緒にクッキーを作ってみませんか?」
「え……でも」
「パンが焼けるようになったのなら、クッキーなんておままごとみたいなものですよ。子供だって作れてしまうんですから」
最近、こうやってナディアが美嘉のことをよく誘うようになった。
まるで姉のように世話を焼くナディアの距離感に最初は戸惑っていた美嘉だけれど、こうやって声をかけられること自体は嫌ではない。
跳べないと泣いたあの日から単調に過ごしていた美嘉だけれど、ランディが来て、美嘉のことについて聞いていった日から、こうやって変わった事が沢山ある。
ロイクやナディアとちょっとしたお話をするようになった。元の世界やこの世界の事を。
ロイクやナディアにとっての元の世界はまさしく妖精界の様相を成しているのか、興味は尽きずに根掘り葉掘り聞かれることも多かった。お屋敷の皆に元の世界の話をねだられる度に、口下手な美嘉は苦労しながらも一生懸命に伝わるように話をする。
その結果、ただでさえこの屋敷の人々は美嘉の事を妖精だと言ってはばからなかったのが、ますますその傾向が強くなってしまった。誤解は早いうちに解いておきたいと思って、思い切って「私は、生物学上は人間です」と言ってみたけれど、ロイクもナディアも微笑ましげに笑っただけだった。絶対に信じてもらえていない。
そういう時、美嘉は自分のコミュニケーション能力の低さを痛感する。
元の世界では一日のほとんどがバレエの事ばかりだった。寝ても覚めてもレッスンの事が脳内を占めていて、バレエの事以外をこんなに沢山喋るなんて生まれて初めてかもしれないとすら思ったくらいだ。
そんな日々が続いていけば、自然と美嘉はバレエ以外の事にも目を向けるようになる。
最初にこの国の文字を読めるようになった。最近では少し難しい本も読めるようになって、ナディアに流行りの小説を教えてもらって一緒に感想を言い合うようになった。
ナディアに教えてもらってパンを焼く事もできるようになった。そのパンをサンドイッチにしてロイクに差し入れるのが最近の楽しみになっている。
刺繍も覚えている最中だ。お手本を見ながら、彩り鮮やかな糸で無地の布に薔薇を咲かせようと頑張っている。これがなかなか難しくて、完成までまだまだ時間がかかりそうだ。
ロイクの庇護下で、美嘉はできることがどんどんと増えていく。
バレエ以外何もできない不器用な人間だと思っていたけれど、何事も前向きに向き合ってみれば、意外と何でもできるものだと思うようになった。
今では、今日一日何をしたのか、一日の最後にロイクと語らうのが一番の楽しみになっている。
ただ、相変わらず日に何度か踊っては跳ぶことができない事実に打ちのめされる。けれど広がった世界では跳べなくても良いのではないかと思うようになっていた。
だからこそ、美嘉はナディアのお誘いを断れない。
できることがまた一つ増えるのが、嬉しいから。
「また一つ、できることを増やしましょう?」
そう言われてしまえば敵わない。
美嘉は頷いて、ナディアの先導で厨房へと繰り出した。
美嘉は初のクッキー作りに挑戦する。
お菓子は分量が命ですよと言うナディアと、気前の良い料理長のポールにいくらでも失敗しろと見守られながら、一生懸命クッキー生地を作っていく。
薄力粉にバターを加えて、卵黄を加えて、砂糖を加えて、なめらかになるまで生地を練る。
とはいっても、最近はパンのタネだって、分量通りに量って混ぜてこねて、美味しいパンの素を作ることができるのだ。
焼くことは加減が難しいからとポール任せだが、クッキーも同じように量って混ぜてこねるもの。
美嘉は危なげなく、見事にクッキー生地をこねあげて見せた。
まぁるい塊になったクリーム色のクッキー生地を見て、ナディアとポールが微笑む。
「良い調子です」
「次は型抜きだな」
ポールが麺棒を取り出して、これで薄く伸ばすようにと指示を出した。
美嘉が言われた通りに生地を薄くしていると、その間にナディアが幾つかの型抜きを用意してくれた。
大きな丸型と、小さな丸型。後は四角い型。
そのシンプルな型抜きたちを使って、美嘉はクッキーの型を抜いていく。
クリーム色のクッキー生地を型抜きしながら、ふと美嘉はその視界の味気なさを寂しく思った。
元の世界ではプレーンの型抜きクッキーだけではなく、絞りのクッキーやココアで色づけた濃茶色のクッキー、それからジャムを乗せたクッキーなど、様々な種類があったのを思い出したから。
「型抜きも楽しいけど、ちょっと寂しいね」
「そうですか?」
「クッキーなんてこんなもんだろ?」
ぽつりと呟いた美嘉の言葉に、ナディアもポールも特別なにも思わないようだ。
そういえば、と美嘉は思い出す。
お茶の時間に出てくるクッキーもプレーンの物ばかりで、ジャムやココア、シナモンやナッツのクッキーを見たことがない。
この世界にはクッキーを飾り付ける習慣はないのだろうか?
試しにナディアに聞いてみる。
「ねぇ、ナディア。ココアとか、ナッツとか、ジャムとか、クッキーに混ぜないの?」
「ここあが何かは分かりませんが……ナッツもジャムもクッキーに混ぜたものは見たことがありませんね」
「お嬢の国はクッキーに混ぜ物をするのか」
ナディアが首を傾げながら答える側で、ポールが少し考えて調理室と繋がった食糧庫へと入っていく。しばらくすると、幾つかの袋や瓶を抱えて帰ってきた。
「これがナッツで、こっちの瓶はジャムな。後、乾燥果物とかも持ってきた。使うか?」
袋や瓶を指差してポールは説明してくれる。
美嘉はジャムを一つ手にとって、ふと思った。
「クッキーにジャムを乗せる時って、焼く前に乗せるの? 焼いた後に乗せるの……?」
どっちだろうか。
お菓子作り未経験者の美嘉には見当もつかない。
食べたことのあるジャムのクッキーを思い出す。あれは確か、溶けずに固形のままだったような。
ジャムは温めると溶けるのではないか。
紅茶に入れるジャムだって溶けてしまうし。
それならあのジャムは冷やされていたもの?
でもクッキーは常温保管だ。外に出しておけば溶けてしまうはず。
首を捻ってどうやって作るのだろうかと考える。
ナディアとポールに伝えると、二人も今まで試したことのない手法だから首を捻る。
「まあでもジャムは煮詰めていくと水分が飛んで粘度があがる。ジャムを乗せてから焼いて大丈夫じゃないか?」
クッキー生地をこのままにもしておけないからと、ポールの一言で試しに焼く前の幾つかのクッキーの上にジャムを乗せることになった。
美嘉は頷いて、型抜きをした数個のクッキーの上にイチゴのジャムを乗せようとする。
「お、待て。上に乗せるだけだと、もしかしたらこぼれるかもしんねぇからな……こっちに乗せろ」
ポールが気を利かせてくれて、ジャムが乗せやすい形のクッキーを作ってくれる。
小さい丸型で中央をくり抜いたドーナツ状の生地と、大きな丸型で抜いた生地を重ねられた。
上のドーナツ状の生地が壁になってくれたお陰で、美嘉は綺麗にジャムを乗せることができた。
満足げに同じものを五個作る。
ナディアもポールと一緒にジャム用のクッキー生地を型抜きしてくれた。
ジャムの次はナッツだ。
四角いクッキーをナッツで飾る。ついでに貰ったドライフルーツも一緒に飾ってみる。
夢中でクッキーを飾っていると、ナディアがくすりと笑みをこぼした。
「色、付けたいですね」
「色ですか?」
「ええ。ここまでケーキのように飾ることができるのなら、ケーキのように白だったり、ピンクだったりしても良いのではないかと思いまして」
「なるほどなぁ。そういうのは先に言えば生地に色粉を混ぜてみたのによ……」
ポールが面白そうにナディアの考えに頷くが、いかんせん、生地をこねくりまわすのは衛生上よろしくない。
また今度な、と言おうとしたポールに美嘉はふと思い出した。
「
「「こずーり?」」
ナディアとポールが二人しておうむ返しにしながら、首を傾けた。
その声が見事に重なっていたので、美嘉はちょっと笑ってしまう。
「えっと、あれ……そう、アイシングクッキーのことです」
「あいしんぐ?」
「お砂糖と卵白でできた絵の具……? で色を着けることを、アイシングっていう……はずです。たぶん」
「ほぅ? 面白そうだな。よく聞かせてくれ」
目を爛々と光らせた料理長が、美嘉に話をねだる。
美嘉もかなり昔のことだからうろ覚えだけど、記憶の扉を一つ一つ丁寧に開けて、その作り方を思い出していった。
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