第10話 気まぐれのフェッテ3

 ロイクが騎士団から帰って来た。

 執事のサロモンにそれを教えてもらった美嘉は、いつものように玄関でロイクを出迎えた。


「ロイクさん、お帰りなさい」

「ああ。ただいま」


 ロイクと親愛の抱擁を交わして、そのまま美嘉は食堂へと移動する。

 ロイクは一度、部屋に戻って私服へと着替えた。

 美嘉は食堂で食事の準備をしているポールに視線を向ける。

 ポールは分かっていると言うように大きく頷いてみせた。


「食事が終わってからで良いか?」


 美嘉はこくりと頷いた。

 後ろに控えているナディアが微笑ましげに見ている。

 三人で秘密のやり取りをしていると、ロイクがサロモンを伴って食堂へと入ってきた。


「待たせた」

「いえ、そんなに待ってないです」


 ロイクが着席したのを合図に、ポールとナディアが給仕を始める。

 最初はこの給仕に慣れなかった美嘉も、自宅内にあるレストランだと最近は思うことで動揺することはなくなった。

 ロイクにはワイン、美嘉には果実水がグラスに注がれる。


「神に感謝を」

「神に感謝を」


 グラスを軽く掲げる。

 これがこの国での「いただきます」なのだと教えてもらったのも、まだほんの少し前の話で。

 美嘉はいつも不思議な気分になりながらこの食事の時間を過ごす。

 今日のメインデッシュはこってりとした豚肉のソテーだ。お皿の周りには赤と黄のパプリカ、白色の玉ねぎをオリーブオイルと胡椒で炒めたものが飾ってあって、彩りもいい。

 お肉は柔らかくジューシーで、赤ワインの甘さと辛さの引き立つ濃いめの味付けだ。それに引き換え、お皿を彩る野菜たちはオリーブオイルによってあっさりとした甘みが引き立てられている。

 でも、メインデッシュのお皿で口の中が油だらけになってしまうと、せっかくの美味しい味付けがくどく感じられてしまう。

 でもそこにすっきりとした野菜のスープをいただくことで、油でこってりとした口の中を洗い流してくれるから、美味しくいただける。

 さすが料理長。ポールの料理の腕前は一流だ。

 しばらく黙々と舌鼓を打っていた二人。

 食事もほどよく進んだところでロイクが美嘉に声をかけた。


「何か、不足はないか」

「とくには、ないです」

「そうか」


 それからまたしばらく黙々と食事が進められていく。

 ロイクは美嘉のことを気にかけてくれている。

 この問いもその一つで、美嘉が過ごしやすいようにと色々手配をしてくれていた。

 そこまでしてもらう理由が無いと、そこまでしなくても良いと思ったけれど、ロイクの優しさだったり、ナディアの気遣いだったりを無神経に否定できなくて、美嘉はその優しさを甘受していた。

 むしろその優しさで、美嘉の居場所が認められているということに気づいていた。

 衣食住を与えられる。

 自分の好きなように過ごさせてくれる。

 これだけで十分なのに、それ以上望むものなんてない。

 必要以上の贅沢なんて美嘉には必要ないし、どうしたら贅沢ができるかなんて分からない。

 現状が、一番居心地が良いのだ。

 静かに食事を続けて、食事も終わりがけという頃、美嘉が視線をあげたら、控えていたポールと視線が合った。

 ニヤリと笑ったポールに、美嘉は何故だか分からないけれど居心地が悪くなってしまって、おろおろと視線を右往左往させてしまう。


「ミカ?」

「は、い。なんですか、ロイクさん」

「……いや」


 訝しげなロイクに、美嘉は一層焦った。

 そんな顔、してほしくないのに。

 どう声をかけて良いのか分からなくて途方に暮れているとポールが「あーあ」と残念な視線を向けてきた。

 美嘉が困っている内に、ロイクは食事を終えてしまう。


「ミカはゆっくり食べると良い。食べ終えたら、そのまま部屋に戻っても良い」

「あ、の、ロイクさんっ」


 立ち上がったロイクに、美嘉は意を決して声をかけた。

 それから少しだけもじもじと両手の指を合わせながら、そろりとロイクの方を見やる。


「……お昼に、クッキーを焼いたんです。食後のお茶、一緒にどうですか?」

「……そうか」


 思ったより素っ気なかったロイクの返答に、美嘉は不安になる。

 今日は忙しかったのだろうか。

 タイミングが良くなかったのだろうか。

 食事のすぐ後にお茶に誘ったのが駄目だったのか。

 みるみる内に肩を落として、表情を暗くさせていく美嘉。

 そのやり取りを見ていたナディア、ポール、さらにはサロモンまでもが、非難の視線をロイクに向けた。

 ロイクがただでさえ無愛想な顔をさらに悪化させて不機嫌そうな表情になる。

 ただ、その表情とは裏腹に、彼の耳はほんのり赤い。


「……ミカ」

「……はい」

「茶の用意をして待っている。食事が終わったら、俺の部屋に来ると良い」

「……! はいっ」


 美嘉の表情がぱあっと明るくなって、笑顔が咲いた。

 ロイクほどではないけれど、人より感情の起伏が小さな美嘉の満面の笑みに、成り行きを見守っていた三人はこれでよしとばかりに各々の仕事に戻っていく。


「さ、ミカ様、お食事を進めましょう?」

「はい」

「さー、片付けるか」

「ロイク様、それではわたくしはお茶の用意をしてから参ります」

「……頼んだ」


 一人、食堂を出たロイクの後ろ姿を見送ってから、美嘉はまだ残っていたお皿に向き合う。

 ロイクをお茶に誘えた後の夕食は、さっきよりも美味しく感じられた。






 食事を終わらせた美嘉はそろそろと廊下を移動した。

 ナディアがその様子を見て、くすりと笑う。


「ミカ様、そんなに緊張なさらずとも」

「緊張なんか、してないよ?」

「そうでしょうか」


 落ち着けなさげにしている美嘉は緊張しているように見えるらしいけれど、それも仕方ない。

 美嘉は手に持っていた小さな篭を見下げる。

 上に埃避けの布がかかっている篭の中身は、昼に作ったクッキーたちだ。

 ジャムに、ナッツとドライフルーツ、それからアイシングクッキー。

 美嘉の記憶をそっと取り出して作ったクッキーたち。

 今まで差し入れていたパンやお弁当とかとは違う。

 バレエだけしかないと思っていた美嘉にもあった、かけがえのない思い出の欠片が詰められているクッキー。

 特にアイシングクッキーは、祖父母の家で作ったКозулиコズーリを彷彿とさせるから。

 美嘉がそわそわとしている内にも、ロイクの部屋へと着いてしまう。

 ナディアを見れば、ナディアは安心させるように微笑みながら扉をノックした。

 中からロイクの入室を促す声が聞こえる。


「それではごゆっくり」


 ナディアが扉を開ける。

 美嘉はそっとロイクの部屋へと滑り込んだ。

 部屋を見渡せば、ロイクはソファに座って寛いでいた。

 二人分のお茶が既に用意されていて、美嘉と入れ替わりで若い二人に気を遣ったサロモンが部屋を出ていく。


「お待たせしました」

「いや、問題ない」


 美嘉がロイクに近づくと、ロイクは美嘉の腰をさらって自分の膝へと導いた。

 美嘉はされるままにぽすんとロイクの膝に横向きで座る。

 ロイクの顔を見上げれば、満足らしく眉間のしわがほぐれていた。


「その篭は」

「えっと、その……これが私の作ったクッキーです」


 ロイクの視線を受けて、美嘉は自分の膝に乗せた篭から、布をぺろっとめくった。

 カラフルなクッキーたちが顔をのぞかせる。

 うかがうようにロイクの方を見れば、ロイクは驚いたようで軽く目を見開いていた。


「ロイクさん?」

「……これは、驚いた。これが、クッキーか?」

「そうです。私の国のクッキー」


 美嘉はまずジャムのクッキーをつまんだ。


「これがイチゴジャムのクッキー」

「ルビーのように綺麗な見た目だな」

「それ、ナディアも言ってました」


 くすりと笑って、美嘉はイチゴジャムのクッキーをロイクの口元に寄せた。


「ミカ?」

「はい、どうぞ。あーん」

「……」


 ロイクの眉間に皺が寄って怖い顔になった。

 美嘉が驚いて、もしかしてはしたなかったと思ってクッキーを引っ込めようとしたけれど、追いかけるようにロイクの首が伸びてきた。

 クッキーをがぶりとかぶりつく。

 大きめのクッキーだったけれど、一口で大半が消えた。

 呆気にとられた美嘉が固まっていると、ロイクは味わうようにクッキーを咀嚼する。


「甘いが、食べられないことはないな」

「美味しくない……?」

「いや、うまい。だが……」

「だが?」


 ロイクはそっと美嘉の手からクッキーを取り上げると、美嘉の口に持っていく。

 美嘉の唇にジャムが触れた。


「俺には少々甘すぎる」

「そう……」


 美嘉はそのまま、ロイクの食べかけのクッキーのジャムのところを齧る。

 大部分のところのジャムがなくなると、ロイクは残りのクッキーを自分の口に放り込んだ。


「甘いのが苦手ならこっちはどうかな」

「それは?」

「ナッツと、こっちのがドライフルーツ」

「ほう」

「どっちが食べたい?」

「なら、ナッツのを」

「はい」


 美嘉が小さな丸型のナッツクッキーをつまんで、ロイクの口元に寄せる。

 ロイクは大きく口を開けた。

 ばくり、とクッキーがかじられる。

 一緒に、美嘉の指も。


「……っ」


 美嘉の指先に、ロイクの熱い唇が触れた。

 慌てて離すと、ロイクが逃げようとしたその腕を掴む。

 ざくざくとクッキーを咀嚼したロイクが、ぺろっと美嘉の指についていたクッキーの欠片まで舐めとった。


「ろ、ロイクさんっ?」

「旨いな。ジャムよりはこっちの方が俺好みだ」


 指ごと食べられた上に、舐めとられた美嘉は何だか落ち着かなくなって、ロイクの膝から降りようとした。

 それをロイクが腰をゆるく抱いて押し止める。


「ミカ」

「あ、の、ロイクさん」

「どうした。何故、逃げる」

「う、あ、の……心臓が……」

「心臓が? どうした?」


 美嘉が思っていた以上に真剣な声が降ってきて、肩がビクッと跳ねる。

 言って良いのか分からないけれど、このまま膝の上に乗せられたままでいるよりはと思って、困り顔をしながらロイクを見上げた。

 うっすらと頬が上気して、瞳が潤む。

 ロイクの琥珀の瞳に、恥ずかしそうな顔をした自分が映り込んでいるのに気がついて、ますます羞恥で頬が染まっていく。どうしてこんなに恥ずかしさを覚えるのかが分からない。

 せめても、と上半身をできるだけロイクから離す。


「心臓がすごく、ばくばくいってるの……」

「それは、大丈夫なのか?」

「わかんない……」


 ばくばくと脈打ちすぎて、じんわりと痛みを訴えてくる。

 初めて起こった自分の体の変調と、何故かロイクからすぐさま離れたい気恥ずかしさに襲われてしまって、美嘉は情けない顔になる。


「うぅ……」

「大丈夫か? 苦しいなら、医者を呼ぶ」

「大丈夫だと、思う……?」


 美嘉がロイクの腕を手にとって、自分の心臓に手を添わせた。

 ロイクが驚いたように固まる。


「心臓って、こんなに沢山、脈を打つの……? 私、へんですか……?」

「……っ、ぁ、ああ、大丈夫だ。これくらいなら普通だ、と、思う」

「本当?」


 挙動不審になりだしたロイクに追い打ちをかけるように、不安そうな表情で美嘉が尋ねる。

 ロイクは視線をうろつかせた後、美嘉の心臓に当てていた手を外して、そのまま美嘉の頭を自分の心臓へと引き寄せた。


「聞こえるか? 俺の心臓も、同じくらい鼓動している」

「……本当」


 どくどくと力強く脈打つロイクの心音が頭に響く。

 その鼓動が美嘉の鼓動と一致して、なんだかすごく安心した。

 身を起こした美嘉は、ほっとしてロイクの膝に座り直す。

 さっきと同じようにまた密着する。

 ロイクの鼓動をもっと聴いていたくて、むしろさっきよりも密着した。


「ミ、カ……」

「慌ててしまって、ごめんなさい。クッキー食べましょう?」


 安心した美嘉はいそいそとクッキーを取り出す。

 それを少しだけ残念そうな、物欲しそうな、そんな目でロイクが見た。

 ロイクの視線など露知らず、美嘉はアイシングしたクッキーをつまみ上げる。


「……それは?」

「アイシングクッキーって言うの。クッキーに、お砂糖の絵の具で絵を描いたものなんです」

「描いてあるのは……薔薇か?」


 美嘉はこくりと頷く。

 四角い薄紅色のクッキーには、白い輪郭の薔薇が描かれている。

 難しくて幾つかクッキーを塗りつぶしてしまった上に、このクッキーも二重に失敗してしまったのだけれど、それでも一番綺麗に描けたものだ。

 刺繍でも薔薇を縫っているから生き物よりは難易度が低いだろうと思ったのに、やっぱり難しくて成功したのはこの一枚だけ。

 他は全部塗りつぶしてしまった。アイシングを乾燥させるために並べたら、パステルカラーのタイルみたいになっていたのを思い出して、美嘉はふふっと笑ってしまった。

 アイシングのクッキーをまじまじと見ていたロイクだが、そのうち眉をグッと寄せてしまった。


「ロイクさん? 食べないの?」

「……これは、食べるのがもったいないな」

「でも上手に出来たから、これはロイクさんに食べてほしいの」


 美嘉が上目遣いでロイクを見れば、ロイクは困ったように眉尻を下げた。


「……食べさせてくれ」

「また指、齧っちゃいやです」

「……ああ」


 美嘉がそっとロイクの唇にクッキーを寄せた。

 ロイクの口に広がる、砂糖の甘さ。

 胸焼けしてしまいそうなほどの甘さだけれど、それがまた心地よく感じられる。

 ロイクは何かを堪えるようにグッと目をつむりながらクッキーを咀嚼する。


「……甘いな」

「ロイクさんには甘すぎる?」

「甘すぎる……が。でも、たまにはこういうのも良い。また食べさせてくれるか?」


 本当に心の底からそう思ってくれているのだろう。

 ゆるんだロイクの表情に、美嘉はほっとした。

 美嘉の記憶の味を、ロイクが気に入ってくれてすごく嬉しい。

 ロイクが笑みを浮かべながら伝えてくれた言葉に、美嘉も笑顔になって頷いた。

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