第11話 見えない誰かのシソンヌ・フェルテ1

 いつも顰め面をしているロイクが、今日は一段と不機嫌そうな顔で帰ってきた。

 就寝前のひとときを自室でぼんやりと過ごしていた美嘉は、入室してきたロイクのその表情に少し不安になる。

 今日は仕事が遅くなるから先に寝ているようにという言伝を受け取ったのは夕方頃。

 今日はロイクとゆっくり話せないと分かった美嘉が少しだけ寂しそうにしていると、騎士団長としての仕事は楽ではないのだとナディアが教えてくれた。

 最近は少なくなっていたけれど、こうやって緊急の案件が上がると、よく残業になって数日騎士団に缶詰めになることもしばしばあるらしい。

 それでも今日は帰宅ができているので、忙しすぎるほど忙しかったわけではないだろうというのがナディアの見解だ。

 ロイクの言伝通りに、先に食事を終えて、寝衣を着て、もう寝るだけの状態になっていた美嘉は、起きている間に帰って来るとは思っていなかったロイクの姿にちょっぴり喜んだ。

 けれど喜んでいられたのも束の間、自室で出迎えたロイクの表情の厳しさに気がついてしまった。

 何かあったのだろうか。

 ロイクは美嘉をいつものように膝に乗せてソファに座る。もはやぶれないその行動に美嘉はすっかり慣れてしまって、ロイクの望むままに身をゆだねる。

 コルセット無しでも細い腰回りや、しなやかながらも手折れそうな四肢に華奢だと勘違いされることが多いけれど、西洋人に混じっても遜色ない美嘉の身長は女子の中では高い方だと思っていた。

 そんな美嘉を、ロイクは幼子のように軽々と膝に乗せてしまう。

 ロイクの膝の上が、美嘉の特等席だ。

 その特等席で、何も言わないロイクをつぶさに見やる。

 帰宅して直行したのだろうか、ロイクは騎士服から着替えもしていない。

 思い詰めたような顔でじっと宙を見ているロイクを見て、とりあえず皺になるからと、美嘉は上着だけでも脱がせにかかった。

 細く白い指先で、美嘉はジャケットのボタンを外していく。

 全て外してから、美嘉の腰をゆるく抱く手を軽く叩いた。

 くいっと黒い騎士服の襟を持って、ロイクの肩を滑らせる。

 気がついたロイクは、気まずそうに袖から逞しい腕を抜いた。

 美嘉は脱がせたジャケットをソファの背もたれにかける。ロイクの膝の上でバランスが取れないかと思われたけれど、そこは長年培ってきた平衡感覚と柔軟な体で楽々やってのけた。

 それを見ていたロイクが、おもむろに声をかける。


「……ミカの体は、柔らかいな。まるで骨のない生き物のようだ」

「ふふ、骨がない生き物ってどんな生き物なの。タコとか、イカかな。ちゃんと骨、ありますよ」


 美嘉は寝衣の袖を少しだけめくった。

 細い手首に浮かんだ丸い骨を、ロイクに触らせる。

 大きくて筋張った指が、つるりと手首の骨を撫でた。

 そのくすぐったさが、心にまで響くようで。

 ほらね、とくすぐったさを滲ませて笑う美嘉に、ゆるりとロイクも眉尻を下げた。少しだけ、眉間の皺もほぐれている。


「……ミカ、この屋敷での生活に不足はないか」

「ありません。ナディアも、ロイクさんも、私に良くしてくれています」


 いつもの質問。

 いつものように、美嘉は答えた。

 ロイクはそっと美嘉の頬に指を沿わせる。


「……では、羽が戻っても、お前はこの屋敷にいてくれるか?」

「……え?」


 美嘉は不思議に思って顔をあげる。

 ロイクの言葉の意味が、分からない。


「もがれた羽が戻ったとして、その羽で自由に飛べるようになっても、俺の側にいてくれるか」


 ロイクの真剣な眼差しに、美嘉はじっと見返す。

 美嘉はロイクが自分のことを妖精だと思い込んでいることを思い出した。だからたぶん、この質問の意図は、元気になってもこの屋敷にいてくれるかという質問だ。

 美嘉は困ったように笑う。

 美嘉は人間だ。だからそもそも、もがれた羽なんて存在しない。

 でも、美嘉に存在しない羽があったからこそ、ロイクが美嘉を此処に置いてくれているのだと理解している。

 美嘉は帰り方が分からない。

 それに、人生の大舞台で失敗してしまった彼女は、元の世界に戻ったとしても価値なんてない。

 もし、元の世界に戻れないと仮定してこの世界で生きるというのなら、ロイクとちゃんと話をするべきだと思う。

 人間であることを理解してもらって。

 何も取り柄がない自分でも働ける場所を紹介してもらって。

 いつまでもこの屋敷には置いてもらえないだろうから、できれば住む場所も教えてもらえたら嬉しい。

 このままずるずると惰性でお世話をしてもらうには、この先の人生は長すぎる。


「……羽が戻った方が、嬉しいですか」


 言いたいことが絡まってしまって、答えに窮した美嘉がやっと絞り出した言葉は曖昧なものだった。

 さっきまでのくすぐったかった気持ちが嘘のように霧散していく。

 じっとロイクを見つめるけれど、普段から不機嫌そうな彼の顔からは感情が読みづらい。そもそも、人の感情の機微に無頓着だった美嘉がロイクの顔色を読むこと自体、難しいことだけれど。

 それでも顔色を伺わずにはいられない。

 じっと見ていると、ロイクがほんのり目元をゆるめた。


「……俺はミカがいればいい。羽があってもなくても、ミカはミカだ。ずっとこの腕にいて欲しいと、そう思う」

「それは、妖精だからですか」


 緊張のあまりに固くなってしまった声音で問えば、ゆるりとロイクは首を振る。


「何者でもいい。だが、どちらかといえば、ミカが人間ならばと思う」


 美嘉はパチリと目を瞬く。

 ロイクは普段から美嘉を妖精だと言って止まない。そんな彼が、美嘉が人間であることを望むなんて。


「……どうして?」


 困惑気味に美嘉は聞き返す。

 ロイクの目元に朱が差した気がした。


「こんなことを言うのは、恥ずかしいが……俺はお前を、愛している」


 とくん、とくん、と鼓動が脈打つ。

 少し前に、ロイクに手作りのクッキーを渡しに行った時のように。

 心臓が、早鐘を打つ。


 ―――美嘉は初めて触れた人の想いに狼狽えた。


 美嘉のジャンプが好きだという人はいた。

 美嘉の指先を見つめる視線に惚れたという人はいた。

 美嘉のバレエに相応しい身体を愛する人はいた。

 でもロイクは、バレエを知らない。

 バレエに費やしてきた彼女を知らない。

 脱け殻のようになってしまった、何もない彼女を、ロイクは愛していると言った。

 打算的でも、バレエで評価されるような好意でもない。

 純粋に、美嘉個人を見てくれた言葉。

 美嘉は、知らない内に身体が震えていた。

 自分の感情が分からない。ロイクにどんな思いを返せば良いのか分からない。


「……妖精じゃなくても、跳べなくても、私を愛してくれるの?」

「俺はミカを愛している。だから何もしなくても、何もできなくても、一緒にいたい」

「どうして、私なの」


 震える身体は、喉も震わせた。

 だって美嘉は何もしていない。

 このお屋敷に来てから、ロイクには沢山よくしてもらっている。

 衣食住をまかなってくれて。

 自由を与えてもらって。

 話を聞いてくれて。

 でも美嘉は、その恩を返すことすらできていない。

 ぎゅっと心臓がしめつけられる。

 言葉にできない何かが胸に詰まってしまって、息をするのもつらくなる。

 人の想いを、美嘉はまだ掴めていない。

 羨望と嫉妬は紙一重だった。何がきっかけで感情がひっくり返るのかわからない。

 身に覚えのない、理由のない『愛』は、何をもってその感情に至るのか。

 瞳に不安の色を滲ませる美嘉に、ロイクは淡く微笑む。

 ロイクの珍しい微笑に、美嘉の心臓がひときわ強く揺すぶられる。

 動揺のあまりに自然と体を離そうとすると、腰に回されていた腕に力が込められた。


「……一目惚れ、というのだろうな。あの日、降ってきたお前を抱き止めた時から、お前のことばかり考えている。飛べないと泣くお前に笑って欲しいと思った瞬間には、愛しさが溢れてきた」


 飾らない、偽らない、真っ直ぐな言葉に、視線をどこにやれば良いのか分からなくて、美嘉はロイクの肩に顔を埋めた。コンクールで誉められても、こんなに恥ずかしい想いはしたことがない。

 胸にじんわりとした温かさが広がっていく。

 同時に、爪先からは熱が奪われたように冷えていった。

 ロイクの唐突な愛の告白は、美嘉の心を揺さぶった。

 だけど美嘉はその告白を受け止められない。

 自分には、理由なく誰かに愛されるほどの価値なんてない。

 バレエができなきゃ愛されない。

 無償の愛なんて、そんなものは存在しない。

 胸が苦しい。

 自分が呼吸できていないと気づいた美嘉は大きく息を吐き出すと、ぎこちなくロイクの顔を見上げた。


「ロイクさん……」

「なんだ」


 親身になってくれるロイクはとても良い人。

 だけど美嘉を閉じ込める、この優しい腕の檻が唐突に怖くなった。

 だから美嘉は、自分からロイクを突き放す。


「跳べない私を、愛さないで―――」


 くしゃりと顔を歪めた美嘉の心は、まだ、未成熟だ。

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