第6話 クロワゼで向き合って2

 口を開閉しては言い澱む美嘉をあやすように、ロイクは彼女の背を撫でる。


「……お前が何者でもいい。好きなだけここにいれば良い。ゆっくりと休め」


 美嘉はされるままに、ロイクの胸に体を預けた。

 ここは、とても温かい。

 舞台越しでしか人を見ていなかった美嘉にとって、温かく包んでくれるロイクはとてもくすぐったい存在だ。

 羨望の眼差しでも、期待の眼差しでも、嫉妬の眼差しでもない、ただの美嘉を温かく見守ってくれる眼差し。

 表情はあまり変わらないし、どちらかといえば不機嫌そうな雰囲気の事が多いけれど、美嘉を見つめる眼差しはいつもとても温かい。

 価値のあるなしでしか見ない今までの人たちとは、違う眼差し。

 いつまでもロイクの側にいたくなってしまうほど、ロイクの膝の上、腕の中は居心地が良すぎた。


「……ロイクさん、ありがとう。せめて、跳べるようになるまでここにいさせて」

「もちろんだ」


 美嘉はロイクの胸にすり寄った。そんな美嘉を、ロイクは黙ってあやし続ける。

 ここはとても安心すると、美嘉はますますロイクに甘えてしまう。

 嫌ではないのだ。

 ロイクに抱きしめられるのも、膝の上に乗せてもらうのも。

 ふわふわと甘い綿菓子に包まれたような二人の世界に入り浸っていると、ごほんと咳払いが響いた。


「そういうの、いいから。お腹いっぱいだから」


 ランディが半眼になって二人を睨む。

 ロイクが不満を顔に張り付けるが、彼が醸し出す甘ったるい空気を払拭するように、ランディが尋ねる。


「そういえば、さっきはミカちゃん何してたの?」


 美嘉はええっと、と少しだけ眉尻を下げる。

 あまり自分の失敗は話したくないけれど、振られた話だから話した方が良いのだろうと言葉を選ぶ。


「その、日課です。いつも跳ぼうと思って庭に出るんですけど、跳べなくて。だから、ロイクさんとランディさんに、跳べずに動きを止めてしまったところを見られて、少し恥ずかしいです」


 へぇ、とランディの眉が上がる。


「元々飛べていたの?」

「はい」


 ランディの問いに、美嘉は力強く頷く。

 ランディは美嘉の答えに意外だと思ったかのように、目を丸くした。


「マジかぁ……魔力もないのに? どうやって飛ぶんだよ……」


 首を捻るランディに、美嘉は気づく。もしやこれは、彼もロイクと同じで自分を妖精か何かだと思っているのかもしれない。

 実際のところ、ランディは美嘉が人間だと確信していた。けれど美嘉の一連の「とぶ」をロイクの妖精発言のせいでその意味を正しく認識できていないのだが、そんな事はこの場にいる誰もがつゆほども気がついていない。

 しばらく「ううん」とランディは唸っていたけれど、すぐに考えることを放棄したらしい。考えるのは後でもできると割りきったようで、改めて美嘉に向き合う。


「まぁいいや。それで、今日俺が来た理由なんだけどさ、団長がポンコツですっごい渋ってるから、代わりにミカちゃんの身元確認のために来たんだよ」


 美嘉はぱちくりと目を瞬かせる。

 身元確認?

 そんな事、ロイクは何も言っていない。

 ここ数日ずっとロイクの屋敷に厄介になっているけれど、彼はいつも「好きなだけ休めばいい」「俺の事は気にせず、自由に過ごせ」としか言わない。

 顔をあげて、じっとロイクを見つめれば、ロイクは不機嫌そうな顔をますます不機嫌にする。


「必要ないといっているのに、押しかけてきたんだ」

「人聞きの悪い。ちゃんとこーゆー手続きしないで放っておくと、大変なのは団長なんですからね? 団長ならそれくらい知ってるでしょ?」

「……他に有無を言わせないくらいに、俺が守ればいい話だ」

「その心意気は立派ですが、実際問題、それで足元すくわれて困るのあんたなんですからね?」


 やれやれといった体で首を振るランディに、美嘉はおずおずと問いかけてみた。


「私がここにいると、やっぱり駄目なんですか」

「駄目なんかじゃない。気が済むまでいればいいんだ」

「団長ちょい黙れ? ミカちゃん、たぶん団長からは何も聞いてないと思うからさ、俺から色々と教えてやるよ」

「ランディ、余計なことは喋るな」

「余計なことじゃないですよ。どのみち今後、必要なことです」


 ロイクが睨み付けても、ランディは飄々とかわして美嘉に話しかける。


「ミカちゃんは団長がこの国の騎士団長だってことは知ってる?」

「えっと……はい。教えてもらいました」

「じゃあ、この立派な屋敷に一人で住んでいる理由は?」


 美嘉は目を瞬く。

 そういえば自分の事ばかりで気がつかなかった。

 ロイクはこの大きな屋敷に一人で住んでいる。正しく言えば使用人がいるから一人ではないのだけれど、彼の両親らしき人物は一緒に住んでいなかった。

 別居しているのだろうとは思うけど、部屋は沢山余っている。余りすぎているほどに余っているのだ。しかも、一人で管理するには手に余るくらい庭も大きい。

 今更ながら気がついた事実に愕然とした。

 幾ら余裕がなかったとはいえ、言われてから気がつくなんて。

 そういえば、と思い返す。

 ロイクが騎士団長だということは聞いたけれど、彼自身の事は何も知らないことにも気がついた。

 家族構成も、好きなものも、苦手なものも、歳も、誕生日さえも知らない。

 美嘉も自分の事は話していないけれど、同じ屋根の下、美嘉を真綿でくるむように大切にしてくれている恩人だ。興味がないからと、知らないままで良いわけがない。

 当たり前のように気づくべきところに、全く気がつかなかった。自分の視野の狭さに打ちのめされる。


「……ロイクさんがこんな大きなお屋敷に住んでいるのには、理由があるんですか?」


 美嘉の言葉に、ランディがやっぱりなと渋面になる。


「教えてないんですか」

「教える必要もないだろう」

「いや、ここに住む以上、これは最低限知っとくべきだろ」


 むっとして口を閉じたロイクに、ランディは言葉を続ける。


「この屋敷な、団長が団長になってから貰った屋敷なんだよ」


 曰く、ロイクは平民出身の騎士で、元々屋敷ではなく寮に住んでいたという。

 数年前、団長になるきっかけとなった大規模な魔獣討伐の時の功績を称えられて、一躍有名人になった。その後団長になった折りに、その名声の高さからいつまでも寮暮らしは駄目だろうと思案したこの国の宰相が、国王に進言してこの屋敷を賜ったのだとか。

 両親は地方の田舎にある実家にいるらしい。騎士団長という立場から、恨みを買って身内が狙われることもあるけれど、現状ロイクの両親は騎士団の地方支部の人たちに見守られて今まで通りの生活を過ごしている。

 騎士や魔獣なんて物語の中でしか聞かない言葉だ。耳慣れない単語に美嘉は本当にこの世界が地球とは別の世界なのだと実感する。自然と手が拳を握り、唇は真一文字を結んだ。

 その上、この世界は日本のように安全な世界ではないらしい。

 本当の意味で、命がけで人々を守るのが騎士の仕事。


「でもね、やっぱり庶民出身だってことが気にくわなくて、団長の失脚を狙う馬鹿な奴等もいるわけ。だからそいつらの付け入る隙を、団長は見せたらいけないの」

「……その隙に、私がなるということですか?」

「そういうこと」


 ランディの説明はもっともだ。

 一般的に見れば、美嘉は着の身着のままロイクの腕に飛び込んだ身元不明の不審人物だ。

 ロイクの好意でこの屋敷に住まわせてもらっているだけで、本来なら警察……この世界でいうならそれこそロイク率いる騎士団に突き出されてもおかしくはない。

 ロイクにはロイクの立場がある。

 甘えてばかりではいられない。

 美嘉はロイクを見上げる。深く皺を刻む眉間にそっと指を這わしてやると、ロイクはくすぐったそうに頬をゆるめた。


「私がいて困ることがあるなら、すぐに言ってください。迷惑は、かけたくないの」

「迷惑なんて思っていない。困ることもない。だからずっとここにいればいい」

「だから団長、ちゃんと手順は守りましょーよー」


 ランディが懐からひらひらと一枚の紙を取り出した。差し出されたので美嘉が受けとるけれど、書いてある文字が読めなくて、顔を顰める。


「……これは、何ですか?」

「見てわかんない? 簡単な履歴書みたいな奴。聞き取りするより、自分で書いてもらう方が早いからね。それを元に俺の方で身元保証の確認するんだよ」


 美嘉は困ってしまってロイクを見上げた。

ロイクは「どうした」と美嘉に声をかける。


「……私、この国の文字の読み書きができません」


 バレエのコンクールやレッスンが国を跨いで行われることもあったから、英語とフランス語、それから父の母国語であるロシア語ならそれなりに自信がある。けれど、渡された紙に書いてあるのは日本語含めそのどれでもない言語だった。

 途方にくれて、ロイクを見る。

 ロイクは少し思案したように顎に手を当てて考えた。

 ゆっくりと十数えた辺りで、ロイクはランディを見る。


「やっぱり妖精では」

「それはもういいから」


 話が進まないとばかりにランディが切って捨てる。

 ランディのぞんざいな扱いに、ロイクはますます不機嫌そうな顔を隠さない。だが、仕事であるという意識はあるのか、美嘉の手から調査書を奪い取るとランディへと視線を向けなおす。


「ランディ、これは俺が書いておく。それでいいか?」

「はぁ。読み書きできないなら仕方ないですけど。でもそうか、読み書きができないのか……そうなるとやっぱ……」


 ぶつぶつとランディは呟きながら、考え込むそぶりを見せて、それから「よし」と立ち上がる。


「その迷子のお嬢さんは団長に任せますけど、くれぐれも、くれっぐれも、油断はしないでくださいね」

「誰に向かって言っている。そんな油断、するはずもない」

「おそーい青春迎えた団長に言ってるんですよ。用心に越したことはないでしょーが」

「言われなくとも。用が終わったらさっさと帰って残してきた仕事を片付けろ。禁固室はそれで勘弁してやる」

「うゎーお、忘れてなかったか……」


 がっくりと項垂れたランディ。なんだか落とされた肩に哀愁が漂っている。

 お見送りをしようと美嘉も立ち上がろうとするが、ロイクがそれを引き止めた。するりと美嘉の腰に腕を回して、浮いた尻を自分の膝に着席させる。

 お見送りをしなくてもいいのかと戸惑いながらロイクを見れば、ロイクは軽く頷いた。


「ミカは俺と一緒にこれを埋めていこう」


 ロイクはソファから身を乗り出すようにして、ランディの置いていった書類をテーブルにおいた。

 ぐっと美嘉の背中にかかるロイクの体重が、美嘉がこの不思議な世界にいる実感をもたらす。

 美嘉はこくりと頷くと、応接室の中から帰るランディを見送った。

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