第5話 クロワゼで向き合って1

 その日はいつもと違った。

 庭へと出たあの日から毎日、今日は跳べるかもしれないと淡い望みを抱いて、美嘉は庭へと出るようになった。そこで数回踊って跳べない事実を受け入れるのが、最近の日課。

 今日もまた美嘉は庭へと出て、ナディアが心配そうに見守るなか、ステップを踏んでいく。

 レモンイエローのワンピースを青々とした草の絨毯にパッと咲かせながら、美嘉は己を高めていく。

 つま先で立ったまま、右のつま先を軸足である左の足首に添える―――クッペ。

 右足を前に、つま先と踵を互い違いにして両足を地につける―――右足前の五番のポジション。

 着地と同時に膝を軽く曲げるプリエをしたら、今度は右足軸のクッペ。

 片腕ずつ腕を広げて二セット繰り返したら、両腕を波紋のようにたゆませながら頭上で円をつくり、踵をひきよせるようにつま先立ちをするシュ・スー。

 そのままほんの少しの距離をちょこちょこと進んで、降り立つためにプリエ。

 だけど息をつくには早いよと、まだ進むのでしょうと、踵を上げる。

 左足の太ももへと、右足のつま先を添わせた―――パッセ。

 腰を落としながら右足前の五番に着地した後、しなやかに伸びるようにシュ・スーで一回転。

 レモンイエローの花がまた一輪、咲き誇る。

 花がしぼんでしまう前に後ろへと右足を差し出して、土を踏みしめるように前へ踏み込み地を駆ける。

 一、二、三、と駆けたところで、右のつま先を左足に添わせて、体を持ち上げてく。

 空へと、宙へと身を躍らせようと、地を蹴―――


「……っ」


 くんっと、後ろ髪を引かれるように体が前に進まなくなる。

 後は踏み切るだけなのに。

 それだけで跳べるのに。

 その少しの勇気が足りなくて。

 また跳ぶことのできなかった美嘉は、跳ぶためのモーションを断念してうつむく。

 三回やって少しも跳べない自分の弱さに唇を噛んだ瞬間、パチパチと誰かが拍手をした。

 いつもならナディア以外この庭には近寄らない。この屋敷の主人であるロイクも明るいこの時間帯は仕事に行っているはずだ。

 怪訝に思いながら拍手をする方を見ると、人懐こそうな茶髪の男と不機嫌そうに眉を顰めたロイクがいた。赤毛の男はロイクと同じ、黒の騎士服を身に纏っている。


「やぁー、初めまして。俺、ランディ。ロイク団長付きの補佐官でーす。今日はお話に来たんだけど、今いいかな?」


 軟派な騎士の態度に美嘉は困惑しながらロイクを見上げる。ロイクは不機嫌さを隠しもしないで、ランディを睨んだ。


「……馴れ馴れしすぎるだろう」

「団長が厳つい分、これくらいフレンドリーに行かないとね」


 ランディは茶目っ気たっぷりに片目をつむり、反省した様子を見せない。

 突然の来訪者。いったいこの人は何をしに来たのだろうと美嘉が首を傾ける。ロイクがナディアに応接室の準備を整えるよう指示をしている隙に、ランディは美嘉の方へと近づいてきた。

 美嘉は無防備にもランディが近づくことを許してしまう。自分に何の用かとランディの動きを目で追っていた。

 ぼんやりとランディを見ている美嘉。

 それがいけなかったのか。

 あろうことか、目の前まで来たランディは瞬時に美嘉の背後へとまわりこみ、美嘉の着ていたワンピースを首まで巻くってみせたのだ。

 何が起きたのか分からない美嘉。

 異変に気づき、振り替えるロイク。

 背を向けていて気がつかないナディア。

 止まった時間のなかで、ランディだけが一人、訳知り顔でワンピースを元に戻すと「人間に擬態ねぇ……」とぼやく。

 ようやく思考が動き出した美嘉の頬が羞恥で染まる。目を白黒させながら、スカートの裾を抑えた瞬間、風が髪をあおった。


「ぎゃああああ」


 ランディが悲鳴をあげて、吹っ飛んでいく。ドカンと派手な音を立てて、屋敷の塀へとぶつかった気配がした。


「……減俸一ヶ月」


 淡々としているが、ドスの効いた迫力のある声に美嘉は固まる。

 遠くから「そんな殺生なぁぁぁ」との叫びが聞こえるけれど、ロイクはそれを無視して美嘉を抱き上げた。

 美嘉は混乱する頭で考える。

 いつも思うけど、日本人にしては身長の高い自分をこんなにも軽々と抱き上げるロイクとなら、一緒にデュエットを踊ってみたい……じゃなくて。


「あの、お客さん……」

「あいつは客でもなんでもない。婦女子への破廉恥行為は万死に値する。後で禁固室にでも放り込んでおこう」

「え、あの」

「お前は何も考えなくて良い」


 横抱きにされた美嘉が首を巡らせてランディの方を見ようとすると、ロイクはさっさと歩きだしてしまったので慌てて首を引っ込めた。

 ゆらゆらと揺られながら屋内へと戻る。

 応接室に着く頃にはランディが葉っぱをあちこちに引っかけながらも後ろから入室してきたのでほっとした。

 ロイクが渋い顔で応接室にランディを通す。

 ランディがソファに座ると、ロイクも向かいのソファに座った。当然のように美嘉を自分の膝の上に乗せて、だ。

 ランディがしらけた視線を向けてくる。


「……ねぇ団長、どこから突っ込めば良いの? 突っ込み待ち? それともガチ?」

「この方が話しやすいだろう」

「誰が」

「俺が」

「誰と」

「ミカと」

「はいごちそうさまでしたー! お粗末様ですー!」


 ランディが叫びながらぐったりと肩を落とした。渦中にいる美嘉は気まずそうにロイクとランディの間で視線をさ迷わせる。

 大泣きした日から、ロイクは美嘉に甘くなった。

 朝、お見送りに出た時とか、帰りを出迎えた時とか、体を引き寄せられて抱きしめられながら挨拶するのが最近の定番になっている。

 コンクールやレッスンの為に海外に行くことも多かった美嘉は、疑問もなく親愛のハグを受け入れてしまっている。

 しかも、非番の時や食後のゆったりとした時間に談話室などで一緒にいる際、今のように膝に乗せられることも増えた。

 飼い猫を抱き上げるように問答無用でロイクに抱き上げられるので、最初のうちこそ恥ずかしかったものの、今ではすっかり日常の一場面だ。でもやっぱりランディから見ればおかしいらしい。お屋敷の皆は微笑ましげに見るだけで何も言わない。

 まじまじと見てくるランディの視線が気になって、美嘉はそわそわしてしまう。見られることには舞台で散々慣れていたはずなのに、妙に緊張してしまう。

 下ろしてほしくてロイクを見上げれば、ロイクは一瞬だけ美嘉と視線を絡めてランディと向き合った。下ろしてくれる気はないらしいと美嘉は遠い目をする。


「それでランディ。先程の件の弁明を聞こうか。仕事できているとはいえ、その手段に納得のいく理由がなければ相応の処分をさせる」

「手っ取り早い方法を取っただけですよー。睨まない、睨まない」


 ロイクの一睨みすら堪えた様子のないランディは、そのまま美嘉と向き合った。


「というわけで、単刀直入で悪いんだけどさ。君、どうやって団長を誘惑したわけ? 団長が何かネジ飛んでるみたいなんだけど」

「ランディ」

 ロイクが咎めるようにランディの名前を呼ぶ。

 一瞬、何を言われたのか分からなかった。

 美嘉がロイクを誘惑する?

 ランディの油断ない視線と、ロイクの険のある声に、もしかしなくてもこの状況は自分がいるせいではないかと、美嘉は気がついた。

 物語で魔性が人を誘惑するシーンを思い浮かべる。

 突然現れた魔性に魅了される人々。

 その末路を思い浮かべる。

 どれも不幸な結末ばかり。

 ……誘惑する、という言葉を使われたということは、美嘉は魔性のモノだとランディに思われているということ。

 そうじゃなかったら、美嘉がロイクを誘惑するなんて発想が出てくるはずがない。


「居候、させてもらっているだけです。迷惑なら、出ていきます」

「ミカ、出ていく必要はない。お前には療養が必要だろう。ここで好きなだけ休んでいけば良い」

「迷惑でしょう。何もできない女一人抱えて……私は跳ぶこと以外何もできないのに、跳ぶことすらできないのだから」


 ロイクが美嘉の事を、怪我をした妖精だと思っているらしいとは美嘉も承知していた。

 それを否定しなかったのもまた、美嘉だ。

 自分に都合が良いから黙っていたツケが、ここに回ってきたのだと美嘉は視線を落とす。

 美嘉はその人生を全てバレエに注いできた。両親のサポートがあったからこそその生活が成り立っていたわけで、美嘉からバレエを取ってしまったら家事一つできない小娘でしかない。

 バレエ以外だと途端に要領の悪くなる美嘉は、間違いなくこのお屋敷を出されたら路頭に迷う自信がある。だからロイクが美嘉の生命線なのだけれど……迷惑がかかるなら出ていくべきだという、日本人らしい謙虚さもまた美嘉は持ち合わせていた。

 黙ってうつむいてしまった美嘉に、ロイクは「お前が余計なことを言うから」という非難の視線をランディに向けた。

 対するランディはしげしげと美嘉を見る。

 ロイクはその視線から隠すように美嘉を抱き込んだ。


「ちょっと団長」

「見るな、ミカが減ってしまう」

「だー! もうこれだから頭が堅いんですよ! いい加減そのファンシーな思考から離れろ! どこからどう見ても人間だろう! しかも魔力なしの!」

「魔力がないのも知っている。でもそれは人間に擬態しているからで……」

「人間に擬態しているならなおさらだっつの! その女の子、魔力を一切合切持っていない! 擬態しているなら魔力が漏れ出てるわ阿呆!」

「……」


 ロイクが腕の中の美嘉を見つめる。

 美嘉は困ってしまって項垂れた。


「……だが妖精なら魔力とはまた違う力を持っているのかもしれない。我々が関知できない、不思議な力を」

「もうそこから離れろ畜生……なぁ、君からも何か言ってやってよ。ついでに君が何者かも教えてほしいな」


 どうあっても美嘉を妖精だと言って譲らないロイクに、ランディが疲れたように美嘉へ救難信号を送る。だけど美嘉こそ、正しいことを言わないでロイクを騙していた張本人なのだ。美嘉がこの件に関して口を出すには勇気が足らなかった。

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