第4話 誘われたトンベ3
「跳べない私に価値なんてない」
そう言いきった美嘉にロイクは軽く瞠目し、すぐに痛ましいものを見るかのような表情になった。
闇に慣れた美嘉にはその表情がよく見えた。
でも美嘉は、ロイクがどうしてそんな表情を向けるのかが分からない。
「ロイクさん、どうしてあなたがそんな顔をするの?」
「そんな顔、とは」
「とても痛そうな顔をしてる」
美嘉がそう言えば、ロイクは苦笑した。
「そんな顔をしていたか」
美嘉はこくりと頷いた。
ロイクは微妙な顔になる。
それからいつもの顰め面になって、美嘉の涙を不器用な手つきでぬぐった。
「どうして飛べなくなったのか聞いてもいいか」
「どうして……?」
ロイクの問いに、美嘉はその答えを探す。
どうして跳べないのか。
それは美嘉がずっとこの部屋で考えていたことだった。
美嘉はゆるゆると首を振って、また膝に額をこすりつける。
「わかんないの。どうして跳べないのか。呼吸も、タイミングも、体の動きだって、全部全部、完璧なはずなのに。跳ぼうとした瞬間、体が止まってしまうの。頭の中に、あの瞬間がよみがえって、また失敗してしまうんじゃないかって思ってしまうの」
「あの瞬間?」
「私が高みから墜落した瞬間」
「それは、また……何故」
不思議そうなロイクの声に、美嘉は顔を伏せたまま答える。
「意地悪をされたのよ」
ロイクが息をのむ気配がした。
ロイクの驚きように、美嘉は口元がゆるんだ。そんなに驚くとは思わなかったから。
ロイクの驚き様になんとなくおかしく思っていると、わずかな衣擦れの音がしてふわりと温かいものが美嘉の体を包む。
「それは、誰かの悪意に晒されたということか」
「あくい……?」
耳元へささやくようにかけられたロイクの言葉に、美嘉は戸惑った。
ロイクの言う通り、美嘉に向けられたあの感情は、悪意に違いない。
でもどうして自分に悪意が向けられたのかが分からない。
「なんで、私に……」
美嘉はただただ高みを目指していただけ。
舞台袖で「滑稽ね」と嘲笑った子を思い出した。
あれが悪意だというのならば。
「私は跳びたかっただけなのに」
高く、高く、高嶺を目指していただけなのに。
「私は跳ぶのが好きなだけなのに」
重力に逆らうあの瞬間が好きなだけなのに。
「どうして意地悪されなきゃいけないの……!」
止まっていたはずの涙が、抑えていたはずの感情が決壊した。
とめどなく溢れてくる涙と、心臓をしめつけるような感情に、美嘉はとうとう声をあげて泣いてしまう。
ロイクが美嘉を抱きしめる腕に力を込めた。
美嘉は自分を包む温もりに縋るようにして、ロイクの胸に飛び込む。
「私、跳びたかっただけなのに……! ただ、ただ、高く、空を、めざしていただけなのに……! どうして意地悪されなきゃいけないの! なんで悪意なんか向けられるの……!」
泣きじゃくる美嘉の背中に腕を回して、ロイクはその背をゆっくりと撫でる。
「悪意を向けられるには何かしら理由がある。ミカは、その理由が分からないのか?」
「わかるわけない……っ! 私にはバレエしかないもの! 踊って跳ぶことしかわかんない! 私を笑ったあの子だって、同じスタジオの子だってことくらいしか知らない!」
感情を露わにして叫ぶ美嘉に、ロイクは静かに言う。
「心当たりは、ないのか」
「わかんないよ……っ! ねぇ、なんで私は意地悪をされたの? どうして私は跳べないの? 意地悪をされた理由がわかれば、私は跳べるの……っ?」
ロイクは、泣きじゃくる美嘉をあやすように抱きしめる。
美嘉はロイクの腕の中で声をあげる。
「跳びたい……! 跳びたいよ……っ! どうしたら私の身体は跳んでくれるの……っ!」
美嘉の嘆きに返す答えをロイクは持ちえないのか、彼は黙ってしまった。
悪意を向けられるには何か理由があると言ったのはロイクだ。
だけど今の美嘉にはそれが理解できない。
他者を振り返ることをしてこなかった美嘉は、人の温かく美しい心も、人の冷たく醜い心も、他人事でしかなくて気づけない。
わからないことだらけの現実に胸が軋む。
跳べない身体も。
誰かの悪意も。
今美嘉が存在するこの場所が、本来の居場所ではないことも。
ままならないことばかりで、考えることが嫌になる。
なぜ、も。
どうして、も。
泣きすぎて熱のこもった頭には荷が重すぎて。
そのうち疲れ果てて眠ってしまうまで、ただただ美嘉は「跳びたい」と言って泣き続けた。
妖精の泣き声がなくなった。
ロイクは腕の中で鼻と目元を真っ赤に腫らしたまま寝入ってしまった美嘉をそっと抱き上げた。
くたりと正体を失った美嘉の重さが、ロイクの腕に妖精が留まっていることの実感をもたらしてくれる。――それ以上に罪悪感がロイクの肩にのしかかったが。
ただでさえ悲しんでいた美嘉を余計に泣かせてしまったのは自分だという罪悪感が、ロイクの胸にわだかまる。
美嘉に落ち度があったと疑っているわけでもない。
不器用な言葉選びのせいで、ますます美嘉を悲しませてしまって途方に暮れている。
誰かに意地悪をされて飛べなくなったと言った美嘉。
ロイクの腕に落ちてきた彼女の背中にあったであろう羽をもいだのはいったい誰なのか、ロイクはそれが知りたかっただけだったのに。
あの日、美嘉が夜空から降ってきたあの時、ロイクは確かに目にしたのだ。
美嘉のすべらかな雪肌の背から、飴細工のように月光に照った虹色の羽を。
それは硝子のように砕け散り、蜃気楼のように瞬きの内に消えてしまったけれど。
でも本当に、美嘉が自分の元に舞い降りてくる妖精のように見えた。
だからロイクは美嘉を妖精だと言ってやまない。
美嘉が「とべない」と泣けば、当たり前のように羽がないからだと思う。
妖精を再び空へと飛ばせてやりたい。
悲しみに暮れて泣きじゃくる妖精の願いを叶えてやりたいと、どうしようもなく思ってしまった。
だけどロイクは知らない。
落ちてきた妖精の背へと、砕け散った羽を戻してやる方法をロイクは知らないから。
だからせめて、その原因を知ることができればと思って口にした言葉。
その結果がこれだ。
泣かせたかったわけじゃないのに、妖精をますます泣かせてしまった。
幽暗に閉ざされた部屋の中、僅かな月明かりを頼りにロイクは歩を進める。
部屋に入ってきた時と同様危なげなく部屋を横断すると、奥にある寝室へと入った。
妖精の為に用意させた天蓋付きのベッドへ隠すように美嘉を寝かせる。
寝衣に着替えさせたほうが良いかと逡巡したけれど、結局そのままにする。起こしてしまうのも忍びない。ゆったりとした洋服だから、寝苦しくはないだろう。
無防備に寝顔をさらす妖精を見つめる。
「……力はあっても、不甲斐ないな」
すっかり暗くなってから帰宅したロイクだったが、帰宅の際、門前に待ち構えていた執事のサロモンに美嘉が夕食も摂らず閉じこもっている話を聞いて、そのまま美嘉の部屋に来た。
暗闇に慣れたロイクには腫れてしまった美嘉の目元がよく見えた。いつから泣いていたのだろうか。痛々しいその姿に、ますます罪悪感が募る。
騎士団長として若くに取り立てられても、所詮は人の機微に疎い不束者だ。
妖精の寝顔に視線を落とし、深く息を吐きだす。
妖精を喜ばせたい。
妖精の笑顔が見たい。
ロイクが美嘉に尽くしてやりたいと思うのは、その気持ちが根底にあるからだ。
腕の中に落ちてきたあの瞬間から、ロイクの目を惹いてやまない不安定な存在。
可憐な妖精が自分に微笑んでくれる日は来るのか。
ロイクはその日を、どうしようもないほど切望している。
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