第3話 誘われたトンベ2

 ロイクの屋敷に滞在して数日は状況がよく分からなかった。

 それでも世話をしてくれるナディアや、夜ほんの少しだけ様子を見に来てくれるロイクの言葉から、美嘉はどうやら地球ではない場所にいることだけは分かった。

 地球にいたら一生拝むことが無かっただろう魔法の存在を知った時、これは舞台や映画にあるような別世界の出来事なのだと悟った。

 それが分かるまで、あれこれとナディアやロイクに質問を投げかけたのだけれど、二人の認識、特にロイクはどうやら美嘉の事を本気で『妖精』だと思っているようで、美嘉が何も知らなくても「人間の事を知るのは楽しいか」と微笑ましそうに見るだけだった。初日に舞台化粧を落としてこの世界の服を着た時にはロイクに「人間に擬態したのか」と真顔で言われたくらいだ。

 ロイクは何も言わない。

 生活に不足があるかどうか聞く以外は、美嘉にああしろ、こうしろと何も言わない。怪しむことをせず、美嘉のことを詮索することもなく、美嘉の自由にさせてくれる。

 そんなロイクの優しさに甘えて、美嘉はコンクールの失態を忘れるように日々を過ごした。

 最初の数日はそれこそ室内でナディアの話を聞いていたけれど、それまでの美嘉の生活はレッスンにレッスンを重ねるような生活だった。

 三日もすれば、足がむずむずとして室内の少しの移動だけでもステップを踏んでしまう。

 それを見かねたナディアが庭の散策に誘ってくれた。美嘉は喜んで庭へと出る。

 部屋とは違う、解放された空間。

 ナディアが用意してくれた靴はとても柔らかくて、バレエシューズのようだった。

 気持ちの良い風。

 柔らかい緑の芝生。

 全身に太陽の光を浴びた美嘉は、何も考えず、思うままにステップを踏んだ。

 右手を前へ差し伸べ、前へ、後ろへ、つま先で移動する。

 背中をそらして遠くを見つめる。

 指の先まで神経が張り巡らされる。

 片足を軸に、反対の足を宙に浮かせる『アラベスク』をした時に気がついた。

 これは、美嘉がコンクールで披露した演技だ。

 毎日毎日、これを繰り返し練習していたから、自然と体は演技の曲目を踊っていたらしい。

 それでも構わない。

 演目なんてどれでもいい。

 無心で美嘉はステップを踏み続ける。

 優雅に、つま先一つ、指先一つ、神経を巡らせて、美しく、高みへ―――。


「……っ!」


 高みへ、上れない。

 グラン・パ・ドゥ・シャを跳ぶために、軸足で踏み切ろうとした瞬間、脳裏に舞台上での失態がフラッシュバックする。

 体が強ばり、もつれるようにたたらを踏んだ足が地を蹴ることはなかった。

 それでも頭を振り、たまたまだと自分に言い聞かせ、美嘉はもう一度最初から踊り始める。

 二回目もまた、グラン・パ・ドゥ・シャのモーションの直前で失速し、跳べなかった。

 嘘だ、嘘だ、と美嘉は鬼気迫る勢いで手足を動かす。

 じっとりと汗が浮かんでも、何度も何度もダンスを繰り返す。

 何回目かと分からないほどグラン・パ・ドゥ・シャのモーションに入って、動きが止まった時、見ていたナディアが声をかけてきた。


「とてもお美しいダンスですね。妖精界に伝わるダンスでしょうか」


 にこにこと笑うナディアの言葉に、汗を流しながら美嘉は自嘲の笑みを浮かべた。

 妖精界に伝わるダンス……もしそうなら、美嘉はもう妖精界に帰る資格などないのだ。

 だって、彼女は踊れない。

 跳ぶことが出来ないのだから。

 汗に混じって静かに瞳から零れる雫を感じながら、美嘉は跳べなくなってしまった己の空虚さを抱えて部屋へと戻る。

 美嘉の様子をおかしいと感じたナディアが気遣わしげに声をかけてくれるけれど、美嘉はそれを拒絶するように「一人にしてほしい」とお願いした。

 どんなに跳ぼうとしても、足が地から離れなかったという事実は、思っていた以上に美嘉に現実を知らしめた。

 あんなに高く跳べたのに。

 あんなに綺麗に跳べたのに。

 いまや至れない高みに恋い焦がれて、美嘉は一人、与えられた部屋でうずくまった。

 ロイクの一声で、突然現れた美嘉に急遽あつらえられた部屋は、年頃のメイドたちによって可愛らしく整えられていた。もちろん、率先して部屋を整えてくれたのはナディアだ。

 美嘉は淡いクリーム色のソファの下で膝を抱え、顔を伏せる。

 ちょうどローテーブルとソファに挟まれて死角になるその位置は、見えない視線から隠してくれるようで安心した。


(どうして跳べないんだろう)


 うずくまった美嘉はそれだけを考え続ける。


(体の動きも、踏み込みのタイミングも、呼吸も、全部正しかった。跳べたはずだった。それなのに、どうして)


 コンクールでの失態を思い出す。

 同じ動き。同じタイミング。同じ呼吸。

 コンクールでは跳べたはずのジャンプが跳べないのは、なぜ?

 胸に棘が刺さったかのようにつきつきと痛む。

 痛む胸を抱えて、ますます美嘉は体を丸めた。

 思い通りにならない自分の体が、嫌いになる。

 踊れないなら。

 跳べないのなら。

 両親の、観客の期待に応えられないのなら。


(私は、何のために生きているの)


 たかがジャンプ、されどジャンプ。

 美嘉はバレエが生きがいで、高みへ上る事こそが誇りだった。

 それができない今の自分を、受け入れることはできなくて。

 止まっていた涙が、また流れ出す。

 ナディアの前ではおし殺した嗚咽も、今、一人しかいない部屋の中では堪える必要がなかった。

 喉を震わせ、涙をあふれさせ、美嘉は広い部屋の中で小さくなる。

 誰もいないこの部屋は、美嘉の心を表わしているかのようでただただ寂しい。

 バレエだけを拠り所にしていたのに、その拠り所さえも不安定なものになってしまった美嘉は途方に暮れてしまって、迷子のようにすすり泣いた。






 泣き疲れてしまうなんていつぶりだろうか。

 ふと顔を上げれば日も傾いていて、茜色が部屋を染め上げていた。

 寂寥感を一層引き立たせてくるその色を見ていたくなくて、美嘉はまた膝に額をこすりつけて目をつむる。

 何もしていたくなかった。

 どうして、とか。

 なんで、とか。

 考えても答えの出ないものを求めることは、美嘉には難しすぎる。

 動くのも億劫で、ぼんやりと時間を無為に過ごしていると、コンコンとノックの音が響いた。


「ミカ様、そろそろお夕食の時間です」


 ナディアの声だ。


「ごめんなさい、食欲がないの」


 美嘉は少しだけ身じろぎしたけれど、膝を抱えたまま声を返した。その声は弱弱しく、部屋の外にまでは届かない。


「ミカ様? お休み中ですか?」


 ナディアの言葉に自分の声が届いていないことに気づく。

 でもそれならそれで放っておいてくれるだろうと思った。―――美嘉の両親が、そうだったから。


(ナディアの言う通り、今日はもうこのまま寝てしまおう)


 食欲もないし、動きたくもないし、誰にも会いたくない。

 このまま寝てしまうのが一番だ。

 その内、部屋の外から感じていた人の気配が去って行ったのを感じて、美嘉は再び微睡を誘い込む。

 茜色が彩度を落としていく。

 藍色が世界に色を落としこんでいく。

 夜の帳に誘われるままにうとうととしだした美嘉。

 ようやく煩わしい世界を閉ざすことができるとほっとしたのも束の間、美嘉の部屋に無遠慮に入ってくる闖入者がいた。


「ミカ、入るぞ」


 ドアが開く音とともにかけられたのはロイクの声だった。


「ミカ? 明かりを点けていないのか?」


 微睡に身を任せようとしていた美嘉の意識がゆっくりと持ち上がる。

 少しだけ顔を上げロイクの方を見て、彼が明かりの魔法を天井から吊るされているシャンデリアに灯そうとしているのに気づいた。


「明かりは点けないで……」


 美嘉の声にロイクは動きを止めた。


「暗いだろう」

「顔、見られたくないの」

「なら、明かりは点けない。だが、そちらへ行ってもかまわないだろうか」


 ロイクの言葉に美嘉は返事をしなかった。

 それをロイクは肯定と受け取ったのか、美嘉がうずくまるソファの側にまで迷いなく歩いてくる。


「そんなところに座っていれば体が痛くなってしまうだろう」


 淡々と告げるロイクの声に、美嘉の肩が揺れた。

 呆れられてしまっただろうか。

 だけど美嘉は顔も上げられないし、その場から動きたくもない。

 親切にしてくれている家主に対して取る態度ではないと思うけれど、美嘉の体は全てを億劫がって何も返すことができない。

 再び閉ざした視界には何も映らないけれど、絨毯を踏む音ですぐ側にまでロイクが歩み寄ってきたのが分かった。


「ミカ」


 耳にするりと美嘉の名前を呼ぶ声が入ってくる。


「ミカ、顔をあげてくれ」


 もう一度名前を呼ばれたかと思えば、声の主は普段の何事にも動じなさそうな態度からは想像できない困り切った声音でそんなことを言ってきた。

 どうしたのだろうと、ぼんやり思った美嘉がそっと声のほうを向く。

 すぐ隣にしゃがんだロイクが、いつもは眉間に寄っている眉を今は頼りなく垂れさせて美嘉を見つめていた。

 暗い中でも、ロイクの琥珀の瞳が不思議に煌めく。


「泣いていたのか」


 ロイクの皮の厚い右の親指が、美嘉の目尻を撫でる。

 美嘉はそっと目を閉じた。

 明かりを点けていないのに、部屋は暗いのに、ロイクは美嘉のことがちゃんと見えているらしい。

 涙は止まっていたはずなのに、ロイクには泣いていたことも筒抜けで。

 何でも見通してしまいそうなロイクに、美嘉は肩の力を抜いた。


「何故、泣くんだ」

「それは、悲しいから」

「何故、悲しいんだ」

「それは、私が跳べないから」


 とどのつまりはそういうこと。

 涙が出るのは悲しいからで、美嘉は跳べないことが悲しくて涙を流しているだけ。

 どうして跳べなくなってしまったのかなんて二の次で、跳べない事実だけが美嘉の胸をしめつける。

 言葉にしたらまた悲しくなってしまって、ぽろぽろ落ちる涙がロイクの指に落ちていく。


「飛べないのが、悲しいのか」


 美嘉は目を閉じて小さく頷く。その拍子に大粒の雫が頬を滑り落ちていった。


「ミカは、飛びたいのか」


 ロイクの静かな問いに、美嘉は顔を歪める。


「―――跳べない私に、価値なんてない」

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