第2話 誘われたトンベ1
母親譲りの黒々とした髪を整えて、その日のためだけに用意した淡いローズピンクのチュチュを身に纏い、共に研鑽を積んできたトゥシューズのリボンを足首に巻く。
これから演じるのは未来をかけた大舞台。
多くのコンクールに出演してきた美嘉も、今回の舞台ばかりは緊張が隠せない。
演技直前の舞台の袖で美嘉は一つ深呼吸をする。
幸か不幸か、美嘉には天性の才能というものがあった。
ロシア人の父と日本人の母を持つ美嘉は身長が高く、すらりと長い手足はバレエダンサーとして恵まれた身体だと自負している。その身の細さはともかく、身長などは生まれながらのものであり、大柄な西洋人の中でも埋もれない高さというのは一生をバレエに費やしたかった美嘉に必要不可欠なものだったから。
国内コンクールでは同年代に美嘉を越えられる者はいないと言われるほどに注目され、その名声は国外にまで徐々に響いていった。
日本人らしいエキゾチックな顔立ちをしている美嘉に、いつかついた二つ名は『東洋の妖精』。
その由来は舞台に立つ者として最高の賛辞となる。
それというのも、美嘉の演技に魅了された者たちが、次々と「彼女は透き通るように美しい羽根をもっている」と語るからだ。
美嘉のバレエの才能というのはその二つ名だけで理解ができる。
そしてその二つ名にふさわしい演技を、美嘉は常に客席へと魅せてきた。
そっと踵を上げる瞬間。
遠く指先を差し伸べる瞬間。
ふわりとチュチュが回転する瞬間。
ダイナミックに宙へと身を躍らせる瞬間。
美嘉は本能で、 見る者すべてを魅了する身体の使い方というものを理解していた。
美嘉の情熱は常にバレエに向けられている。
バレエに関わらないような部分は全て母が全力でサポートしてくれていた。
だからいつだって他の事は後回しでよくて、美嘉はバレエだけに集中することが許された。
だからこそ、それが命取りになったのかもしれない。
美嘉は良くも悪くも、バレエ以外の事に無頓着だった。
それは当然のように人間関係にも当てはまる。
十七歳の美嘉は、今回の国際コンクールの結果次第ではプロへの道が約束されており、同じレッスンスタジオの仲間からの羨望と嫉妬の視線を独り占めしていた。個として突出しすぎていた美嘉は、その視線の意味を考えたこともなかった。
同じレッスンスタジオの仲間がなんだ。
才能だろうと努力だろうと関係ない。
美嘉はただ跳びたいだけ。
高く、高く、美しく跳びたいだけ。
美嘉はチュチュを揺らして舞台へと上がった。腰からガーベラの花弁のように広がったチュチュが、美嘉の歩みに合わせて上下に揺れる。
ピアノから始まる前奏が会場に広がっていくと、途端に舞台は美嘉の独壇場となる。
スポットライトを全身に浴びて、指先からつま先までピンと神経を張り巡らして、ステップを刻み、宙へと舞い踊る。
軽やかに、華やかに。
『東洋の妖精』というその二つ名を体現すべく、そのコンクールもいつものように高みを目指して跳んだ。
――だが、美嘉はそこで失敗した。
演技のクライマックス。
グラン・パ・ドゥ・シャというダイナミックなジャンプを跳び、着地をした瞬間だった。
普段なら絶対にしない失敗を、美嘉はした。
美嘉のトゥシューズは滑り止めをかけてあったはずなのに、着地点がぶれた。
それだけならいい。
気持ちよくジャンプを跳べた余韻に浸っていた美嘉はバランスを崩し、審査員の目の前で醜態をさらしたのだ。
流れゆく優雅な旋律が、地に伏した美嘉を置き去りにする。
何も考えられなかった。
その後自分がどうやって舞台袖に戻ったのかさえ、分からなかった。
ただ覚えているのは、舞台袖にいた同じレッスンスタジオの子が「滑稽ね」と笑っていたことだけ。
そんな状態でふらふらと舞台袖を通ると、階段で足を再び滑らせ、体が宙に投げ出された。
その時に気がついた。
これは何か細工をされたのだと。
いつもとトゥシューズの感触が違うと。
気がつかないなんて、確かにあの子が言ったとおりに滑稽だ。
高みを目指すために宙へと身を踊らせるのとは違う、墜落の風を感じながら美嘉は目を閉じた。
美嘉に羽なんてない。
美嘉に本物の羽があったのなら、きっと落ちることはなかったのに。
目を閉じて力なく衝撃を受け入れようとした美嘉だったが、硬く冷たい床の感触はいつまで経ってもやってこなかった。
そのかわり、柔らかい何かが優しく彼女を受け止めたのだ。
「……妖精か?」
お腹の底に響く、低い声。
コンクール関係者の誰かが受け止めてくれたのだと思って、美嘉は目を開ける。
最初に目に入ったのはキャッツアイのような金の瞳だった。
アッシュグレーの短髪に琥珀の瞳という高貴な猫を思わせる色合いに似合わず、がっしりとした体躯の男が、細身でも身長の高い美嘉を危なげなく受け止めていた。
どこのバレエ関係者なのだろうかと思いつつ、美嘉が体を離そうとするとそのままグッと抱き込まれる。
美嘉は眉をひそめた。
「助けてくれて、ありがとう。でも、チュチュが崩れてしまうから離してくれる?」
「ちゅちゅ?」
抱きとめてくれたのはありがたいが、抱き込まれるのは本意ではない。
美嘉のやんわりとした抵抗に、今度は男が目を細める番だった。
聞き返された単語。
まさかバレエ関係者に通じないなんて思わないから、なおも言い募ろうとして、美嘉はふと気がつく。
暗い世界と、明るい世界の狭間。
美嘉の背中に広がる暗い世界は、月明かりに照らされた闇夜の世界。
対して、男の背中越しに見えるのは、明るいシャンデリアが光を落とす色彩豊かで上品な一室。
コンクール会場には見られなかった赤い絨毯や白い壁、品の良い調度品に囲まれた部屋を呆然と見渡す。
美嘉は静かに混乱した。
薄暗かったはずの舞台裏は白のコンクリートで冷たい印象を与えていたのに、今、美嘉の目の前には温かい色が溢れている。
ここはどうみてもコンクール会場じゃない。
「……どうした」
優しいバリトンの声が響く。
美嘉は視線を右往左往させながら、なんとか声を絞り出した。
「こ、ここはどこ……」
美嘉を抱き止めた男は、美嘉の問いにさも当然のように答える。
「俺の屋敷だ」
「や、やしき?」
「そうだ。お前は、迷子の妖精か?」
混乱している美嘉は真顔で「迷子の妖精か?」なんて聞かれてさらに混乱する。
迷子は迷子に違いない。けれど、自分は妖精ではない。『東洋の妖精』とほめそやされてはいたけれど、生物学上は人類で間違いない。
なにがどうなって妖精という結論に至るのか。
返答に窮してしまった美嘉を安心させるように、男は美嘉を抱く腕に力を込める。
「妖精などいないと思っていたが……」
ポツリと呟かれた言葉は宙へと消える。
何を言いたいのかわからずに男の顔を見ると、きつく皺のあった眉間をゆるりとゆるめて、琥珀色の瞳が美嘉を見下げていた。
「気がすむまでうちにいると良い。部屋も、用意してやろう」
男はそう言って、美嘉を抱き上げたまま、部屋の中で固唾を飲んで見ていた人に視線を向けた。
つられて美嘉もそちらを見ると、絵に描いたような執事っぽい人やメイドっぽい人が美嘉と男の様子を見守っていた。
「……ナディア、彼女の部屋の用意をしてやってくれ」
「かしこまりました」
微動だにしなかった二人の内、美嘉と同じくらいの年齢のメイドがハッとしたように動き出す。それにつられたのか、執事っぽい人もおもむろに動き出した。
そうして美嘉は何が何だかよく分からないままに、男の――ロイク・ディヴリーの屋敷に居候することが決まったのだった。
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