事の始まり
忘れもしない。遡ること23日前、僕、森川誠一郎は所属する登山部の活動を終えて、帰路についているところだった。その日は日帰りで高尾山を上り、筋肉痛で足がひどく痛かった。
それに、色々使いもしない不要なものを積んだ、重いリュックも背負っていた。
昼は山頂で菓子パンしか食べていなかったから、とても腹が減っていたので、駅前の回転寿司に入って好物のサーモンばかり食べていた時、突然僕が座るカウンター席付近の従業員控室の方で、男性の野太い叫び声が聞こえた。
僕が驚いてむせ込みながら、10メートルくらい先の控室のドアへ顔を向けると、レジの会計を済ませた店員が「申し訳ございません」と事務的に詫びて、様子を見に控室に足を運んだ。
僕もびっくりはしたが、飲食店だしゴキブリでもいたんだろうなと、あまり気にせずにレーンを流れてきた生シラス軍艦を掴んだその時、部屋からさっきの店員が血相を変えて飛び出してきた次の瞬間、ドアを蹴破るというか殴り破って出てきた血まみれの女の子が、彼に飛び掛かって押し倒した。
隣の席の酔っ払いが、絹を裂いたみたいな悲鳴を上げて椅子から転げ落ちたが、僕は立ち上がるだけで冷静だった、と思う。襲われてる方の店員は、一度は襲ってる方の店員を蹴って振り払ったが、彼女はすぐにまたズボンを掴んでふくらはぎに噛みついた。
その女は服はきちんと寿司屋の制服を着ていたが、髪はところどころが抜け落ちて頭皮は露わになり、左右で違う箇所を見る濁った瞳からは、血の混じった涙を流していた。
獣のような唸り声を上げ、完全に正気を失っていた。僕は直感でコイツは薬物中毒者だと疑ったが、今は紛れもなく感染して間もないゾンビだと分かる。コイツらは感染して5分ほどは、何故か常人の数倍の力で暴れて、徐々に人並になるらしい。
男が痛みに悶えて叫び、近くにいる人がみんな事前に打ち合わせをしたかのように警察に通報を始めていたが、肝心の今襲われている店員を助けようとはしなかった。僕はこの時、この常軌を逸した騒ぎを特に間近で見ていた。
だから、人並み以上に持ち合わせた正義感から見て見ぬ振りは許されないと思い、とっさに店のレジを掴んで持ち上げると、登山で鍛えた腕力に任せ、眼前の発狂した店員に向かって、売り上げが詰まったレジスターを遠慮なくぶん投げた。
ばきっ、ぐちょっと、聞いたこともなければ死ぬまで聞きたくなかった、いやーな音が店内に鳴り響き、僕が恐々目を開けると、見事にレジはいかれた店員の顔面に直撃して、願い通り襲われた店員からヤツを引き剥がした。ヤツの鼻はへし折れていたが、歯も何本か折れたようだった。
それだけの半死半生くらいで済めば良かったのだが、ヤツの倒れた先にあった消火器のノズルが後頭部に突き刺さったのは、この時点ではまだまずかった。早い話が、僕は人を殺してしまった。もう頭の中でQUEEENの「ボヘミアン・ラプソディー」が鮮明に流れたのをよく覚えている。
人助けをしたことは変わりなく、それに関しては胸を張っていいと思っていたが、厄介なことは、僕がレジをぶん投げた後から騒ぎを見に来た客達の眼には、僕が強盗殺人犯のように見えてもおかしくなかったことだった。
真後ろで、小さな子が僕を指さして「人殺し!」と金切り声で叫んだが、それに対して、さっきの尻もちをついた酔っ払いが、「違う、この子は店員さんを助けただけだ」と弁護してくれた。なお、肝心の襲われた店員は恐怖で気絶しているらしかった。
何にせよ再び寿司にパクつける状況ではなかったが、ここで変に逃げたら警察にパクられかねないと、着席して茶に口をつけつつ考えた。しかし、この時の僕はリュックの中に、老人も登れる高尾山如きでは使いもしないのに、未だ抜け切れぬ中二病から来るロマンでサバイバルナイフを入れていたのだった。
僕は焦ったが、それを顔に出さずに席を立ち、レジが本来あった場所にあるトレーに千円札を1枚置くと、あくまで自分は潔白だと証明するために、金と一緒に学生証を置いてそそくさと店を出た。
大丈夫! 防犯カメラに一部始終は映ってたし! 目撃者も何人もいるから僕がブタ箱にブチ込まれるなんてことはありえない! はず! と、自分を励ましながら。
いや、しかし僕はあくまで騒動の目撃者で被害者じゃないから、過剰防衛に当るかも? と、その時は不安になった。
だが、今はそれが英断だったと間違いなく分かる。何故なら、僕が助けた店員もまた、足を噛まれて感染していたからだった。あの後、店内がどうなったかは知らない。
***
しばらくして、僕が帰路につきながら、あれは何の薬物の中毒者だったのだろうと何となく考えていると、真横を猛烈なスピードで救急車が通り過ぎだ。明らかなスピード違反だった。
かなり乱暴な運転で、僕とのすれ違い様に車体がガードレールと擦れて火花を立て、それが手の甲に当って火傷した。
僕が痛みに声を漏らした時には救急車は電柱に激突して、前面はめちゃめちゃに押し潰されていた。あと1分寿司屋を出るのが遅かったら、あるいは途中で寄り道していたら、僕はトマトの水煮みたいになっていたに違いない。
人命を救う救急車が事故を起こすなんて大問題だ。きっと消防署長の謝罪会見が今晩開かれるなと思いながら、僕は一枚スマホで写真を撮って、野次馬が集まってきたし、さっさとその場を離れようとした。
その時だった。救急車後部の扉が開き、中に収容された怪我人がよろよろと出てきた。その姿に、僕を含めた大勢の人間が息を呑んだ。
その人は、下顎がなかった。衝突時の衝撃が原因かは分からないが、彼の下顎のあった部分は、奥歯のみを残した状態でピンクの歯茎を剥き出しにして、絶えず水道水のように傷跡から血を流していた。
裂けた舌の一部が小刻みに震え、その人はうめき声を上げてうつ伏せに倒れた。その人を介抱するために、勇気のある若い男性が彼の元に駆け寄った瞬間、顎無しの怪我人は突然動き出して男性の手首をさっと掴むと、そのままベルトと襟を掴んで身体をよじ登り、下顎が欠けた口で男の首筋に噛みつき、その肉を削ぎ落した。
首筋から鮮やかな絵の具のような、正にこれが赤と言わんばかりの血が噴き出した。頚動脈が切れたことによる動脈の血だなと、僕は正気を失った悲鳴を上げて貪り食われる彼を見ながら、妙に冷静に男を見ていた。
これはさっきの寿司屋の店員と同じだ。気が違った人間が、自らと同じ人間を食べている。それも嫌々じゃなく自分から。何なんだこれは? とにかくここにいてはまずい。
普段は鈍感な僕だが、この時はやたらと先を見据えた判断ができた。
というのも、集まった野次馬の1人がまた別の野次馬に、同じようにして噛まれてほっぺたの肉を噛み千切られてからは、辺りはすっかりパニック状態になり、こんなに開けた空間なのに、逃げ惑う人達で将棋倒しの連鎖が始まったからだ。
どうやらその場にはすでに感染者が複数いたらしい。僕は少しだけ早くその場を離れたので、何とか難を逃れた。全く運がいい。しかし、ここから自宅に着くまでがまたかなり大変だった。
***
クッソ重たいリュックを背負って走っていると、いつも通っている帰路の道がやたら遠く感じられる。それに再度言うが、この日は登山の帰りだから余計に疲れていた。
毎日のように横を通っている居酒屋の戸が倒されていて、ちらりとカウンター席のテーブルが眼に入ったが、爪楊枝や醤油が置かれたところの横に、ベビーコーンみたいなものが何本か散乱していた。思い返せば、あれは人間の指だったのかもしれない。
途中で何台も事故を起こした車を見た。助けられるならと思って中を覗いてみたが、ほとんどは手遅れだった。
唯一、助手席から僕を見て窓を叩いている子どもがいたが、既に奴らの眼をしていたから無視した。奴らの目つきは常人では演技でどうなるようなまともなものじゃないから、何体か見たらすぐに勘付く。
国道沿いに出ると、すでにどこに逃げる気なのか道路は渋滞していて、痺れを切らして車を乗り捨てる人までいる有様だった。
その内の一台は高級車のレクサスだったしベンツもあった。歩道も例外じゃなく、真夏の隅田川の花火大会を思い出させる混雑ぶりであり、誰かと肩がぶつかる度に、あの狂人かと内心慄いた。
鳴り響くけたたましいクラクションに、赤子の張り裂けるような鳴き声と、すっかりビビった男の罵声が何層にも重なり、流石の僕も泣きそうになった時、サイレンが鳴って区役所からのアナウンスが各地に響いた。確か、うろ覚えだけど内容はこうだった。
「現在、原因は不明ですが、屋外の至る所で無差別に人を襲う方がいることが確認されています。現在外出されている方は速やかに帰宅か付近の施設に避難し、ドアに鍵をかけて、カーテンを閉めてから窓を家具などで塞ぎ、事態が鎮静化するまで決して外出はしないでください」
これを震えた声で3回くらい繰り返すと、アナウンスは途中でブツリと途切れた。それと同時に、人が集まりすぎたのか、奴らが何体も車の間の隙間を縫うように現れた。他にも潜伏期間が過ぎたと見られる感染者が暴れ出し、人々に食らいついた。
僕は濁流の中の小石のようにもみくちゃにされながら、家に向かって必死で逃げた。途中で親とはぐれて泣いている女の子がいたが、見捨てて放置したのを今も後悔している。
***
ようやくマンションについた。僕は予め鍵を握りしめていたので、電マみたいに震える右手を左手で掴んでドアを開錠すると、すぐにエレベーターを呼んだ。郵便受けを見ていなかったことを、こんな時に思い出したが、当然見に行かなかった。どうせ愚にもつかないチラシが詰まってるだけだ。
エレベーターはすぐに来た、僕は8階を8回連打してその後に閉まるボタンを12回は押した。ドアは外部からは鍵無しじゃ開けられないから、ゾンビが来ても中には入れないのだが、わかっててもやってしまった。そして、この後最大級の恐怖が僕を待っていた。
え? それは何だって? いたのだ。
8階で、僕を待ち構えるようにドアの真ん前で立っていた。僕はこの時、恐らく10数年振りにちびった。一瞬本当に走馬灯が見えた。
すると、数秒後に僕が生き残るためには何をすべきかというビジョンが、流れるように明確に見えた。もしかしたら、僕は追い詰められたら強くなるタイプなのかもしれない。
僕はすぐに後ろに下がってリュックを肩から外すと、それを右手にぶら下げて、ドアが半分ほど開いた瞬間に奴に向かってリュックをぶん投げ、すぐさま顔面に直撃したリュックに向かって渾身の飛び膝蹴りを食らわせた。こうすれば噛まれる心配なく振り切れる。
僕は急いで仰向けに倒れたゾンビにのしかかるリュックを掴むと、そのまま一目散に部屋まで駆け出した。リュックは捨ててもよかったが、それなりに大事なものも入れていた。
と、その時、押し倒したゾンビが後ろから、僕に向かっていきなり何をすると怒鳴りつけてきた。思わず立ち止まって振り返ると、その人は普通に速足で歩いて僕を追ってきた。どうも、恐慌状態のあまり、とんだ見間違いをしてしまったようだ。普段ならありえないことだ。
僕が、外がこうだからつい錯乱してしまったと、説明を交えて頭をヘドバンの如く下げて謝罪すると、やはりそんなにひどいのかと理解を示してくれた。このマンションには最近引っ越してきたばかりだから、同じ階の人間なのに始めて見る人だった。
僕が、とりあえず今は家にいた方がいいと役所も言っているから、それに従った方がいいと彼に言うと、「知ってるが、下の子が保育園にいるから」とだけ言い、踵を返してエレベーターに乗り込んで下へ降りていった。こちらに背を向けた時、護身用か彼の尻ポケットに裁ちハサミがねじ込んであるのが見えた。
人と会話したことで多少は気が落ち着いたが、ここに留まる理由はない。すぐ近くで車の衝突音がした。
僕はとっとと部屋に入ってリュックを乱暴に玄関に投げ捨てると、喉がカラカラだったから冷蔵庫のサイダーをまず飲んだ。そのまま、外は今はどうなっているのか、沈静化しているのかと、怖いもの見たさに恐る恐るベランダに出て外の景色を伺ってみた。
そこには、とても目視では数え切れぬほどに膨大に膨れ上がった奴らの群れが、残った人間を追い回し、捕まったものが次々と血肉を貪られては、鬼ごっこの鬼となって人間に躊躇いなく襲い掛かる、阿鼻叫喚の地獄が広がっていた。
幾つかの場所では黒煙がたくましく立ち上っていて、それら全ての出火元を目で追っていたら、その内の一つは、さっき警報をアナウンスしていた区役所だった。
目を凝らしてみると、屋上にある大きな電波塔に職員が何人か上って、燃える建物から逃れていたが、次第に何人かが煙に呑まれる自分の末路を悟ったのか、自ら身を投げているのが確認できた。
僕はこれ以上は見ていられなくなって、リビングに戻ったら意識が朦朧として膝から崩れ落ちてしまい、そのままぐったりと眠ってしまった。いや、恐怖のあまり気絶したのかもしれない。
あの時の僕は、眼前で多くの人間がゾンビに襲われ変わり果てていく様を見て、なんとか逃げ延びた自分は、ただいたずらに死を先延ばしただけなのかもしれないと、耐えがたい不安に包まれていたからだった。
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