第46話 宝亀三年三月 不可解な詔と不機嫌な紀船守
古巣とはいえ、近衛府は今日も何をそれ程忙しいと言うのか。人の出払った曹司で、ようやく捉まえた
「ああ、その通りだ。
船守がその名前を呼ぶ時は、間違いなく仏頂面になる。
「
「昨日の今日だ、まだ皇后宮に留め置かれている」
昨日、
そして、近衛府と中衛府に、
種継らは、まだ皇后宮の探査を続けている。容疑者らの尋問に立ち会った船守は、ようやく一息ついているところだ。
「粟田広上も
「やはり、堅石女も関係者か」
「御身も疑うていたゆえに、常々、話をしていたのであろう。まだ裏が取れておらなんだが、あの女は益麻呂と懇ろな関係らしい」
「成る程な。何時ぞや
「粟田の弟や、御身の所の使部も関係をほのめかしている。益麻呂が信頼していたのは、広上よりも堅石女の方だろう」
相変わらず、この男にとっては
「呪具の
「件の足嶋が中務宮の元に持参して、洗いざらい自供したそうだ。これを
「呪詛の対象は中務宮か」
「そうなろうな」
何時ぞに聞いた噂は、あながち間違ってはいない。しかし、呪詛を命じた者の胸中を鑑みれば、当たらずと言えども何とやらだろう。
この後、皇后宮職に戻ったが、仕事など出来る状況ではない。曹司から一歩出れば、帯刀した兵士が行く先や目的を問う。これでは誰もが外へ出たがらない。
私はと言えば、曹司に戻った途端、噂好きな同僚や部下から質問攻めにされる。
「太政官も近衛府も、この件では緘口令を布いている。私も大した事は知らされていないよ。何せ近衛府内も、大概の者が出払っていて、まともな話など聞けたものではなかった」適当に言葉を濁す。
「本当に
「
「それで事情聴取された訳ですよね」
「
「馬鹿か、それこそが緘口令だ。本当でも間違いでも、おいそれと口にするな」すかさず否定する声がある。
事件現場から近いとは言え、既に舎人にも話は漏れているようだ。詰まらない方向に噂が泳ぎ出す前に、太政官も何らかの処置を下さねばならない。
まだ内裏は厳重な警戒の下にある。近衛府による皇后宮の探査は継続中だ。
三月
「今、
足嶋が自首し告げた事件からは、既に年月が過ぎている。だが、臣下として告白した事に対して官位を賜る。
冒頭からして意味が分からない。呪具らしき野晒しの
詔に続き、共に謀叛を謀った者の名前が告げられる。本来であれば斬刑に処するところを免じて遠流とする。
どうやら謀叛とは三年前、神護景雲三年に起きた
そして主犯は姉女から広上に摩り替わる。更には足嶋が証拠だと提出した呪具、私の見つけた野晒し、共に三年も前から存在した物に化けている。このような誤魔化しがどこまで通じるものなのか。事が呪詛だけに、太政官が黒だと言い張れば下々は深い追及を避ける。
更に寝耳に水とも言える決定が下される。
「皇后の
同母妹の
何時ぞや
三年前も今も、皇后がどこまで呪詛に関わっていたかは分からない。ただ、誰かを呪いたいと思うほどの、闇を心に抱えている事は変わっていないのかもしれない。
「それで、俺の見つけた野晒しは、誰を呪うための物だったのだ」
捜査に少しばかりの区切りがついたようで、ようやく船守も種継も、話をするだけの余裕ができた。二人は状況報告だと言い、何故か連れ立って我が家にやって来る。
「御身らが探せと命じられた女だ」相変わらずに不機嫌そうな口調で船守が答える。
風もなく暖かい午後も遅く、中庭に面した縁でどこぞの家に倣って、明け広げた内緒の話が始まる。
「
「足嶋とやらが自白した。益麻呂がその女の髪の毛を手に入れ、野晒しに巻き付けて呪具とした云々とな」
「確かに髪の毛らしき物が巻いてあったな。しかし、勇耳の行方は知れていないはずだ。どこで髪の毛を手に入れたのか」私は問いながら、二人を交互に見る。
「足嶋が持っていた念珠が盗まれた。珠に通していた糸が女の髪だと。落飾した時、念珠を作ったのだと言うていた」
答えた種継の膝の上には、今日も我が家の赤い猫が乗っている。
まだ日も高いからと、家の者が用意しようとした酒肴も断り、ただ、誰も来させるなと命じた。何せ二人が語るのは、職務上知り得た物騒な機密情報だ。しかし、猫にはそのような命令はまるで通じない。
「確か、足嶋の念珠を盗ませたのは紀益麻呂だ。何故、そのような事を知っていたのだろうな」
今日も私は問う側で、開示できる程の情報は持ち合わせていない。中務宮の指名で皇后宮職に派遣されたとはいえ、近衛府から離れては、事件の核心を知り得ない。それが何とももどかしい。
「知っていたのは益麻呂ではない、皇后だよ」
軽く答える種継は、猫の首の後ろを慣れた手つきで掻く。猫は聞こえよがしに喉を鳴らしている。
「足嶋が言うていた。皇后は二人の妹君と共に、益女から呪詛の方法を教わっていたとな」船守が憮然として言う。
「二人の妹君とは、不破内親王と
「ああ、先の
紀益麻呂、益女、二人して宮中での呪詛に関わる。このような者を同族として認めろとお上は言うのか。憤慨しているのは船守だけではあるまい。紀氏の多くの者が思うだろう。
「足嶋が中務宮に提出した呪具も、俺の見つけた物と同じなのか」
「仕様は同じだな。子供と思しき
種継は少しばかり引きつった笑みを口元に浮かべる。相変わらず、目は笑っていない。「勇耳の場合は行方知れずゆえ、床下などに置いたのだろうな」私は独り言つ。
「まあ、そのようなところだろう。
船守は依然、不快な表情を隠しもしない。
「場合によっては、呪詛を返す事も出来るの何のと」今度は苦笑気味に種継が付け加える。
「それも、先の右大臣が言うたのか」
「いいや、今の陰陽頭だ。おかげで
種継が若翁と呼ぶのは、勿論、中務宮だ。今頃は顔に出さずに、怒り狂っているかもしれない。
陰陽頭、
「しかし、中務宮にしても他の御偉方にしても、皇后の関与は隠し通すかと思うていた」船守はぽつりと言う。
「廃后が目的だったのやも知れぬ」種継の答えは辛辣だ。
井上内親王の立后を積極的に勧めた、北家の左大臣は既にいない。それでも、今の太政官の面々が、廃后に傾くとは思い難い。処分を下したのは太政官ではないだろう。最終決定を下すのは、あくまでも天皇だ。
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