第44話 宝亀三年二月末日 中衛府の独房にて
中衛府は内裏の西側にある。反対の東側には、同じような規模で近衛府が置かれている。七位の
将曹から見れば、私は運の悪い参考人だ。最初は心なしか同情気味に接して来た。ところが私が皇后宮
程なく舎人が一人、外から戻って来て、何やら耳打ちをする。別室で取り調べを受ける女たちが、ある事ない事を白状して、私の関与でも仄めかしたのか。その後、態度は更に横柄になる。
「そもそも、どうして中衛舎人が皇后宮に乗り込んで来るのだ」私は開き直って聞き返す。
「太政官からの命令だ。内裏の内で事件を起こそうとする者がいるゆえ、未然に阻止せよとな」
「密告があったという事か」
「質問をしているのはこちらだ、
階位は下だが、年は私よりも少しばかり上らしい。後ろに控える二人の中衛舎人と書記役が、困り顔を見合わせている。いささか難有りの上官なのだろう。
「俺の見つけた物が、事件の証拠という訳だな」
「本当に見つけたのか、御身が持ち込んだ物ではないのか」
「あのような不可解な物を、あのような場所で無造作に持っている訳がなかろう。普通に考えても、人目に触れぬ形で持ち込むのではないのか」
「寝殿の下に隠そうとしたところを、我々に見つかったのであろうが」
「俺が床下から這い出て来たのは、御身も見ておろう。隠した物を、出て来た時に手にしている訳があるまいに」つい、鼻であしらうように言う。
「我々が現れたのに動揺して、失態を犯したのではないのか」馬鹿に仕切ったように言い返す。
不毛な言い合いを続けるのも埒が開かない。そろそろ本気で対処するとしよう。
「俺の事をとやかく疑う前に、近衛少将の
受けた命令、知り得た情報を不用意に他言するのは、どこの部署でも規律違反だ。しかし、この男も役職付きの武官だ。下手な詮索が藪蛇になる事くらい気付くだろう。
「上からの命令だと」
「ああ。密命だ」
将曹の眉根にしわが寄り、眉尻が下がる。それなりに何かを察したらしい。
「四の五の言わせるな。近衛府が嫌ならば、
問えと言ったところで、七位の将曹が山部親王に直接問える訳もない。問うのは中衛大将あたりだろうか。親王と大将は旧知の仲らしいが、私の受ける命令の事は知るまい。しかし、既に私一人で対処できる状況ではない。皇后を呪詛しようとする者がいる。皇家や太政官の問題だ。
大仰な名前が出て来たところで、私に対する尋問は一旦、中断する。
その後、久々に独房に押し込まれた。以前も今回も中衛府だが、特に知った顔はいない。どうせすぐに出る事が出来るだろうと、括った高が怪しく思えて来たのは、日没の頃だった。
格子扉の下の部分にある小窓が開くと、若い舎人が夕飯だと、粥の入った器を押し込んで来る。この様子では、まだ近衛府とも中務省とも、話は出来ていないようだ。
「俺と一緒に、ここにしょっ引かれて来た女がいただろう」粥の器をとりながら聞く。
「そのような質問には答えられませぬ」何故か生真面目に舎人は答える。
「それもそうだ」
職務上で知り得た事には守秘義務が生じる。
「御身様の持っていた、あれですが」格子の前に立ったままの舎人が言う。
「あの
寝床の上に座り、冷めきった粥を啜りながら、舎人に顔を向ける。
「あれは、
「ああ。先の
「将曹は疑うているやも知れませぬが、私は違いますよ」何故かあっけらかんと言う。
やはり、件の将曹は人望がないようだ。
「それは有り難い。それで、俺の事は、近衛府か中務省に問い合わせたのか」
空になった器を小窓の前に置き、改めて舎人の顔を見る。
「それが、どこの衛府も四等官以上に呼集がかかって、太政官に留め置かれたきりなのです」
「そうなのか。俺の所には何の連絡もないが」私とて一応、近衛府には籍がある。
舎人は首を傾げつつも笑う。四等官がいないとなると、その下の役職付きの者らが代行で持ち場に詰めているのだろう。この若者が私との会話を平然とするのも、煩い上官が出払っているためだ。
「中衛大将も近衛大将も太政官におられるか。中務卿となれば、尚更だな」
山部親王は侍従も兼任するので、天皇の側にいる可能性もある。
「御身様は中務宮様を御存知なのですか」
「御存知も何も、元上官だよ。あの方が近衛少将だった時、俺は将曹だった」
舎人は感心したようにうなずく。そして、格子に顔を近づけ、再び声を潜める。
「ここだけの話なのですが、宮様がこの騒ぎの渦中にいると、小耳に挟んだのですよ」
ようやく言葉に出来たとでも言いたげな口調だ。この男も噂好きの類か。
「渦中におられるのは
「ええ。私もあの場にいましたので」
つまりは、あの将曹の部下か。
「中務宮は滅多に皇后宮には来られぬ。どのように、関わって来るのだ」
「呪詛の対象には、皇后様だけではなく、宮様や他の方も含まれるのではないかと。あくまでも噂に過ぎぬのですが」
「他の方とは、皇家の方々か……」
この噂は親王の耳にも入っているだろう。あの気丈な御仁でも、呪詛の対象になどされては心穏やかではいられまい。同時に腹を立てているかも知れない。そして次に来る問題は、いったい誰が今の皇家に
近衛府から紀船守がやって来て、私を独房から出してくれたのは、翌日の朝方だった。朝餉は相変わらずの薄い粥だったので、腹が減って力が入らない。何か食い物は調達できないかと軽口を言えば、船守は相変わらずの生真面目な顔で答える。
「済まぬが、その前に中務省に出頭してくれ。中務宮より、御身を連れて来いと言われている故に」
「ああ、分かった」
中務省に食い物があるとも思えない。
内裏と中宮院の間の道では、未だに兵士らの行き来が途絶えず、各所の門も固めている。誰もが武装体制を整え、帯刀して
「全衛府の四等官に呼集がかかったと聞いたが、何が起きているのか」小声で聞く。
「
「確か、
「その者が中務省に密告して来た。皇后宮で呪詛が行われようとしていると」
「やはり、その女も関わりがあるのか。
「その辺りの報告も中務宮に上げて、今後の指示を仰がねばならぬ」
私はうなずき、船守と共に中務省への道を急ぐ。
中務省は太政官や宮内省と共に、内裏の東側にある。近衛府も同じ側にある。ところが中衛府は西側にある。中衛の一部が近衛府を気に入らないと思う理由は、このような位置関係にある。同じ内裏の近習として東西に配された訳だが、上級官庁との位置関係からも、近衛府を優先するように見える。天皇が東宮院の
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