第43話 宝亀三年二月 立ち聞きと考察と覗き見
同日夕刻、皇后宮職には誰も残っていない。
春も半ばを過ぎて日は長い。いつもであれば、私も家に帰っている時刻だが、この日は気になる事があって、再び
二人とも顔は良く見えないが、背格好は見覚えがある。その者らが連れ立って、司の建物の裏へと入って行った。
私は少し間を置いた後、おもむろに建物の内に入る。奥の部屋に行くと、既に閉ざされた窓の薄い戸板の向こうから、男らの話声が聞こえる。
「下手に振舞えば、かえって怪しまれる。何せ
「ではやはり
「そのようだな。俺が内裏に入る事が出来れば、お主の姉様に手渡しも出来るのだが。姉様は堅石女様のように、この曹司に来る事は滅多にないしなあ」
「姉者人が俺を使い走りにするのが悪い。おまけに同僚を疑うて、信用できぬなどと言い出す。こちらとしてもいい迷惑だ」
「そりゃ、そうだ」そして、使部の卑下た笑いが聞こえる。
「俺としても、そう何度も内裏になど入りとうはない。だが、こればかりは姉者人に直接届けねばならぬ」
「何を届けるのだ。いつものように
「いや、大丈夫だ。寮から正規の通行証も出してもらうた故」
二人の会話から察するに、これまでも
しばらくすると、二人の話声は聞こえなくなった。使部が戻って来て私に気付くと厄介だ。とりあえず外に出て、入り口に施錠をする。念のため司の裏手を覗くが、二人の姿はない。
使部は帰ったのだろうが、粟田臣は内裏に向かったのかもしれない。一つ深呼吸をして、軽く腹をくくる。私も適当な用事を装って、皇后宮に行ってみるのが手っ取り早かろう。
益麻呂が頭になったのは、天平神護元年の
未だ不明なのは、益麻呂の目的や行動だ。粟田の姉弟が本当に関わっているのか
中務宮は新たな呪詛の可能性を疑う。件の呪女の兄である益麻呂が、何らかの形でかかわるのか。もしかしたら、呪詛そのものを依頼されているのか。そして、対象者は誰なのか。やはり
まったく別の第三者が発端で、それを懸念する皇后や粟田広上が、益麻呂に助けを求めている。まだこちらの方が納得が行く。
そうなると、皇后を狙う者は誰なのか。結局、ここに疑問が行き着くか。
「何らかの形で、藤氏や
軽く四方を見回すが、幸いにして誰もいない。
後宮が常にも増して孤立している、このような状況を
かつての呪詛未遂事件を洗い直せという命令は、この先に起こるかもしれない事件や事実を隠すためなのか。ここまで関わって来ても、未だに分からない事が多すぎる。
楊梅宮の完成後に人の減った内侍司は、以前のような賑わいもない。いずれにしても今は業務を終えた時間なので、司の屋舎は閉ざされて人の気配もない。と、思いたいところだが、何故か扉の開いている舎がある。何故かなどと言うのもおこがましい。
「中は見ておらぬ。益麻呂様から預かったまま持って来た」
「本当に見ておらぬのですね」
男女の話声が聞こえる。開いた扉を遠巻きに、歩きながら見るともなしを装って内を見れば、案の定、粟田広上の姿がある。男の顔は見えないが、声や背格好からも弟だ。
「先日に姉者から渡された念珠だが、あれは
「何故、そう思うのです」
素通りの振りで、入り口からは見えない位置に移動する。二人は私が通った事には気づいていない。
「春宮坊の小者が、足嶋様の念珠を盗んで欲しいと、姉者から頼まれたと言うていたぞ。足嶋様は姉者の協力者ではないのか」
足嶋様とは春宮付きの
「足嶋様をどうこうしようという訳ではありませぬ。念珠が必要だと言われたのですよ」
必要だと言ったのは誰か。益麻呂か、それとも中務宮か。足嶋を何かの事件に巻き込む事で、皇太子や皇后の立場を悪くするつもりなのか。
「益麻呂様は、これをどこに隠すように言われたのですか」
「寝殿の床下で良いと」
「分かりました。では、御身は早々に戻った方が良いでしょう。あまり長居をしては、無駄に人に見られて、不審に思われますよ」
「分かっているよ」
この時刻には、殆ど人は残っていないが、見られて都合の悪いのは私も同じだ。皇后宮に隣接する司で、嫌でも目立つ五位の赤い服が聞き耳を立てている。誰が見ても挙動不審者だ。
弟は程なく出て来るだろう。足音を忍ばせて屋舎の裏側に回り、更に耳をそばだてる。私の挙動はともかく、益麻呂が床下に隠せと命じた物は何なのか。
扉の閉まる音がする。胸中で百まで数え、更に深呼吸して表に回る。外には誰もいない。弟は去り、広上は寝殿に向かったのか。何にしても、内舎人あたりに見つかると厄介だ。思案しているところに、屋舎の内から物音がする。再び深呼吸をし、何食わぬ振りで隣の屋舎の陰へと回る。
小さく聞こえるのは、扉が開き、再び締まる音か。軽い足跡が遠ざかる。屋舎の陰から様子を伺えば、背を向けて歩み去る女が見える。
木塀に囲まれた皇后宮の入り口には、当然のように
内侍司の
それに引き換え私が寝殿に向かうのは、かなり不自然だ。皇后に用事があるにしても、上位の内侍を通すのが常だ。そのような訳で、あえて内侍らのいる司の方に向かう。そして人目が無くなった辺りで方向を変え、回り道をして寝殿の方に向かう。内舎人は滅多に来ない場所だが、内侍や女孺には会う可能性がある。この度も言い訳を歩きながら考える。
仕切りの塀の陰から、寝殿の方を窺う。粟田広上と思しき女が、
普通に考えても、かなり異様な光景だ。それなりの身分の内侍が、
「何をしておられます」
私が口にしようとしていた言葉が、突然に背後から投げかけられる。身を硬くしたまま振り向けば、
「
「ああ。
「犬、ですか」
「どこより紛れ込んで来たのか、何かおかしな事をされても困ると思うてな」我ながら出来の悪い言い草だ。
「私は見ておりませぬが」
「もしかしたら、狐やも知れぬな」更に適当な事を言い、塀の端を回って寝殿の庭に入る。
「あ、あの……」
そして、寝殿の階脇で膝を着く粟田広上は、我々の声に気付いて振り向く。
「広上様」
堅石女が呼びかけると、広上は慌てて立ち上がる。
「
「犬とは……」
「先ほど、
私は言いながら階に歩み寄り、腰をかがめて床下を覗こうとする。
「こちらには、犬など来ておりませぬよ」
広上は私の前を塞ぐように立つ。
「今しがた、床下を見ておられたようだが、何かいるのではないのか」
「いえ、落とした物を拾うただけです」
そして、これだと言うように、階の下の段に置かれた箱に手を伸ばす。
「何か入っているのか」興味本位の振りで聞く。
「空ですよ。先に
「ああ、そうか」
その隙に私は階の裏を覗きこむ。裏には何もない。縁を支える柱の周囲にも何もない。ところが更に奥の、
「何か落ちているぞ」言いざまに片膝を着き、奥に手を伸ばすが到底届かない。
「あの、大進様」どちらかの女の声が、戸惑い気味に頭上でつぶやく。
女の声に重なるように、背後から足音が聞こえる。誰かが走って来る、それも複数だ。
少し躊躇したが、構わず縁の下に潜り込み、奥の柱の陰から丸い物をつかみ取り、後ろ向きに這いだす。そうして立ち上がり振り向いた時、浅緑の
「
七位は小隊を停止させ、私達の方に一人歩み寄る。
「何を持っておられる」緊張した声が、やや分厚い唇から漏れる。
「廂の下に落ちていた……」
言いながらようやく確かめたそれは、嬰児の物と思われる大きさの、野晒しの
「何ともはや」厄介な事になりそうだ。
両目の穴の間に巻き付けられた、髪の毛らしき黒い糸を眺めながら、私は大きく溜息をつく。
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