第42話 宝亀三年二月 女官と訪問者

 午後になっても中務省なかつかさしょうの人々は仕事に追われる。どこかのつかさとは大違いだ。

 中務卿の曹司ぞうしは扉も窓も開け放され、私は部屋の主と単独で対面する。このような状況の時は、誰も近寄ってはならない。ここでも命令は徹底しているようだ。

「ここ最近、いずれの陰陽師おんようしも皇后宮には来ておりませぬ」

 白桜の満開を迎え、日の当たる窓際は通る風も心地が良い。勧められた席に着き、無粋な状況報告を始める。

「一人は出入り禁止、今一人も、そう歓迎されていないのやも知れぬな。だが、いずれも人を遣わす事は可能だ」

 小さな机を挟んで、深く椅子に腰かける山部親王やまべのみこは、腕を組んであらぬ方に目を向ける。この人が中務省にいる時間は、案外少ない。侍従を始め、非公式の中宮大夫まで兼任しているため、東宮院にいる時の方が圧倒的に多い。

くだん女孺めのわらわに面会に来る者は」

「そちらもありませぬが、記録に残らないような形で会うている可能性はあります」

「やも知れぬな。常日頃、面会に来る身内なら、周囲も顔を覚える。ただ話をするくらいならば、面倒な手続きなど省く。皇后宮職は特に、その辺りは甘そうだ」

 おゆの聞いたところでは、粟田広上あわたのひろかみの弟は、母親と妻子と共に七條辺りで暮らしている。家族の用事だと言われれば、皇后宮の顔見知りも適当に流すだろう。

「大浦は呪女まじないめの知り合いを探していた。件の女孺と呪女に関わりは有りそうか」

 この人もいつの間にか紀益女きのますめを呪女呼ばわりするようになった。

「今のところは、兄の益麻呂ますまろ以外に、接点らしい接点も見つけておりませぬ」

「そうか。まあ、益麻呂と関わりのある者では、大浦も警戒するやもしれぬな」

 大津大浦と紀益麻呂は、世辞にも仲が良いとは言えない。広上を下手に突けば、益麻呂から詰まらぬ報復を受けるかもしれない。いや、益女の知己を探していると知れた時点で、益麻呂は充分に怪しく思っているだろう。

「とは申せ、妹の知り合いを兄が全て知っている訳でもなし。大浦が何のために人探しをしているかも、益麻呂は知らぬのやも知れぬ」

「大浦と益女が先の女帝みかどの側に仕えていた期間は、確か一年近うあります。その間に益女から、皇后おおきさきや皇家に関わる何かを聞いていたやも知れませぬ」

「確かに一年もあれば、何かを知るには充分であろうな。呪女は他戸おさべの出自を知っていたと思うか、御身は」

「いいえ。知っていたならば、早々に女帝に報告したでしょう。そして、新たな皇嗣に兵部卿なり誰なりを推挙したと思います」

「それもそうだな。皇嗣問題ではないとなれば、やはり呪詛ずそに関わる類か、大浦が探すのは」

「呪詛、ですか」いささか突飛な展開に首を捻る。

「あの女に、他に何の取り柄がある。口を開けば呪うの祟るのと。まともな心根の者とは思えぬ。一歩間違えれば狂人の類だ」

 親王がその様に言われたのは、兵部卿の屋敷での捕り物の時くらいだろう。それ以前にも以後にも、その様に言われる程の何かがあったとも思えないのだが。

「では、大津大浦も我々と同じ事を探っているのでしょうか」気を取り直して聞く。

「そこまでは分からぬ。昔より同様な類は、度々起きている。呪具ずぐらしき物が見つかった例に至っては、表沙汰にならなかった事件も加えれば、枚挙に暇もない。私も内舎人うどねりや近衛として、内裏の周辺に関わって来た。その間にも、発覚前に処理された例を幾つも聞いている。実際に見た事もある。呪女が女帝の側に上がった後は、いったいどれだけの噂を聞いた事か」

 市井の男女の浅はかな嫉妬心が招く行為ならば、私でも多少は見聞きしている。同じように起こる事柄でも、場所が庶民の家と内裏では、扱いに雲泥の差が出て来る。

不破内親王ふわのひめみこらの起こした騒ぎでも、呪具の髑髏されこうべは内裏に持ち込まれている。たとえそれが、事件を偽装するための道具に過ぎないにしてもだ。呪女が呪詛の方法を不破内親王らに教えた。大浦が探す者も、呪女から教えられた者ではないのか」

「この後、更に別の事件が起こると思われるのですか。それに大浦の探す者が関与するかもしれないと」

 控えめにしたつもりの質問に、親王は怪訝な顔を向ける。

「分からぬ。私の言うのは、あくまでも可能性だ。呪女を巡って陰陽師らがうろついておるゆえ、思うたに過ぎぬ」口調は変わらないが、どこか取り繕う言葉にも聞こえる。

 親王が私に下した命令は、皇后の周辺を探る事だった。皇后は陰陽頭から益女の名を聞いて嫌悪を覚えたと聞く。次には益麻呂が現れ、皇后と何やら話をする。

 親王が呪詛の対象と思うのは皇后なのか。もしもそうならば、誰がどのような目的で皇后を狙うのか。

 井上内親王は伊勢斎宮を退下した後、白壁王の妃になった。伴侶が即位して皇后になるまで、官界に関わった事はない。そのような人の耳にも、呪女の噂は入っていたのだろうか。呪女の名前に怯えるのは、何か心当たりがあるからか。

「陰陽師どもが何を考えているにせよ、再び内裏で事件などあってはならぬ。もしも何かの兆候があるのなら、未然に察知して防がねばならぬ」

 誰かが皇后を狙う。そのために内侍司の女達と連絡を取る。大浦が探すのは、その女なのか。では、益麻呂の役目は何か。皇后が助けを求める相手なのか。いずれも憶測にすぎない。

「種継らにも言うているが、この後も気を抜かずに監視を続けて欲しい」

 親王はやはり、新たな事件の可能性を疑う。

「心得ております」私は答えながらも、改めて親王の顔を見る。

 藤原氏の多くは、皇后から露骨に敵対視されている。面白くは思うまい。そしてこの人も、皇后を疎ましく思う一人ではないのか。動じた様子も見せない、黒目勝ちの目元を眺めつつも、私は親王を少しばかり疑っているのに気付く。


 昼間に噂をしたためとは思いたくないが、よりによって夢見が悪い。

中務宮なかつかさのみやいましを疑うているぞ。汝が内裏勤めの誰かに、禄でもないまじないを教えたのだろうと。いったい、どれだけの者に禄でもない方法などを教えたというのか」

 けんか腰の私の問い掛けに、益女は薄ら笑いで返す。つくづく腹の立つ女だ。

「県犬養姉女やその他の女達に教えたのは、汝で間違いないのだな」

「さて、どうであったかな。問われれば教えもする。顔を出さぬ相手に教えた事もある。更には、問うてくるのが、本人とは限らぬ。いちいち誰がなどと、覚えてはおらぬわ」

「なるほど。憶えておらぬほど、多くに教えてやった訳か」

「一応、内親王らには求められたゆえな」

 何やら、つくづく偉そうな物言いだ。他にも三言四言、他愛のない事を言い合ったが憶えていない。そして寝覚めは、すこぶる悪い。


 安都堅石女あとのかたしめに頼まれ事をされたのは昨日だった。ある者が訊ねて来るので、その者から受け取った品を届けて欲しい。訪ねて来る者は、内裏には入れない身分らしい。しかし、わざわざ私に頼まなくとも、皇后宮職の役人ならば使部しぶでも史生ししょうでもいる。私のような新参者よりも、長く馴染みの者はいくらでもいるだろう。

「私が直接に安都氏に手渡さねばならぬのだな」

 やや大仰に聞くと、堅石女かたしめは小さくうなずいた。

 そして、使いに来た若い無位の男は、内原直うちはらのあたいと名乗る。少し大げさに思えたが、人目を避けるために曹司に通して応対する。この様な事は滅多にないのか、男は及び腰気味について来る。そして曹司に入ると、箱を懐から出して渡してよこす。両掌に乗る程の大きさだが、布に包み紐を何重にもかけてある。

「他の方々には内密に願いたいと、依頼者は申しております」

 細面の痩せた男は、何度目かの頭を下げる。五位になって、周囲からやたらに低頭されるようになったが、未だに何とはなく気が引ける。

「要するに、御身の上司か主が、安都氏に内密の贈り物をしたいと、その様な状況なのだな」勘繰った振りで、適当な出任せを言う。

「は、はい」

 若者は戸惑い気味に、またも頭を下げる。本心なのか誤魔化しなのかは分からない。

 私がこの男を疑うのは、実に安易な理由からだ。内原直とは、天平宝字八年に良民と認められた紀寺の奴婢に与えられた氏姓うじかばねの一つだ。その者らには、紀益麻呂を戸主こしゅとして戸籍を持たせた。

 先ほど私が主と言ったのは、益麻呂のつもりなのだが、若者がそこまで理解しているとも思えない。そもそも、内原直の名を聞いて、堅石女と益麻呂を結び付けるのも安直だ。

「中を検めても構わぬか。私としても、未だ近衛府に席を置いている。内裏関係者への届け物を調べもせずに通す訳にも行かぬ」

 男の右眉根にある目立つ黒子を眺めながら、何やら取って付けた様な言い分だと、この度も思う。

「はあ……」

 少しばかり所在なさげにうなずく様子から伺うに、中身が何かは知らないようだ。私は構わずに紐を解き、布を開いて箱の被せ蓋を持ち上げる。甘い香りが漂う。見たところ何の変哲もない、干した果実やら揚げ菓子やらがぎっしりと詰められている。それでも贅沢な物には違いない。

「なるほど、女性への気の利いた贈り物という訳だな」

 蓋を戻して包み直し、元のように紐をしっかりとかける。そして、すぐにでも安都氏に届けようと請け合って、内原直を返す。

 内原直が全て奴婢上がりとは限らない。あの男にしても、紀益麻呂の部下と決まった訳ではない。つくづくを人を疑いの目で見るようになったものだ。いささか自己嫌悪したくなる。


 中務宮に言われたから、私も呪詛の可能性を疑う。不破内親王の起こした騒ぎの時、内裏から出て来た呪具ずぐは野晒しの髑髏されこうべだった。冤罪だの何のと言われているが、誰かが呪具を持ち込んだのは間違いない。内原直の持って来た箱の中身がそのような物だったのなら、どう対処すべきだったのか。正直、他愛のない贈り物で安心をしている。

 時間の開いた頃合いに内侍司に行き、堅石女を見つけて届け物を渡す。堅石女は周囲に人のいない事を確認し、躊躇する様子もなく包みを開く。

「隠す程の物ではないと御思いでしょう。でも、皆には黙っていて下さいな」小さく肩をすくめ、堅石女は笑って見せる。

「もらった物よりも、送ってくれた相手が重要なのだろう」私は物分かりの良い振りでうなずく。

 顔立ちの良い、若い独り身の有能な女官に、懇ろな相手がいたところで不思議ではない。

 司に戻ってると、珍しく居残っていた使部(雑用係)の者が問う。

「内裏から御戻りで」

「ああ。野暮用があったので、ついでに書類も置いて来た」

 後者は私の仕事ではない。それこそ舎人や、この男辺りに任せる事だ。

「もしかして大進だいじょうも、誰ぞから内侍司の女官への進物を頼まれたのですか」

 少しばかり前歯の出た中年の使部は、上目使いでこちらを見る。

「俺もとは」

「やはり、内裏勤めの女人は、人気がありますからねえ。私なども何度も、他所の男どもから贈り物やら付け届けを頼まれましたよ」

 何やら含み笑いで言うが、この男自身も同様にして、女達から相手にされなかった類ではないのか。それにしても、特定部署の女官への付け届けは、未だにありふれたものなのか。これまでも度々、禁止令が出ているのだが。


 翌日、近衛府を回って帰って来ると、司の前で件の使部が若い男と立ち話をしているのを見かける。男は私の姿に気づくと、丁寧に頭を下げる。そして使部に別れ際の挨拶をし、足早に帰って行った。

「今の男、陰陽寮の者だな。以前に皇后宮で見かけた事がある」興味本位を装って聞く。

「姉様が皇后様に仕えておいでだそうで」

 やはり、粟田広上の弟だ。皇后宮でよりも、陰陽寮で何度か顔を見ている。

「皇后宮で何かあった訳ではあるまいな」

「いいえ、個人的な用事らしいですよ。こちらの仕事とは、全く関係がなさそうです」どうでも良さそうな口調で答える。

「そうか、それならば良い。内裏の女たちは、何かあるとすぐに、こちらに仕事を振って来る。甘い顔をしていると、付け上がって顎で人を使うようになる。少しは自分で動く事を覚えて欲しいものだ」

大進だいじょうにもですか。私などは四六時中、使われておりますよ。あの男も近い内に、内裏の姉様に頼まれた事を済まさねばならぬの何のと、やたらに零しておりましたよ。多分、姉様以外にもこき使われているのでしょうな」

 そして何やら卑下た様子で思い出し笑いをする。

 

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