第42話 宝亀三年二月 女官と訪問者
午後になっても
中務卿の
「ここ最近、いずれの
白桜の満開を迎え、日の当たる窓際は通る風も心地が良い。勧められた席に着き、無粋な状況報告を始める。
「一人は出入り禁止、今一人も、そう歓迎されていないのやも知れぬな。だが、いずれも人を遣わす事は可能だ」
小さな机を挟んで、深く椅子に腰かける
「
「そちらもありませぬが、記録に残らないような形で会うている可能性はあります」
「やも知れぬな。常日頃、面会に来る身内なら、周囲も顔を覚える。ただ話をするくらいならば、面倒な手続きなど省く。皇后宮職は特に、その辺りは甘そうだ」
「大浦は
この人もいつの間にか
「今のところは、兄の
「そうか。まあ、益麻呂と関わりのある者では、大浦も警戒するやもしれぬな」
大津大浦と紀益麻呂は、世辞にも仲が良いとは言えない。広上を下手に突けば、益麻呂から詰まらぬ報復を受けるかもしれない。いや、益女の知己を探していると知れた時点で、益麻呂は充分に怪しく思っているだろう。
「とは申せ、妹の知り合いを兄が全て知っている訳でもなし。大浦が何のために人探しをしているかも、益麻呂は知らぬのやも知れぬ」
「大浦と益女が先の
「確かに一年もあれば、何かを知るには充分であろうな。呪女は
「いいえ。知っていたならば、早々に女帝に報告したでしょう。そして、新たな皇嗣に兵部卿なり誰なりを推挙したと思います」
「それもそうだな。皇嗣問題ではないとなれば、やはり
「呪詛、ですか」いささか突飛な展開に首を捻る。
「あの女に、他に何の取り柄がある。口を開けば呪うの祟るのと。まともな心根の者とは思えぬ。一歩間違えれば狂人の類だ」
親王がその様に言われたのは、兵部卿の屋敷での捕り物の時くらいだろう。それ以前にも以後にも、その様に言われる程の何かがあったとも思えないのだが。
「では、大津大浦も我々と同じ事を探っているのでしょうか」気を取り直して聞く。
「そこまでは分からぬ。昔より同様な類は、度々起きている。
市井の男女の浅はかな嫉妬心が招く行為ならば、私でも多少は見聞きしている。同じように起こる事柄でも、場所が庶民の家と内裏では、扱いに雲泥の差が出て来る。
「
「この後、更に別の事件が起こると思われるのですか。それに大浦の探す者が関与するかもしれないと」
控えめにしたつもりの質問に、親王は怪訝な顔を向ける。
「分からぬ。私の言うのは、あくまでも可能性だ。呪女を巡って陰陽師らがうろついておるゆえ、思うたに過ぎぬ」口調は変わらないが、どこか取り繕う言葉にも聞こえる。
親王が私に下した命令は、皇后の周辺を探る事だった。皇后は陰陽頭から益女の名を聞いて嫌悪を覚えたと聞く。次には益麻呂が現れ、皇后と何やら話をする。
親王が呪詛の対象と思うのは皇后なのか。もしもそうならば、誰がどのような目的で皇后を狙うのか。
井上内親王は伊勢斎宮を退下した後、白壁王の妃になった。伴侶が即位して皇后になるまで、官界に関わった事はない。そのような人の耳にも、呪女の噂は入っていたのだろうか。呪女の名前に怯えるのは、何か心当たりがあるからか。
「陰陽師どもが何を考えているにせよ、再び内裏で事件などあってはならぬ。もしも何かの兆候があるのなら、未然に察知して防がねばならぬ」
誰かが皇后を狙う。そのために内侍司の女達と連絡を取る。大浦が探すのは、その女なのか。では、益麻呂の役目は何か。皇后が助けを求める相手なのか。いずれも憶測にすぎない。
「種継らにも言うているが、この後も気を抜かずに監視を続けて欲しい」
親王はやはり、新たな事件の可能性を疑う。
「心得ております」私は答えながらも、改めて親王の顔を見る。
藤原氏の多くは、皇后から露骨に敵対視されている。面白くは思うまい。そしてこの人も、皇后を疎ましく思う一人ではないのか。動じた様子も見せない、黒目勝ちの目元を眺めつつも、私は親王を少しばかり疑っているのに気付く。
昼間に噂をしたためとは思いたくないが、よりによって夢見が悪い。
「
けんか腰の私の問い掛けに、益女は薄ら笑いで返す。つくづく腹の立つ女だ。
「県犬養姉女やその他の女達に教えたのは、汝で間違いないのだな」
「さて、どうであったかな。問われれば教えもする。顔を出さぬ相手に教えた事もある。更には、問うてくるのが、本人とは限らぬ。いちいち誰がなどと、覚えてはおらぬわ」
「なるほど。憶えておらぬほど、多くに教えてやった訳か」
「一応、内親王らには求められたゆえな」
何やら、つくづく偉そうな物言いだ。他にも三言四言、他愛のない事を言い合ったが憶えていない。そして寝覚めは、すこぶる悪い。
「私が直接に安都氏に手渡さねばならぬのだな」
やや大仰に聞くと、
そして、使いに来た若い無位の男は、
「他の方々には内密に願いたいと、依頼者は申しております」
細面の痩せた男は、何度目かの頭を下げる。五位になって、周囲からやたらに低頭されるようになったが、未だに何とはなく気が引ける。
「要するに、御身の上司か主が、安都氏に内密の贈り物をしたいと、その様な状況なのだな」勘繰った振りで、適当な出任せを言う。
「は、はい」
若者は戸惑い気味に、またも頭を下げる。本心なのか誤魔化しなのかは分からない。
私がこの男を疑うのは、実に安易な理由からだ。内原直とは、天平宝字八年に良民と認められた紀寺の奴婢に与えられた
先ほど私が主と言ったのは、益麻呂のつもりなのだが、若者がそこまで理解しているとも思えない。そもそも、内原直の名を聞いて、堅石女と益麻呂を結び付けるのも安直だ。
「中を検めても構わぬか。私としても、未だ近衛府に席を置いている。内裏関係者への届け物を調べもせずに通す訳にも行かぬ」
男の右眉根にある目立つ黒子を眺めながら、何やら取って付けた様な言い分だと、この度も思う。
「はあ……」
少しばかり所在なさげにうなずく様子から伺うに、中身が何かは知らないようだ。私は構わずに紐を解き、布を開いて箱の被せ蓋を持ち上げる。甘い香りが漂う。見たところ何の変哲もない、干した果実やら揚げ菓子やらがぎっしりと詰められている。それでも贅沢な物には違いない。
「なるほど、女性への気の利いた贈り物という訳だな」
蓋を戻して包み直し、元のように紐をしっかりとかける。そして、すぐにでも安都氏に届けようと請け合って、内原直を返す。
内原直が全て奴婢上がりとは限らない。あの男にしても、紀益麻呂の部下と決まった訳ではない。つくづくを人を疑いの目で見るようになったものだ。いささか自己嫌悪したくなる。
中務宮に言われたから、私も呪詛の可能性を疑う。不破内親王の起こした騒ぎの時、内裏から出て来た
時間の開いた頃合いに内侍司に行き、堅石女を見つけて届け物を渡す。堅石女は周囲に人のいない事を確認し、躊躇する様子もなく包みを開く。
「隠す程の物ではないと御思いでしょう。でも、皆には黙っていて下さいな」小さく肩をすくめ、堅石女は笑って見せる。
「もらった物よりも、送ってくれた相手が重要なのだろう」私は物分かりの良い振りでうなずく。
顔立ちの良い、若い独り身の有能な女官に、懇ろな相手がいたところで不思議ではない。
司に戻ってると、珍しく居残っていた使部(雑用係)の者が問う。
「内裏から御戻りで」
「ああ。野暮用があったので、ついでに書類も置いて来た」
後者は私の仕事ではない。それこそ舎人や、この男辺りに任せる事だ。
「もしかして
少しばかり前歯の出た中年の使部は、上目使いでこちらを見る。
「俺もとは」
「やはり、内裏勤めの女人は、人気がありますからねえ。私なども何度も、他所の男どもから贈り物やら付け届けを頼まれましたよ」
何やら含み笑いで言うが、この男自身も同様にして、女達から相手にされなかった類ではないのか。それにしても、特定部署の女官への付け届けは、未だにありふれたものなのか。これまでも度々、禁止令が出ているのだが。
翌日、近衛府を回って帰って来ると、司の前で件の使部が若い男と立ち話をしているのを見かける。男は私の姿に気づくと、丁寧に頭を下げる。そして使部に別れ際の挨拶をし、足早に帰って行った。
「今の男、陰陽寮の者だな。以前に皇后宮で見かけた事がある」興味本位を装って聞く。
「姉様が皇后様に仕えておいでだそうで」
やはり、粟田広上の弟だ。皇后宮でよりも、陰陽寮で何度か顔を見ている。
「皇后宮で何かあった訳ではあるまいな」
「いいえ、個人的な用事らしいですよ。こちらの仕事とは、全く関係がなさそうです」どうでも良さそうな口調で答える。
「そうか、それならば良い。内裏の女たちは、何かあるとすぐに、こちらに仕事を振って来る。甘い顔をしていると、付け上がって顎で人を使うようになる。少しは自分で動く事を覚えて欲しいものだ」
「
そして何やら卑下た様子で思い出し笑いをする。
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