第41話 宝亀三年二月 後宮勤めの女たちの噂
一月の小雨期に雨が降らなかったため、春の畑作や
予てよりの懸案だっが、
ここで四位の位を持つのは皇后宮
そして、同様に疑問を覚える御仁から、呼びつけられて
備前の屋敷でも、このように手入れの行き届いた庭が当たり前だった。しかし、父に付いて行き来した都や任国の仮住まいには、おおよそ年を経た落ち着きはなかった。人も屋敷も、年を経れば馴染んでくる、つくづく良いものだと思う。
春の日差しは暖かいを通り越して、少し暑いとすら思える。通された
「
しかし、親王との会話は、屋敷のように泰然としたものではない。益麻呂出現の報告にほくそ笑む。この人は得物を前にした猛禽のようだと、船守や種継が言っていた。黒目勝ちの大きな目を見ていると、妙に納得する。
「はい。しかし、許可を得て入っているので、不正はしておりませぬ」
「落ちぶれても四位だ。赤い衣を着て行けば、衛士も舎人も敬意を払う」親王は鼻先で笑う。
この人がこのような笑い方をしても、然程、気に障る事はない。やはり人には、生まれ持った品格というものがあるのだろう。
「皇后が招いたのか」
「記録ではそうなっています」
「妹の
「さて、分かりかねます。しかし、益麻呂が皇后の元を訪れたのは、既に二度目です。更には、何人かの
この辺りは内部事情に詳しく口も軽い女孺から、世間話のついでに聞き出した。長年、室の噂話を聞いてきたお陰で、饒舌な女達から情報を引き出すのも苦ではない。
「その者の名前は分かるか」
「一人は
親王は視線を落とし、考え込むように何度か小さくうなずく。その肩の向こうでは、大きな青鷺が置物のように州浜にたたずむ。今日は何処に行っているのやら、背の黒い猫は全く姿を見せない。
「
「いいえ。その者も皇后付きの女孺ですか」大した疑問も思わないまま問い返す。
「ああ。だが今は
「今のところ、その名前は聞いておりませぬが、心しておきます」答えながらも、徐々に疑問が頭をもたげる。
使いで屋敷に来る程度の老女の、何が気になるのか。紀益麻呂とその者に、何か因果関係でもあるのか。結局は聞き損ねたままで、北一条第を後にした。
取り敢えず怪しいと思われるのは、粟田広上という女だ。顔は既に確かめている。気軽に構えて、暫くは様子を伺う事とする。
私とて曲がりなりにも従五位下に叙せられ、内裏に入る事は適う。しかし、四位であろうと三位であろうと、好き勝手に歩き回る事はまかりならない。ましてや皇后宮は、余程の用事がなければ、門を潜るのすら容易ではない。皇后宮舎人や
粟田広上はその後者に入る。食事や体調を気遣う役目が担当なので、健康状態を伺うために直接の会話が許される。
「同じような身分なのに、私は広上様とは違って、直答はできないのですよ」
このように軽い不満をこぼすのは、
内命婦に付いて殿上に上がり雑用もこなす。直接に言葉を交わすのは内命婦で、堅石女のような女孺は指示を受けて動けば良い。衣服の用意や収納、着替えの手伝いなどは黙っていても務まる。
「
「ええ、それは何度も」
年回りは二十代半ば、名前の通りに身持ちは堅いと評判だ。何度か話をして知れた経歴は、河内の出身で
「時に、先日も先の陰陽頭が来られていただろう」私はやや露骨に話を変える。
「先のと言われますと、大津大浦様ではのうて」少し警戒気味に聞き返す。
「紀益麻呂様だ。あの御方は個人的な話も、気軽に聞いて頂けると聞いている。誰か住まいを存じおらぬだろうか」
「
「俺ではない。
かなり強引な口からの出任せだ。こんな私的要件を寮の陰陽師に頼むなど、職権乱用も良いところだ。
「大津大浦様ではいけないのですか。あの方も気兼ねのない御方ですけれど」
堅石女は小首を傾げる。それ程、不審にも大袈裟にも捕らえていないようだ。
「いや、実は、大声では言えぬのだが、俺はあの男が苦手なのだよ。表向きは愛想良い振りで、時にはヘロヘロと媚びて来る。だが、腹の内では何を考えているのやら」
わざとらしく首をすくめて笑う。
「あら、私達の間でも、同じように言うていますわ。おまけに、若い子たちを見る目つきも嫌らしいと」言いつつも愛想笑いを浮かべる。
「皇后様から出入り禁止を言い渡された一端も、その辺りにあるのではないか。いずれにせよ、あのような者に借りを作りとうはない」
「紀益麻呂様も、何を考えているのか分からない御方だと言われていますけれど」
「まあ、陰陽師のような学問屋は、得てしてそう見えるのだろう。俺のような武官とは対照的だな。あの方は見るからに賢そうな堅物だ。そのような方に助言をもらう方が、素人には安心できるのではと、俺が勝手に思うているだけだよ。まあ、難しいならば別の者に当たるだけだが」
ますます、口からの出任せに無理が出て来た。
「そうですか。もしかしたら、広上様が御存知やも知れませぬ。機会があれば伺うてみますわ」
言いながらも、何やら思案気に首を傾げる。粟田広上に何か思うところでもあるのか。
「
「ええ、広上様自身は。でも、弟御が陰陽寮におられるので、益麻呂様も大浦様も御存じのはずですよ」
ああ、なるほど、そう繋がるのか。広上の元には弟がやって来て、紀益麻呂の伝言を伝える。そして内裏の様子も窺い知る。そして時には、益麻呂自身が弟の伝言でも伝える振りで、広上に接触もする。
「そうか。その弟御に相談して、誰かを紹介してもらうても良い訳だな」軽い調子で話を合わせて、何とか締めくくる。
同じ日の午後、
「
「再出仕で、皇后や皇太子の側近くにいるとは、あまりに奇妙な気がするのだが」
名前からしても、地方出身だろう。所帯を持って仕事から退いた者が、今更に内裏の中枢に出入りできるのも特異過ぎる。山部親王に名前を知られているとなると、ただの古株女官でもあるまい。もしかしたら、皇后にも直接に会って話をできる程の立場かも知れない。
「誰かの口利きか、大きな後ろ盾でもあるのだろうか。若い頃に
「もしかして、皇后の母方か」
「いいや。あまり関わりのない、傍流の家だと言うていた。本来は大袈裟に乳母を頼むほどの家筋でもない。だが、母親の乳の出が悪い故に、同じ頃に子供の生まれた足嶋から、もらい乳をした。そのような経緯らしいぞ」
「なるほどな」
これまでも名前の上がった県犬養氏の女たちの誰かかも知れない。
「御身、足嶋とじかに話をしたのか」私は更に問う。
「ああ。先日、中務宮が皇太子を訪ねて来た時に、案内がてらに宮の内まで供をした。その時に顔を合わせた故にな」
「中務宮は案外、皇太子の宮を訪ねておられるようだな。皇后宮には殆ど寄り付かないが」
私は少しばかり、取って付けたように笑って見せる。
「皇太子も中務宮には、割合に心を開かれておられるようだ。気負った様子ものう、普通に話をしている。まあ、親子ほども年の違う兄弟だ。いずれは岳父となられる身でもあるし」
老も何やら気付いたように、鼻先で笑う。相変わらず、どこか気に障る笑い方だ。
「まあ、そうだな。。それにしても中務宮は、裳咋足嶋の何を気にかけておられるのだろうな」我ながら、またも口調が白々しくなる。
「それはやはり、乳母をしていたのが県犬養氏の娘だからだろう」
「娘か……名前は分かるのか」
やはり、この男も多少の事は知っているようだ。そして相変わらず、宇佐の神託との関わりを疑っている。
「県犬養
相変わらず、鎌をかけるように言って笑う。嫌になる程、侮れない男だ。
「否定はせぬよ。しかし、足嶋が勇耳の乳母とは初めて聞いた」
「まあ、私のような地方出の
「なるほどな。それで、勇耳が皇家にどの様に関わるのか、それは分かったのか」
老は表情も変えず、何度か瞬きをする。この表情の乏しさが、かなりの食わせ者だ。
「十年近く前まで、皇后、
「勇耳が井上内親王の元を去った理由は」
「懐妊した故と聞く。しかし、勇耳の夫が誰なのか、当時の同僚ら、誰一人として知らぬと言う。一部では近衛大将だというが、それも大将が勇耳を探していたゆえの、勝手な憶測に過ぎぬ」
どうだと言いたげな目をして、老は一度言葉を切る。
「俺も一年前には、そのように思うていた」溜息を飲み込んで私は言う。
「勇耳の子の父親は
「何故、そう結論付ける」
「御身や私に皇后や皇太子の周辺を見張れと命じたのは、藤原中納言や右大弁だ。だが、身内から
「なるほど。勇耳の子が男子という事も知っているのか」
「無事に成長していれば、今年で十二歳、皇太子と同じ年だな」
「同い年の親王がいるにしても、皇后の御子と
「それ故に、皇后の御子としておきたい。生母の名前も存在も知れてはならぬ」
「そうか、そこまで知っているのか」
ようやく溜息と笑いが漏れる。
「我々どころか、参議らにすら知られては困る。しかし、御身はあの神託騒ぎの当事者だ。宇佐くんだりまで行く羽目になったのは、弓削氏らの詰まらぬ企てだろう。だが、神託は本当に受けたのであろう。皇后や勇耳や子供も関わるような」
「俺は大神の拝殿に三日籠り、何度も夢を見ていた。夢の御告げというヤツだ。それを御前で報告した。そして、その内容を否定されぬ、夢に出て来た当事者が」
「当事者……白壁天皇がか」
「そして、俺の姉もだ。姉と勇耳は、先の
「弓削浄人らも然りだな。しかし、今の様子を鑑みると、宇佐の大御神は、具体的に誰とは皇嗣の名を告げた訳ではなさそうだな」
「そう、いずれも人を喰らう龍だ」
「いずれも、か。つまり、二人以上の名が挙がったのだな」
「まあ、二人だ。分かっておるのだろう」
「成人した兄と幼い弟のどちらかを選べと」
「答えを出すのは、神意を欲した御方だ。しかし、答えの出ぬまま崩御され、今上の御方に預けられた」
「いずれも、人を喰らう龍か」
老は納得するように何度かうなずく。何を考えているのか、今一つ分からない男だ。本当に、生まれて来る家を間違えたとしか思えない。
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