第41話 宝亀三年二月 後宮勤めの女たちの噂

一月の小雨期に雨が降らなかったため、春の畑作やもみを撒く準備が滞っている。神祇官では降雨を願って、丹生にう川上神に黒馬を奉納した。このように季節が動く最中、官界でも人事が大幅に動き始める。

 予てよりの懸案だっが、内堅ないじゅ省と外衛府がいえふの廃止が実行され、所属していた人員が各衛府に振り分けられる。この人事で近衛府も引き続き多忙が続くが、私は相も変わらず皇后宮職ぐうしきで、緊張に欠ける職務をこなす。そんなある日の事、皇后おおきさきに面談する四位しいの赤い衣を見かける。

 ここで四位の位を持つのは皇后宮大夫だいぶすけの二人だが、いずれでもない。隣接する春宮坊の亮も四位だが、やはり違う。そして陰陽頭おんようのかみ大津大浦おおつのおおうらでもない。何故、この者の面会を皇后が許可するのか、私でなくとも疑問を覚える者は少なからずいる。

 そして、同様に疑問を覚える御仁から、呼びつけられて北一条第きたいちじょうだいに出頭する。


 平城ならへの遷都の頃より、左京北一条第の庭は瀟洒に維持されている。改装を繰り返す官衙かんがや、殺風景な我が家を見慣れた目には、洗練され落ち着いた色合いに映る。庭木の梅や椿は盛りを過ぎ、白桜が満開を迎えようとする。代々の主が自慢する、水の湧く池の畔では躑躅つつじが咲き始め、藤棚でも開花を待つ花房が幾つも下がる。

 備前の屋敷でも、このように手入れの行き届いた庭が当たり前だった。しかし、父に付いて行き来した都や任国の仮住まいには、おおよそ年を経た落ち着きはなかった。人も屋敷も、年を経れば馴染んでくる、つくづく良いものだと思う。

 春の日差しは暖かいを通り越して、少し暑いとすら思える。通された広廂ひろひさしで待つ主の中務宮なかつかさのみや山部親王やまべのみこは、屋敷にも庭にも違和感なく馴染んでいる。

紀益麻呂きのますまろが現れたそうだな、皇后宮に」

 しかし、親王との会話は、屋敷のように泰然としたものではない。益麻呂出現の報告にほくそ笑む。この人は得物を前にした猛禽のようだと、船守や種継が言っていた。黒目勝ちの大きな目を見ていると、妙に納得する。

「はい。しかし、許可を得て入っているので、不正はしておりませぬ」

「落ちぶれても四位だ。赤い衣を着て行けば、衛士も舎人も敬意を払う」親王は鼻先で笑う。

 この人がこのような笑い方をしても、然程、気に障る事はない。やはり人には、生まれ持った品格というものがあるのだろう。

「皇后が招いたのか」

「記録ではそうなっています」

「妹の益女ますめの名を出した大浦は、出入りを禁じられたというに、兄をわざわざ呼びつける。何のためだと思う」

「さて、分かりかねます。しかし、益麻呂が皇后の元を訪れたのは、既に二度目です。更には、何人かの女孺めのわらわ(下級の女官)とも懇意にしているとか。その者にも会うているようです」

 この辺りは内部事情に詳しく口も軽い女孺から、世間話のついでに聞き出した。長年、室の噂話を聞いてきたお陰で、饒舌な女達から情報を引き出すのも苦ではない。

「その者の名前は分かるか」

「一人は粟田広上あわたのひろかみと。他にも何人かいるようですが、名を聞いているのはその者だけです」

 親王は視線を落とし、考え込むように何度か小さくうなずく。その肩の向こうでは、大きな青鷺が置物のように州浜にたたずむ。今日は何処に行っているのやら、背の黒い猫は全く姿を見せない。

裳咋足嶋もくいのたるしまという名は聞いておらぬか」少し目を上げて親王は問う。

「いいえ。その者も皇后付きの女孺ですか」大した疑問も思わないまま問い返す。

「ああ。だが今は皇太子ひつぎのみこの元にいる。皇后の使いで、我が家にも何度か来た事がある。五十がらみの、あまり目立たないような者だが」

「今のところ、その名前は聞いておりませぬが、心しておきます」答えながらも、徐々に疑問が頭をもたげる。

 使いで屋敷に来る程度の老女の、何が気になるのか。紀益麻呂とその者に、何か因果関係でもあるのか。結局は聞き損ねたままで、北一条第を後にした。


 取り敢えず怪しいと思われるのは、粟田広上という女だ。顔は既に確かめている。気軽に構えて、暫くは様子を伺う事とする。

 私とて曲がりなりにも従五位下に叙せられ、内裏に入る事は適う。しかし、四位であろうと三位であろうと、好き勝手に歩き回る事はまかりならない。ましてや皇后宮は、余程の用事がなければ、門を潜るのすら容易ではない。皇后宮舎人や内侍司ないしのつかさの女孺ですら、門から先の行動は制限されている。皇后の住まいに上がれるのは、内命婦ないみょうぶ(五位以上の女官)と身の回りの世話をする女孺くらいだ。

 粟田広上はその後者に入る。食事や体調を気遣う役目が担当なので、健康状態を伺うために直接の会話が許される。


「同じような身分なのに、私は広上様とは違って、直答はできないのですよ」

 このように軽い不満をこぼすのは、安都堅石女あとのかたしめという女孺だ。皇后の衣服を始めとした、身の回りの品を管理している。そのために時々、皇后宮職にやって来る事がある。

 内命婦に付いて殿上に上がり雑用もこなす。直接に言葉を交わすのは内命婦で、堅石女のような女孺は指示を受けて動けば良い。衣服の用意や収納、着替えの手伝いなどは黙っていても務まる。

皇后おおきさき様は親切で奥ゆかしい御方だと聞いている。直答はできずとも、御声をかけて頂けるような機会はあるのだろう」

「ええ、それは何度も」も自慢げに言う。

 年回りは二十代半ば、名前の通りに身持ちは堅いと評判だ。何度か話をして知れた経歴は、河内の出身で氏女うじめ(畿内の氏族から内裏勤めに選ばれる子女)に選ばれて都に上った。女孺として後宮の縫司ぬいのつかさに入り、その後、内侍司に移り、今では皇后宮に上がれるまでに出世した。充分、自慢に値する。

「時に、先日も先の陰陽頭が来られていただろう」私はやや露骨に話を変える。

「先のと言われますと、大津大浦様ではのうて」少し警戒気味に聞き返す。

「紀益麻呂様だ。あの御方は個人的な話も、気軽に聞いて頂けると聞いている。誰か住まいを存じおらぬだろうか」

大進だいじょう様が、御相談されたいのですか」堅石女は更に怪訝そうな顔になる。

「俺ではない。しつが夢見が悪いの、日取りがどうの、方向が何なのと、やたらに気にしている。何があったのやら分からぬが、俺としても気になる。一層の事、専門家中の専門家に相談してみたらと、思い立っているのだが」

 かなり強引な口からの出任せだ。こんな私的要件を寮の陰陽師に頼むなど、職権乱用も良いところだ。

「大津大浦様ではいけないのですか。あの方も気兼ねのない御方ですけれど」

 堅石女は小首を傾げる。それ程、不審にも大袈裟にも捕らえていないようだ。

「いや、実は、大声では言えぬのだが、俺はあの男が苦手なのだよ。表向きは愛想良い振りで、時にはヘロヘロと媚びて来る。だが、腹の内では何を考えているのやら」

 わざとらしく首をすくめて笑う。

「あら、私達の間でも、同じように言うていますわ。おまけに、若い子たちを見る目つきも嫌らしいと」言いつつも愛想笑いを浮かべる。

「皇后様から出入り禁止を言い渡された一端も、その辺りにあるのではないか。いずれにせよ、あのような者に借りを作りとうはない」

「紀益麻呂様も、何を考えているのか分からない御方だと言われていますけれど」

「まあ、陰陽師のような学問屋は、得てしてそう見えるのだろう。俺のような武官とは対照的だな。あの方は見るからに賢そうな堅物だ。そのような方に助言をもらう方が、素人には安心できるのではと、俺が勝手に思うているだけだよ。まあ、難しいならば別の者に当たるだけだが」

 ますます、口からの出任せに無理が出て来た。

「そうですか。もしかしたら、広上様が御存知やも知れませぬ。機会があれば伺うてみますわ」

 言いながらも、何やら思案気に首を傾げる。粟田広上に何か思うところでもあるのか。

御身おみにしても広上様にしても、あまり内裏から出られぬのではないのか」

「ええ、広上様自身は。でも、弟御が陰陽寮におられるので、益麻呂様も大浦様も御存じのはずですよ」

 ああ、なるほど、そう繋がるのか。広上の元には弟がやって来て、紀益麻呂の伝言を伝える。そして内裏の様子も窺い知る。そして時には、益麻呂自身が弟の伝言でも伝える振りで、広上に接触もする。

「そうか。その弟御に相談して、誰かを紹介してもらうても良い訳だな」軽い調子で話を合わせて、何とか締めくくる。


 同じ日の午後、槻本老つきのもとのおゆが曹司にやって来る。五日ぶりくらいか。

裳咋臣足嶋もくいのおみたるしまという女は、確かに皇太子ひつぎのみこの元で仕えている。おまけに、従七位上に叙位されている。若い頃より内侍司に仕え、身を固めた後に仕事を退いた。少し前に連れ合いに先立たれ、子供も成人している。それ故に、また出仕しているそうだ。叙位も再出仕に伴って行われたらしい」

「再出仕で、皇后や皇太子の側近くにいるとは、あまりに奇妙な気がするのだが」

 名前からしても、地方出身だろう。所帯を持って仕事から退いた者が、今更に内裏の中枢に出入りできるのも特異過ぎる。山部親王に名前を知られているとなると、ただの古株女官でもあるまい。もしかしたら、皇后にも直接に会って話をできる程の立場かも知れない。

「誰かの口利きか、大きな後ろ盾でもあるのだろうか。若い頃に乳母めのとをした事もあるそうだ。それが県犬養あがたのいぬかいの家なのだと」

「もしかして、皇后の母方か」

「いいや。あまり関わりのない、傍流の家だと言うていた。本来は大袈裟に乳母を頼むほどの家筋でもない。だが、母親の乳の出が悪い故に、同じ頃に子供の生まれた足嶋から、もらい乳をした。そのような経緯らしいぞ」

「なるほどな」

 これまでも名前の上がった県犬養氏の女たちの誰かかも知れない。

「御身、足嶋とじかに話をしたのか」私は更に問う。

「ああ。先日、中務宮が皇太子を訪ねて来た時に、案内がてらに宮の内まで供をした。その時に顔を合わせた故にな」

「中務宮は案外、皇太子の宮を訪ねておられるようだな。皇后宮には殆ど寄り付かないが」

 私は少しばかり、取って付けたように笑って見せる。

「皇太子も中務宮には、割合に心を開かれておられるようだ。気負った様子ものう、普通に話をしている。まあ、親子ほども年の違う兄弟だ。いずれは岳父となられる身でもあるし」

 老も何やら気付いたように、鼻先で笑う。相変わらず、どこか気に障る笑い方だ。

「まあ、そうだな。。それにしても中務宮は、裳咋足嶋の何を気にかけておられるのだろうな」我ながら、またも口調が白々しくなる。

「それはやはり、乳母をしていたのが県犬養氏の娘だからだろう」

「娘か……名前は分かるのか」

 やはり、この男も多少の事は知っているようだ。そして相変わらず、宇佐の神託との関わりを疑っている。

「県犬養勇耳いさみだ。少し前に近衛大将や将監ら、藤原式家の面々が探していた女だな。御身も知っているのだろう、その女が天皇や皇后の秘密を握っている。それ故に、天皇が中務宮や藤氏の御偉方に、その女を探せと命じた。そして御身の身にも、良からぬ災いが降りかかった」

 相変わらず、鎌をかけるように言って笑う。嫌になる程、侮れない男だ。

「否定はせぬよ。しかし、足嶋が勇耳の乳母とは初めて聞いた」

「まあ、私のような地方出の地下じげ者(五位以下の役人)相手では、足嶋本人も周囲の女達も、口が軽うなる。権門の藤氏や紀氏の近衛将監らでは、守りを固めて口を閉ざすやもしれぬ」どことはなく自慢げに言う。

「なるほどな。それで、勇耳が皇家にどの様に関わるのか、それは分かったのか」

 老は表情も変えず、何度か瞬きをする。この表情の乏しさが、かなりの食わせ者だ。

「十年近く前まで、皇后、井上内親王いのえのひめみこに仕えていた。その後、入れ代わるように件の犬女、県犬養姉女あねめが内親王の元に上がった。二人は同じうじというだけで、然程に近い関係でも、親しい間柄でもない。むしろ、内親王の宮で初めて会ったらしい」

「勇耳が井上内親王の元を去った理由は」

「懐妊した故と聞く。しかし、勇耳の夫が誰なのか、当時の同僚ら、誰一人として知らぬと言う。一部では近衛大将だというが、それも大将が勇耳を探していたゆえの、勝手な憶測に過ぎぬ」

 どうだと言いたげな目をして、老は一度言葉を切る。

「俺も一年前には、そのように思うていた」溜息を飲み込んで私は言う。

「勇耳の子の父親は天皇すめらみこと白壁王しらかべのみこか」実にさりげなく言い切ってくれる。

「何故、そう結論付ける」

「御身や私に皇后や皇太子の周辺を見張れと命じたのは、藤原中納言や右大弁だ。だが、身内から夫人ぶにんや皇太子妃を出した訳でもない二方が、何故なにゆえ、内裏の動きをそうも気にする。更には中務宮までが必要以上に動き回る。そして一人の老女を気にするか。最初、勇耳の子の父親は中務宮かと思うた。しかし、子のおられる事を秘密にする理由が分からぬ。御息女が一人しかおられぬと、周囲から気を揉まれているというに。そこに御子息の存在が知れたとて、何の不都合もあるまい」

「なるほど。勇耳の子が男子という事も知っているのか」

「無事に成長していれば、今年で十二歳、皇太子と同じ年だな」

「同い年の親王がいるにしても、皇后の御子とひんにもなっておらぬ女人の子供では、立場は大違いだろうに」我ながら、悪あがきのように言い返す。

「それ故に、皇后の御子としておきたい。生母の名前も存在も知れてはならぬ」

「そうか、そこまで知っているのか」

 ようやく溜息と笑いが漏れる。

「我々どころか、参議らにすら知られては困る。しかし、御身はあの神託騒ぎの当事者だ。宇佐くんだりまで行く羽目になったのは、弓削氏らの詰まらぬ企てだろう。だが、神託は本当に受けたのであろう。皇后や勇耳や子供も関わるような」

「俺は大神の拝殿に三日籠り、何度も夢を見ていた。夢の御告げというヤツだ。それを御前で報告した。そして、その内容を否定されぬ、夢に出て来た当事者が」

「当事者……白壁天皇がか」

「そして、俺の姉もだ。姉と勇耳は、先の女帝みかどに従い、共に出家をした。姉は勇耳の事も子供の事も承知している。女帝が嘘つきだと憤慨していた相手の一人は、俺の姉の広虫ひろむし。更には勇耳本人、そして異母姉あねの井上内親王だろう」

「弓削浄人らも然りだな。しかし、今の様子を鑑みると、宇佐の大御神は、具体的に誰とは皇嗣の名を告げた訳ではなさそうだな」

「そう、いずれも人を喰らう龍だ」

「いずれも、か。つまり、二人以上の名が挙がったのだな」

「まあ、二人だ。分かっておるのだろう」

「成人した兄と幼い弟のどちらかを選べと」

「答えを出すのは、神意を欲した御方だ。しかし、答えの出ぬまま崩御され、今上の御方に預けられた」

「いずれも、人を喰らう龍か」

 老は納得するように何度かうなずく。何を考えているのか、今一つ分からない男だ。本当に、生まれて来る家を間違えたとしか思えない。

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