第40話 宝亀三年二月 皇后宮職にて 陰陽頭の噂
あくまでも個人的に伺いたい事があるので、大袈裟にしてくれるな。皇后はそのように言われておられる。
「皇后が陰陽頭を召して、何を相談するのだろうな」
私は老婆心の振りで、先程、陰陽寮から戻って来た古株の
「さて、御偉方の事は分かりませぬな。まあ、陰陽頭が呼ばれるのは、昨日今日に始まった事ではありませぬが」
顔を上げて舎人は言う。その間も、机上の書類を日付順に整理し直す手を休めていない。戻って来てからも、休憩もせずに淡々と仕事を進める。この男は、他者の仕事も引き受けてしまう類かもしれない。
「あれは頼りになる
「陰陽師としては有能だと聞いていますよ。適材適所というところでしょう」
そして、揃えた書類を私に差し出し、早めに決済に回して下さいと、さりげない命令口調で言う。確かこの男は私より五つ六つ年上だ。
あの男のように真面目に仕事をこなす者が、もう少し多ければ、書類が滞る事も少しは解消されるだろう。今日も定刻を過ぎて、人気のなくなった
更に決済の必要な書類は上に送り、上から戻って来た書類は命令系統へと下ろす。こうして私の机の上は一通り片付いた。
そして一息ついているところに、今日も
「陰陽頭が皇后から、出入りを禁じられたというのは本当か」挨拶もそこそこに聞いて来る。
「ああ。三度か四度、拝謁の後、唐突に禁止命令が出た」
「また、何故」
聞きながらも、その辺りの椅子を勝手に私の机の向かいに引きずって来て座る。
「皇后の元を退出した後、勝手にあちこちと歩き回って、誰ぞの行方を捜していたようだ」
「それが
背もたれに身を預けて腕を組むと、こちらの出方を窺うように目を向ける。
「何だ、
「春宮でも、何人かの
「まったく、何を今更にその名前が出て来るのやら。皇后が
夢に現れなくなったと思えば、噂話に出没する。かなりしつこい女だ。
「皇后が益女とやらに、何ぞ思う所があるのか」
「さて、どうであろうな。だが、大浦と益女は協力者だったはずだ。七年前の謀反の時、共に
個人的な恨みはないが、この面子の名前を口にするのも耳にするのも、何やら腹が立って来る。
「大浦としては益麻呂を恨んでおろうな」
「益麻呂にしても、政権が替わった途端、陰陽頭を降ろされた。替わりに頭になったのは大浦だ。直接に恨み辛みはないにしても、いつの間にか敵同士になった訳だ」
口に出してみると、私自身の敵にもなっているような気になって来る。だからと言って大浦が同志である訳もない。
「大浦が益女とやらの旧知を探すのは、益麻呂への恨みが関係するのだろうか」老は問いかける。
「それは分からぬな。そもそも春宮や皇后宮に、そのような者がおるのか。先の
「御身の姉上のように、内侍として返り咲いておられる御仁もおられようが」
「姉にしても
「そうだな。御身は、益女の死んだ事件の時に尋問に当たったのだろう。何か心当たりになるような事は聞いておらぬのか」
どこでそのような情報を仕入れて来たのか。相変わらず油断ならない男だ。
「心当たりか……実を言えば、益女の語った内容にも
我ながら潔いとは言い難い物言いだ。
「既に七年も経って、政権も替わっているのにか。つまり、これも皇嗣問題や何かが関わっているか。
「それは御身の憶測か。それとも、南家の中納言にでも聞かされた事なのか」
「どちらだと思う」
老は口の端で笑う。何やら誰かを思い出させる笑い方だ。
「何れにしても、和気王が皇位転覆を思うていたのは事実だ。
「では、今の天皇の即位は、女帝の違勅によるものとされるが、それは間違いないのか」
「済まぬが、それが決まった時、俺は都にいなかった。だが俺に言えるのは、一部が裏で噂する、女帝崩御の後に藤氏が都合よう謀った云々は、穿ち過ぎの憶測に過ぎぬ」
「そうか、済まなんだ。これは私の独り言だと思うて聞いてくれ。和気王や
「誰もが言うている事だ。御身の独り言として聞き流す程の事でもない」
「まあ、聞け。その頃の女帝には、皇嗣にと思い始めている王がいたのだろう。まだ幼児に過ぎぬ王ではない。既に成人して、官界を泳ぎ渡る様が見える様な」
「俺も聞いた事があるな、そのような噂を」
「ならば話は早い。これも私の独言だと思うて聞いてくれ。御身の賜った神託や紀益女の自供が、女帝の思いを更に強うしたのだろう。新たに見つけた逸材、
この男は私と同じ地方出身の武官だが、中身は都人どころか公卿並みではないかと思える。親王や藤原氏の目に留まるのも分かるような気がする。
「ああ、分かった。俺が頑なに口を閉ざしているのでは、御身も
「言うておくが、私は御身と仲間割れをしたい訳ではないぞ」
「俺とて同じだ。互いに腹の探り合いをしていても疲れる。信頼関係など築けぬ。御身の言う通り、宇佐八幡神もあの
「そうか。では私も、御身の寝言でも聞くふりでいようか」
「そうだな。俺は今、うたた寝をしている。面白うもない夢を見ている。内容は、七年前の謀反騒ぎの尋問、呪女が立て板に水に語っていた」
あの時、尋問官らは大した質問もしていない。だが、紀益女は自らの目的を誇示するように語り始めた。私達は何か有益な情報はあるまいかと、勝手にしゃべらせておいた。
「呪女の言い分を大まかに言うと、自らが相応しいと判断して兵部卿、和気王を選んだ。しかし、ある御方に会うて、それが間違いだと気付いた」
「それを和気王は知っていたのか」
寝言だと言っているのに、老は質問を差し挟んで来る。
「兵部卿は知らなかったようだ。移り気な尻軽女が、見目と育ちの良い
「呪女、益女の会うた御方とは
「あの頃は近衛少将だったが」
「女帝には、それを報告で上げたのか」
「近衛府の正式な報告では、益女の戯言として、その部分は削られている。削除を命じたのは左大臣だ。だが、北家左大臣は女帝からの信頼が篤かった。口頭では告げている可能性がある」
「女帝があの方を日嗣にしたい素振りを見せ始めたのは、その女の言葉を聞いたからか。そしてそこに、御身の賜った神託が重なった」
断定的に言ってくれるが、私はまだ神託の内容は語っていない。
「あの騒ぎの後、浄御原帝の血筋にこだわらなくなった、つまりは
「やはり、河内行幸の時からか、私程度の者にも知られるようになったのは。南家中納言の物言いでは、それ以前からそれらしい考えは持っておられたようだが」
南家中納言こと藤原
「河内行幸というと、
「そうだ。あれは確かに特異だった。
この男も河内行幸に加わっていたようだ。神護景雲四年二月から四月にかけて、女帝は河内の各地を廻り、おおよそ一月半、
「右大弁に琴を弾け、中納言に
「ああ、皆、往生したそうだな。種継が喜び勇んで教えてくれたよ」
種継の話では、山部親王は最後まで舞人の役を嫌がっていたという。
「舞を見ながら女帝は、このような息子が欲しかったと、法王に語っておられたそうだ」老は妙にしみじみと言う。
「息子か。以前に
「私も聞いた事がある。弟の
この昔話を知る者は、上位者にも少ないと聞く。老にしても私にしても、知ったのは最近の事だ。皇嗣を巡る問題に首を突っ込まねば、一生知る事もなかっただろう。
「それにしても、私たちは何でまた、このような事を任される羽目になったのだろう。御身も私も地方の出だ。衛士として都に出て来ねば、皇家に関わるなど思いもよらなんだ」老は感慨深げな口調で言う。
この男も私と同じような事を思っていたようだ。何となく安心する。
「皇家に関わるというは、それ相応に恐ろしいものなのやも知れぬ」
「まったくだ。我々程度の家督争いでも、同様な話はいくらでもある。それが皇家ともなれば、巻き添えを喰らうのは同族だけでは済まされぬ」
「皇家の争いとは、まさに人喰いの龍の争いだ」
久々に思い出した言葉が口をつく。
「人喰いの龍か」いささか感心したように、老も口にする。
「呪女が俺に言うた言葉だ。俺はこの先、人喰いの龍の争いに巻き込まれる。相手を間違えば喰い殺される。しかし、違わずに忠誠を誓えば、この上ない後ろ盾になろうとな」
宇佐八幡神も皇嗣を人喰いの龍と言った。今更思うに、呪女を夢に立たせるのも八幡神の思し召しとやらなのか。
「もしかして、陰陽頭が探しているのは御身か」
「つまり、俺があの女の知己だと言いたいのか」
「ああ」
「冗談にも程がある。あれが紀寺の奴婢だった時も、女帝に仕えた後も面識はない。初めて会うたのは、兵部卿の屋敷に踏み込んだ時だ。その後は尋問官として。その後は、無いな」語尾の歯切れが心なしか悪くなる。
「そうか、済まなんだ。あの時、あの女を捕らえたのは、近衛少将だった中務宮だったな」
「俺が中務宮と知り合ったのも、あの事件が切っ掛けだった。あの時に俺は右兵衛の
「御身はいつ、呪女とやらに龍の争いの何のと言われたのだ」
「取り調べが終わって引っ立てられる前に、何を思うたのか、俺に向いて突然に言うた。だが、周囲にいた者は、何も聞いていないと言う。俺には間違いのう、呪女の声が聞こえた」
「白日夢のような話だな」
「まったくだ」
さすがに、その後も何度か夢に現れて、同じ事を繰り返して言ったなどとは、教えてやる義理もない。
「そして予言通り、皇家の問題に深入りしている訳か」
「深入りか、まあ、否定はせぬ。深入りの割には緊張感も何もない状況だが」
「それでも、動き出す時には一気に動き出す。得てしてそういうものだろう」
「そうやも知れぬな」
私はつい、溜息をもらす。そしてこれより間もなく、槻本老の予感は的中する事になる。
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