第39話 宝亀三年正月 槻本老と共に

 皇后宮職ぐうしきの役人たちは、本当に帰るのが早い。午後になると宿直とのい舎人とねりを残して、殆どの者が帰宅している。誰もが有能で、時間内で仕事をきっちりと終わらせる。そのような事は決してない。仕事が残っていようが、時間が来れば終わりにする。それが以前よりの慣習のようだ。

 衛府での管理職が長かったおかげで、私には切れの悪いままで仕事を放って帰るのが、どこか気持ちが悪い。その損な性格のお陰で、今も一人、曹司ぞうしで残業をしている。そしてそれを見計らったように訪ねて来た者がいる。

「ここも春宮坊とうぐうぼうに負けじと、誰も彼もが逃げ足だけは速いようだな」

 会うのは二度目だというのに、旧知のように気軽な口調で槻本老つきのもとのおゆは言う。私よりも五つ六つ年上に見えるこの男は、春宮坊では主蔵正くらのかみ(備品管理の責任者)を務めている。

「時間が来たならば、さっさと帰る。残った仕事があっても、誰かが片付けるだろう。誰も彼もがそのような姿勢でおる。結局のところ、切羽詰まれば貧乏くじを引いた者が泣きを見る。まあ、泣きを見させているのは、俺達のような上官なのだがね」私も同様の口調で答える。

「それでも間に合わねば、こちらの管理不行き届きと判断され、更に上の者から御咎おとがめを受ける。いずれにせよ、損な役割だな」老は笑う。

「まったくだ。本来の職務でも忙しいというに、御偉方らは更に難題を吹っかけて来る。おまけに胡散臭い中年男の周囲も探れと来た。まったく、身一つでは足りぬは」私はおもむろに周囲に目を配りながら、愚痴の延長のように答える。

陰陽頭おんようのかみの事か」老は更に笑う。

 此の男は春宮大夫だいぶの藤原蔵下麻呂くらじまろに見込まれ、皇太子ひつぎのみこの周辺でおかしな動きがないかを見張っている。種継たねつぐが勝手に私を巻き込んで、皇后おおきさきを取り巻く者らの様子を探らせているのと、同じような立場だ。

 春宮大夫と種継は、中納言の藤原縄麻呂ただまろと右大弁の藤原百川から顎で使われている。そして、誰よりも多忙な二人の高官に平然と命令をするのは、今や泣く子も黙る中務卿の山部親王という構図だ。

「今のところ、あの事件の時に名前の上がった女達と直接の関係はなさそうだ。まあ、俺の探れる範囲では表面的な関係に過ぎぬ故、もっと微妙な線で繋がりがあるのやも知れぬが」

 今は三年前に起きた呪詛ずそ事件を再び見直せと命じられている。その過程で陰陽頭大津大浦おおつのおおうらの名前が出て来た。この胡散臭い陰陽頭は、ここ最近、皇后と皇太子の機嫌伺として、内裏を何度も訪れているらしい。

「更に探りを入れるにせよ、あの日和見に下手な情報を与える訳にも行くまい。どこに寝返って、誰に要らぬ情報を提供するとも限らぬ」老は鼻先であしらうように答える。やはり陰陽頭の事は好いていないと見える。

「陰陽頭の出没に、皇后宮大夫がやけに神経質になっているようだ。しかし、噂だけは聞くが俺は姿を見ておらぬ」私は何とはなしに苛つく。

「私も今のところは見ておらぬ。むしろ頻繁に皇太子の元を訪れるのは中務宮なかつかさのみやだろう。いずれ岳父となる身に加え、春宮大夫とも仲が良い。特に不自然な行為でもあるまい」

「まあ、そうだな。皇后宮大夫が落ち着かぬのは、中務宮に対してやも知れぬな」

「仲が悪いのか」

「悪い訳でもなかろうが、元々、派閥が違う。大夫は藤原北家ゆえ、皇后寄りだな」

「宮は式家の御仁らと仲が良いのだな。藤氏の内は、北家と式家の惣領争いか」

 老は何やら楽しそうな表情でうなずく。この男は、風体はあまり目立たないように見えるが、案外話し好きで人懐こいところがある。

「それが皇后と中務宮の守勢争いにもなる。それはそうと、宮が皇太子の見舞いに来ると言うたな。皇太子の気の塞ぎは相変わらずなのか」

「そのようだな。私達の立場では内裏の内は伺い知れぬが。周囲の者らは気晴らしに外出を薦めるが、皇后が強硬に禁じている。お陰で医師や内侍ないしらも気が滅入っているようだ」

 この辺りは春宮大夫から聞いた事だろう。もしかしたら、春宮付きの舎人や内侍と親しくなっているのかもしれない。

「それで中務宮が出向いて来たか。今のところ皇后に張り合えるのは、あの御方くらいなのだろうな」

「傍から聞いていると、何とも悠長に聞こえる。まったく内裏は特殊というか、稀有な場所だ。私もここへの配置換えが無ければ、今頃は東奔西走、寝る間も惜しんでいる頃だったろう」

「御身は左衛士府の出だったな」

「そこから兵部省に栄転で、大録だいさかんをしていた」

「兵部省か。それは間違いなく大事だっただろうな」

 配流者の名誉回復に加え、増え過ぎた司の統廃合も、目下の重要事項だ。まず廃止が決まったのは内堅省ないじゅしょう外衛府がいえふ、いずれも女帝時代に新設された。そこに附属する人員や装備、備品を他の衛府へ配分をする。来月中を目途としているため、作業は夜を昼に継いで進められている。

「兵部卿を始め御偉方は、泊まり込みが続く有り様だ」

「御身は兵部省、俺は近衛府。いずれに残っていても、仕事に追いまくられていただろう」

「衛府だけではない。罪を許されて都に戻る者も増えている。その掌握や復権も滞っている。民部省も式部省も京職きょうしきも、殆どの役所が仕事を山積みにしている。そこに加えて、渤海ぼっかい使が都に入るとなれば、治部省も頭を痛める」

「更には斎宮さいくうの卜定を控えて、神祇官も落ち着かないようだな。それらを思うと、本当に暢気極まるな、内裏は」

「いずれにせよ、緊縮財政は当面続く。廃止される司はこの先も出て来るだろう」

「そちらの事業はある程度の目途も付く。しかし、俺達が命じられている今の任務は、何を目的にしているのだ。御身は疑問に思う事はないか」

 つい、本音を吐いてみるが、老は表情も変えずにこちらを見ると、おもむろに視線を外す。

「疑問か。常日頃思うが、我々ごときの知るべき範疇ではない。宮様の御考えを詮索するもおこがましい。そう思う事にしている」

 どこまで本心で言っているのか。人当たりの良さそうな表情は見せるが、春宮大夫から認められた者だ。とんでもない曲者かも知れない。

「まったく、御偉方は裏で何を考えているのやら。中務宮にしても、皇后を牽制しているだけではなさそうだ」私はわざとらしい溜息をついて言う。

「御身も筑紫の宇佐へ行けと命じられた時は、神託をもらってこい云々だけでは済まぬと思うたのではないのか」

「ああ、確かに」

「五位の御身ならばまだしも、私のような地下じげ(六位以下の者)には、知ってはならぬ目的があるのやも知れぬな」

「目的か」

 天皇すめらみことの望みを知る者は少ない。それを知る藤原式家と南家の実力者らは、他家に抜きんでる事を狙い、加担する気構えを見せる。

 だが、渦中にいる山部親王やまべのみこその人は、どの様な結末を望んでいるのか。この御仁に限って、父親や臣下らの目論見に従うだけとは思えない。敷かれた道など、平然と踏み外して我が道を探る。

 我が道の行く先は何処なのか。親王自身にも漠然としか見えていないのか。それならば、我々に分からないのも当たり前か。

「何にせよ、中務宮山部親王という御方は、只者ではなさそうだ。当初は中堅の皇族として、周囲に持ち上げられているだけに見えていたが」

「俺も最初は、家柄や身分だけで高い地位にいる輩の一人に思うていたよ。だが先の御代から、内舎人うどねり、近衛府、侍従と常に天皇に近い位置におられる。相応に認められているからこその役職なのだな」

「いずれ皇太子が即位されたならば、外戚として権力を持つ。皇后派の公卿らからすれば、強大な政敵になる。藤氏の南家や式家が、姻戚やら交友関係以上に手を結びたがるのも、分からぬではないな」

「既に仲が良いの段階ではないのだろう。手を携える事で大きな利が生じる。ともに同じ事を目指す先に家の繁栄もある。まあ、上級者の考えそうな話だが」

「同じ事か。もしかして、それが御身の聞いた宇佐八幡神の託宣に通じているのか」さりげなく問う。

 神託についての問いかけは、これまでも何度も経験している。大抵の者は、あえて触れようとしない。しかし、何かの切っ掛けがあれば、出来心や好奇心の名の下に問いかける。

「それを口にする事は、勅命で禁じられている。まあ、分かってはおられようが、その辺りで噂に流れている坊主に皇位を云々は、どこぞの狂人の寝言だ」

「その寝言を本気にする者も滅多におるまい。いずれにせよ、皇家に関わる事、継承について何かを告げられたようだな」老はさりげなく言うと、私の反応を確かめるように横目で見る。

「否定も肯定もせぬ。答えぬ事が天皇の御意思に適うゆえに」

「藤氏の面々のような物言いをするな、御身は」少しばかり呆れ気味に笑う。

 やはりこの男は、頭の切れる食わせ者だ。さすがは南家中納言や春宮大夫の目に留まっただけはある。




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