第39話 宝亀三年正月 槻本老と共に
皇后
衛府での管理職が長かったおかげで、私には切れの悪いままで仕事を放って帰るのが、どこか気持ちが悪い。その損な性格のお陰で、今も一人、
「ここも
会うのは二度目だというのに、旧知のように気軽な口調で
「時間が来たならば、さっさと帰る。残った仕事があっても、誰かが片付けるだろう。誰も彼もがそのような姿勢でおる。結局のところ、切羽詰まれば貧乏くじを引いた者が泣きを見る。まあ、泣きを見させているのは、俺達のような上官なのだがね」私も同様の口調で答える。
「それでも間に合わねば、こちらの管理不行き届きと判断され、更に上の者から
「まったくだ。本来の職務でも忙しいというに、御偉方らは更に難題を吹っかけて来る。おまけに胡散臭い中年男の周囲も探れと来た。まったく、身一つでは足りぬは」私はおもむろに周囲に目を配りながら、愚痴の延長のように答える。
「
此の男は春宮
春宮大夫と種継は、中納言の藤原
「今のところ、あの事件の時に名前の上がった女達と直接の関係はなさそうだ。まあ、俺の探れる範囲では表面的な関係に過ぎぬ故、もっと微妙な線で繋がりがあるのやも知れぬが」
今は三年前に起きた
「更に探りを入れるにせよ、あの日和見に下手な情報を与える訳にも行くまい。どこに寝返って、誰に要らぬ情報を提供するとも限らぬ」老は鼻先であしらうように答える。やはり陰陽頭の事は好いていないと見える。
「陰陽頭の出没に、皇后宮大夫がやけに神経質になっているようだ。しかし、噂だけは聞くが俺は姿を見ておらぬ」私は何とはなしに苛つく。
「私も今のところは見ておらぬ。むしろ頻繁に皇太子の元を訪れるのは
「まあ、そうだな。皇后宮大夫が落ち着かぬのは、中務宮に対してやも知れぬな」
「仲が悪いのか」
「悪い訳でもなかろうが、元々、派閥が違う。大夫は藤原北家ゆえ、皇后寄りだな」
「宮は式家の御仁らと仲が良いのだな。藤氏の内は、北家と式家の惣領争いか」
老は何やら楽しそうな表情でうなずく。この男は、風体はあまり目立たないように見えるが、案外話し好きで人懐こいところがある。
「それが皇后と中務宮の守勢争いにもなる。それはそうと、宮が皇太子の見舞いに来ると言うたな。皇太子の気の塞ぎは相変わらずなのか」
「そのようだな。私達の立場では内裏の内は伺い知れぬが。周囲の者らは気晴らしに外出を薦めるが、皇后が強硬に禁じている。お陰で医師や
この辺りは春宮大夫から聞いた事だろう。もしかしたら、春宮付きの舎人や内侍と親しくなっているのかもしれない。
「それで中務宮が出向いて来たか。今のところ皇后に張り合えるのは、あの御方くらいなのだろうな」
「傍から聞いていると、何とも悠長に聞こえる。まったく内裏は特殊というか、稀有な場所だ。私もここへの配置換えが無ければ、今頃は東奔西走、寝る間も惜しんでいる頃だったろう」
「御身は左衛士府の出だったな」
「そこから兵部省に栄転で、
「兵部省か。それは間違いなく大事だっただろうな」
配流者の名誉回復に加え、増え過ぎた司の統廃合も、目下の重要事項だ。まず廃止が決まったのは
「兵部卿を始め御偉方は、泊まり込みが続く有り様だ」
「御身は兵部省、俺は近衛府。いずれに残っていても、仕事に追いまくられていただろう」
「衛府だけではない。罪を許されて都に戻る者も増えている。その掌握や復権も滞っている。民部省も式部省も
「更には
「いずれにせよ、緊縮財政は当面続く。廃止される司はこの先も出て来るだろう」
「そちらの事業はある程度の目途も付く。しかし、俺達が命じられている今の任務は、何を目的にしているのだ。御身は疑問に思う事はないか」
つい、本音を吐いてみるが、老は表情も変えずにこちらを見ると、おもむろに視線を外す。
「疑問か。常日頃思うが、我々ごときの知るべき範疇ではない。宮様の御考えを詮索するもおこがましい。そう思う事にしている」
どこまで本心で言っているのか。人当たりの良さそうな表情は見せるが、春宮大夫から認められた者だ。とんでもない曲者かも知れない。
「まったく、御偉方は裏で何を考えているのやら。中務宮にしても、皇后を牽制しているだけではなさそうだ」私はわざとらしい溜息をついて言う。
「御身も筑紫の宇佐へ行けと命じられた時は、神託をもらってこい云々だけでは済まぬと思うたのではないのか」
「ああ、確かに」
「五位の御身ならばまだしも、私のような
「目的か」
だが、渦中にいる
我が道の行く先は何処なのか。親王自身にも漠然としか見えていないのか。それならば、我々に分からないのも当たり前か。
「何にせよ、中務宮山部親王という御方は、只者ではなさそうだ。当初は中堅の皇族として、周囲に持ち上げられているだけに見えていたが」
「俺も最初は、家柄や身分だけで高い地位にいる輩の一人に思うていたよ。だが先の御代から、
「いずれ皇太子が即位されたならば、外戚として権力を持つ。皇后派の公卿らからすれば、強大な政敵になる。藤氏の南家や式家が、姻戚やら交友関係以上に手を結びたがるのも、分からぬではないな」
「既に仲が良いの段階ではないのだろう。手を携える事で大きな利が生じる。ともに同じ事を目指す先に家の繁栄もある。まあ、上級者の考えそうな話だが」
「同じ事か。もしかして、それが御身の聞いた宇佐八幡神の託宣に通じているのか」さりげなく問う。
神託についての問いかけは、これまでも何度も経験している。大抵の者は、あえて触れようとしない。しかし、何かの切っ掛けがあれば、出来心や好奇心の名の下に問いかける。
「それを口にする事は、勅命で禁じられている。まあ、分かってはおられようが、その辺りで噂に流れている坊主に皇位を云々は、どこぞの狂人の寝言だ」
「その寝言を本気にする者も滅多におるまい。いずれにせよ、皇家に関わる事、継承について何かを告げられたようだな」老はさりげなく言うと、私の反応を確かめるように横目で見る。
「否定も肯定もせぬ。答えぬ事が天皇の御意思に適うゆえに」
「藤氏の面々のような物言いをするな、御身は」少しばかり呆れ気味に笑う。
やはりこの男は、頭の切れる食わせ者だ。さすがは南家中納言や春宮大夫の目に留まっただけはある。
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