第38話 宝亀三年正月 女達と不愉快な成り行き
「そもそも、あの女が死んで何年だ。確か、
「六年、いや、年が明けたゆえに七年前だ、
「そして、あの
「俺達も取り調べには関わったが、詳細は憶えておらぬし、知らされていない事も多い。名誉回復された
「流罪前の姉女は、内侍司で女帝に直属だった。その前は
「県犬養勇耳というのは、誰だったかな」
種継は少しばかり困ったように、私に視線を送る。先程、避けようとした名前に、またもたどり着いてしまったようだ。
「ああ、俺達が最初に探せと命じられた女だ」
「なるほど、先程にも出た名前だったな。それで姉女の方は、それ以前には何処にいたのだ」素っ気なく船守は問う。
「
「案外、旧知の仲と言えそうだな」
「勇耳は、その姉女や乙女と旧知なのか。姉女とは同じ氏だが」私も問いに加わる。
「乙女とは分からぬ。姉女とは同じ一族というだけで、家は全く違うようだ。知り合ったのは、それこそ井上内親王の元で、仕事を引き継ぐ時ではないのかと思われる」種継は小さくうなずきながら律儀に答える。
それぞれの前に置かれた折敷の上には、白湯の入った瓶と空の坏が乗る。乾杯の真似事の後は、誰もそれを手にしようとはしない。
「その後、女帝に仕えるようになり、姉女と弟が県犬養
「女帝の元では、随分と羽振りが良かったらしいが、何がきっかけで直属にまでなったのだ。通常の
船守の疑問に、種継は私に視線を向ける。仕方なしに、任せると言うつもりでうなずき返す。
「
「妙基尼というと、あの騒ぎの後に御身らと共に名前の上がった」
船守の目が私に向く。
「その妙基の本名が、県犬養勇耳だ」私は答えると、目の前の
「そうなのか。多少とも、その女の足取りは知れているのだな」船守は感心したように言い、自分の前の
大して入っていなかったのか、瓶の中身を空けきると一息に飲み干す。
「勇耳と姉女は、井上内親王の元で会った後に親しくなった訳だな」
「親しいなどと言える仲かは疑問だが」何となく不機嫌そうに種継が呟く。
「では、推薦というのも疑わしいな」船守は短く笑う。
「脅迫同然に口利きをさせたとの噂も聞いている」
「つまり、何か弱みを握られていたのか」
「もしかして、子供の事か」私は思い切って問いかける。
「恐らくは」種継は語尾を濁す。
そして私は、持ったままの坏を思い出し、ようやく飲み干す。船守はそれを眺めつつも、何やら感づいたように何度か瞬きをする。
「御身らは、その勇耳という女と子供を探しているのだったな。つまり、妙基尼を探している。で、探せと命じたのは誰なのだ」
やはり、そこが問題となって来る。
「御身は誰だと思う」私は問い返す。
「
「俺は確かに
「それはまた……もしかして、子供の父親は」
「まあ、そういう事だ」
「確かに合点が行く、山部親王の子だの近衛大将の子だのと言うよりは。男子ならば親王宣下し、新たな親王家を起こす事も出来る。今の皇家には盤石さが必要だ。しかし、それだけではなさそうだな、今までの話では」
「そうだな」
「当時、
犬女とは、当然ながら県犬養姉女の事だ。
「子供を探せば分かる、そのように大殿は若翁に言われたそうだ」
同じ事を私も山部親王に言った。
「妙基尼は女帝の元にいたし、流罪にもなっているのだから、一緒にいた訳ではあるまい。行方は知れているのか」
「ああ、案外、近くに居た」
「都の内か」
「ああ」
「どこだ」
「どこだと思う」
「分からぬ」
「内裏だ」
案の定、船守は怪訝な顔をする。
本来の内裏は天皇と皇后、親王、内親王らが住まう。しかし、天皇が東宮院に新たな宮を造って、そちらに移った今は、皇后とまだ年若い
「皇太子と年が近いのだったな。側仕えの
「そういう訳ではない」
こうして船守も皇后と勇耳、
「しかし、あの犬女は何時どうして、その事を知ったのだろう。やはり井上皇后に仕え始めてなのか」私は誰に問いかける訳でもなく口にする。
「犬女がその事で勇耳を脅迫したかは、想像の域を出ない。だが、十分あり得る事だとは思う」
種継は白湯の瓶を手にし、軽く振って中身を確かめて再び置く。
「俺も呪詛騒ぎでは、犬女らの取り調べに当たった。内侍らの評判はかなり悪かったな。覗き見が趣味だと、口をそろえていたゆえ」船守が苦笑いを浮かべつつ言う。
どうやら県犬養姉女の呼び名は、我々の間では犬女で落ち着きそうだ。
勇耳と姉女は井上内親王の元で、初めて顔を合わせた。産み月が近づき、勇耳は側仕えを辞めた。その後に何かの切っ掛けで、姉女は勇耳の子供と井上内親王の関係を知る。更に後、阿倍女帝の側近の一人、妙基尼が勇耳である事に気づく。そして妙基尼に近づき、女帝の側近に推挙するようにと、子供の話を持ち出して相談をする。こうして姉女は女帝直属に仕える身となった。
あたらずといえども遠からず、と言ったところだろう。
「勇耳も女帝の出家に合わせて、髪を降ろした一人なのか」船守がどちらにともなく聞く。
「いいや、出家したのは子供を手放した後だと聞いている」私は答える。
「では、側近になったのは女帝の出家後だな。きっかけは、やはり誰かの推挙なのか」
「後宮の実力者の推挙ではないか。例えば、
「まあ、有り得るな。手放したとはいえ、子供の消息は気掛かりだったのだろう。何せ女帝はかなり以前より、他戸親王を日嗣にしようと考えておられた。女帝の側にいれば、いつかは皇太子としての我が子の姿を見る事も出来よう。姉にしても吉備内侍にしても、子供が欲しくても持てなかった。ゆえに子供を手放した勇耳には、同情があったのやも知れぬ」
井上内親王と女帝は御世辞にも、仲が良いとは言えなかった。参内する事も殆どなかったと聞く。たとえ節会などで参内したにしても、遠目に見る尼僧姿の内に、勇耳がいるのには気づかな、っただろう。案外、勇耳の出家も知らなかったのかもしれない。
だから姉も、勇耳の存在を隠すには女帝の傍らが安心だと判断した。
「県犬養勇耳は、御身の姉上が
「ああ。と言うても、俺は会うておらぬが」
「犬女の方はどうしている。姉女に戻って、皇后に張り付いてでもいるのか」
今度は種継に問いかける。
「都にはまだ、戻っていないようだ、弟共々」
「そうなると、呪詛の事を洗い直すにしても、何やら手詰まりの感も否めぬな」
「まあ、女帝の元で同僚だった女孺くらいは当たっているが。そこで出て来た名前が、
「
「共に八年の変で異例の出世をし、その後、女帝の
種継は口の端で小さく笑う。この男前が侮蔑的に笑う様は、何気に空恐ろしく見える。
「大浦といえば、かなり軽薄で女にだらしないと評判だが、もしかして、犬女ともそういう関係なのか」私は気を取り直して聞く。
「そこまでは知らぬが、有り得るであろうな」船守が肩をすくめて苦笑する。
大津大浦は八年の変で密告者として昇進し、左兵衛
この抜擢も本人の実力ではない。先任者の
「その軽薄陰陽頭を躍らせてみれば、犬女もつられて出て来はしまいか」私は特に深く考えもなく言う。
「躍らせるか。なるほど。さて、何で囃せば踊るものやら」種継は何やら思いついたか、楽しげな表情でうなずく。
この様な仕草もこの男がすると、絶対に裏がありそうで恐ろしげに見えるのは困ったものだ。
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