第38話 宝亀三年正月 女達と不愉快な成り行き

「そもそも、あの女が死んで何年だ。確か、天平神護てんぴょうじんごに改元された年だったから」少しばかり苛つきながら、私は指を折る振りをする。

「六年、いや、年が明けたゆえに七年前だ、和気王わけのみこの謀反発覚は」やや怪訝そうに船守が答える。

「そして、あの呪詛ずそ騒ぎから、既に三年になる訳か」種継は深刻な面持ちで腕を組む。

 呪女まじないめは死んでも呪詛を残したか。まったく忌々しい。

「俺達も取り調べには関わったが、詳細は憶えておらぬし、知らされていない事も多い。名誉回復された県犬養姉女あがたのいぬかいのあねめと、偽証罪に問われた丹治乙女たじひのおとめとやらは、何処に接点があるのだ」船守は、尚も冷静に聞く。

「流罪前の姉女は、内侍司で女帝に直属だった。その前は井上内親王いのえのひめみこ女孺めのわらわとして仕えていた。その頃を知る者に聞くと、県犬養勇耳いさみが身重になったので、入れ替わりで入ってきたようだ」

「県犬養勇耳というのは、誰だったかな」

 種継は少しばかり困ったように、私に視線を送る。先程、避けようとした名前に、またもたどり着いてしまったようだ。

「ああ、俺達が最初に探せと命じられた女だ」

「なるほど、先程にも出た名前だったな。それで姉女の方は、それ以前には何処にいたのだ」素っ気なく船守は問う。

県犬養夫人あがたのいぬかいのぶにん、つまりは井上内親王の御母堂付きの女孺で、丹治乙女も同じ部署にいたらしい」

「案外、旧知の仲と言えそうだな」

「勇耳は、その姉女や乙女と旧知なのか。姉女とは同じ氏だが」私も問いに加わる。

「乙女とは分からぬ。姉女とは同じ一族というだけで、家は全く違うようだ。知り合ったのは、それこそ井上内親王の元で、仕事を引き継ぐ時ではないのかと思われる」種継は小さくうなずきながら律儀に答える。

 それぞれの前に置かれた折敷の上には、白湯の入った瓶と空の坏が乗る。乾杯の真似事の後は、誰もそれを手にしようとはしない。

「その後、女帝に仕えるようになり、姉女と弟が県犬養大宿禰おおすくねの氏姓をもらったのは、御身らも知る通りだ」種継は続ける。

「女帝の元では、随分と羽振りが良かったらしいが、何がきっかけで直属にまでなったのだ。通常の司召つかさめしとも思えぬが」

 船守の疑問に、種継は私に視線を向ける。仕方なしに、任せると言うつもりでうなずき返す。

妙基尼みょうきにの推薦があったようだ」種継は開き直り気味に答える。

「妙基尼というと、あの騒ぎの後に御身らと共に名前の上がった」

 船守の目が私に向く。

「その妙基の本名が、県犬養勇耳だ」私は答えると、目の前のつきを取って冷めきった白湯さゆを注ぐ。

「そうなのか。多少とも、その女の足取りは知れているのだな」船守は感心したように言い、自分の前のへいに手を伸ばす。

 大して入っていなかったのか、瓶の中身を空けきると一息に飲み干す。

「勇耳と姉女は、井上内親王の元で会った後に親しくなった訳だな」

「親しいなどと言える仲かは疑問だが」何となく不機嫌そうに種継が呟く。

「では、推薦というのも疑わしいな」船守は短く笑う。

「脅迫同然に口利きをさせたとの噂も聞いている」

「つまり、何か弱みを握られていたのか」

「もしかして、子供の事か」私は思い切って問いかける。

「恐らくは」種継は語尾を濁す。

 そして私は、持ったままの坏を思い出し、ようやく飲み干す。船守はそれを眺めつつも、何やら感づいたように何度か瞬きをする。

「御身らは、その勇耳という女と子供を探しているのだったな。つまり、妙基尼を探している。で、探せと命じたのは誰なのだ」

 やはり、そこが問題となって来る。

「御身は誰だと思う」私は問い返す。

井上皇后いのえのおおきさきか……いや、皇后が御身らに命じるのも不自然か。では、山部親王やまべのみこか」

「俺は確かに若翁わかぎみに命じられた。そして若翁は縄麻呂ただまろと共に、大殿おおとのに命じられた」種継は、いよいよ開き直る。

「それはまた……もしかして、子供の父親は」

「まあ、そういう事だ」

「確かに合点が行く、山部親王の子だの近衛大将の子だのと言うよりは。男子ならば親王宣下し、新たな親王家を起こす事も出来る。今の皇家には盤石さが必要だ。しかし、それだけではなさそうだな、今までの話では」

「そうだな」

「当時、白壁天皇しらかべのすめらみことは中納言だったか。案外、散位の頃か。いずれにせよ、その御仁の子を儲けたからと、犬女いぬめが勇耳を脅迫する理由が分からぬ」

 犬女とは、当然ながら県犬養姉女の事だ。

「子供を探せば分かる、そのように大殿は若翁に言われたそうだ」

 同じ事を私も山部親王に言った。

「妙基尼は女帝の元にいたし、流罪にもなっているのだから、一緒にいた訳ではあるまい。行方は知れているのか」

「ああ、案外、近くに居た」

「都の内か」

「ああ」

「どこだ」

「どこだと思う」

「分からぬ」

「内裏だ」

 案の定、船守は怪訝な顔をする。

 本来の内裏は天皇と皇后、親王、内親王らが住まう。しかし、天皇が東宮院に新たな宮を造って、そちらに移った今は、皇后とまだ年若い皇太子ひつぎのみこが内裏の主となっている。

「皇太子と年が近いのだったな。側仕えのわらわの一人にでも」

「そういう訳ではない」

 こうして船守も皇后と勇耳、他戸おさべ皇太子との関係を知る事となる。


「しかし、あの犬女は何時どうして、その事を知ったのだろう。やはり井上皇后に仕え始めてなのか」私は誰に問いかける訳でもなく口にする。

「犬女がその事で勇耳を脅迫したかは、想像の域を出ない。だが、十分あり得る事だとは思う」

 種継は白湯の瓶を手にし、軽く振って中身を確かめて再び置く。

「俺も呪詛騒ぎでは、犬女らの取り調べに当たった。内侍らの評判はかなり悪かったな。覗き見が趣味だと、口をそろえていたゆえ」船守が苦笑いを浮かべつつ言う。

 どうやら県犬養姉女の呼び名は、我々の間では犬女で落ち着きそうだ。

 勇耳と姉女は井上内親王の元で、初めて顔を合わせた。産み月が近づき、勇耳は側仕えを辞めた。その後に何かの切っ掛けで、姉女は勇耳の子供と井上内親王の関係を知る。更に後、阿倍女帝の側近の一人、妙基尼が勇耳である事に気づく。そして妙基尼に近づき、女帝の側近に推挙するようにと、子供の話を持ち出して相談をする。こうして姉女は女帝直属に仕える身となった。

 あたらずといえども遠からず、と言ったところだろう。

「勇耳も女帝の出家に合わせて、髪を降ろした一人なのか」船守がどちらにともなく聞く。

「いいや、出家したのは子供を手放した後だと聞いている」私は答える。

「では、側近になったのは女帝の出家後だな。きっかけは、やはり誰かの推挙なのか」

「後宮の実力者の推挙ではないか。例えば、吉備内侍きびのないし、それから御身の姉上とか」答えながら種継は私に向く。

「まあ、有り得るな。手放したとはいえ、子供の消息は気掛かりだったのだろう。何せ女帝はかなり以前より、他戸親王を日嗣にしようと考えておられた。女帝の側にいれば、いつかは皇太子としての我が子の姿を見る事も出来よう。姉にしても吉備内侍にしても、子供が欲しくても持てなかった。ゆえに子供を手放した勇耳には、同情があったのやも知れぬ」

 井上内親王と女帝は御世辞にも、仲が良いとは言えなかった。参内する事も殆どなかったと聞く。たとえ節会などで参内したにしても、遠目に見る尼僧姿の内に、勇耳がいるのには気づかな、っただろう。案外、勇耳の出家も知らなかったのかもしれない。

 だから姉も、勇耳の存在を隠すには女帝の傍らが安心だと判断した。

「県犬養勇耳は、御身の姉上が葛城かづらきに匿うていると言ったな、先程」船守は尚も聞く。

「ああ。と言うても、俺は会うておらぬが」

「犬女の方はどうしている。姉女に戻って、皇后に張り付いてでもいるのか」

 今度は種継に問いかける。

「都にはまだ、戻っていないようだ、弟共々」

「そうなると、呪詛の事を洗い直すにしても、何やら手詰まりの感も否めぬな」

「まあ、女帝の元で同僚だった女孺くらいは当たっているが。そこで出て来た名前が、大津宿禰大浦おおつのすくねおおうらだ」

陰陽頭おんようのかみの大津大浦か」

「共に八年の変で異例の出世をし、その後、女帝の悋気りんきに触れて流された仲だ」

 種継は口の端で小さく笑う。この男前が侮蔑的に笑う様は、何気に空恐ろしく見える。

「大浦といえば、かなり軽薄で女にだらしないと評判だが、もしかして、犬女ともそういう関係なのか」私は気を取り直して聞く。

「そこまでは知らぬが、有り得るであろうな」船守が肩をすくめて苦笑する。

 大津大浦は八年の変で密告者として昇進し、左兵衛すけになった。だが、武官としてはほぼ不適任で評判は悪かった。その後、和気王わけのみこの騒ぎに連座して流罪になった。白壁天皇が即位し、早々に名誉回復されて入京を許された。宝亀二年の七月には陰陽頭に任命されている。

 この抜擢も本人の実力ではない。先任者の紀益麻呂きのますまろだったからだと噂される。紀氏を外戚に持つ天皇が、奴婢ぬひ上がりの益麻呂を嫌ったためだろう。

「その軽薄陰陽頭を躍らせてみれば、犬女もつられて出て来はしまいか」私は特に深く考えもなく言う。

「躍らせるか。なるほど。さて、何で囃せば踊るものやら」種継は何やら思いついたか、楽しげな表情でうなずく。

 この様な仕草もこの男がすると、絶対に裏がありそうで恐ろしげに見えるのは困ったものだ。

 

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