第37話 宝亀三(772)年正月 女達と不都合な事実

 正月の朝賀ちょうがには、昨年末に都入りをした渤海ぼっかい国の使節が招かれた。それに先立ち、使節の持参した国書の形式を巡って、上の方が揉めたらしいが、私の立場では知った事ではない。私のような中間管理職には、これから立て続く定例の叙位や節会せちえ行事の方に、遥かな気疲れが待っている。

 しかし、皇后宮職ぐうしきにおける節会との関わりは、近衛府に比べれば相当に楽だ。上に立つ中務省や宮内省に従って、控えめに立ち回っていれば良い。近衛のように、儀式の前面で働く必要もない。


 近衛府の中堅として先頭を走り回る、紀船守きのふなもり藤原種継ふじわらのたねつぐの身が何とか空いたのは、踏歌節会とうかのせちえ(1月16日に行われた)が終わった後だった。

 昼過ぎに種継と連れ立って屋敷を訪問すると、連日の儀式と酒宴に困憊した様子で、船守は出迎えてくれた。立場は種継も同様だが、他者への気遣いや責任の持ち方を考えると、船守の方が明らかに苦労性なのだろう。

御身おみらも酒は控えた方が良かろう」

 私達の顔を見るなり船守は言う。

「ああ。この後も公務の一環とは申せ、幾つの宴が待っているやら。先の女帝みかどの頃は酒は控え目だったのに、代が替われば酒浸りだ」種継が大袈裟な表情で答える。

「主上その人が、名だたる酒豪なのだからな」私はうなずきつつ言う。

「まったくだ。あの一家は、顔が青くなるほど飲んでも、平然としておられるのだから」

 種継の酒好きは、その一家との関わりで培われたものと見える。

 船守の自室に通され、白湯で乾杯の真似事をした後、縁や庭にいる家人らを追い払う。周囲に人気が無くなったのを見計らい、二人の愚痴が始まる。例年ならば三人で合戦のように言い合いをするのだが、今年は私だけ蚊帳の外だ。こうやって聞いていると、やはり近衛府の仕事は気苦労が多い。

「まあ、それでも、先代に比べれば節会も縮小気味で、こちらとしても有り難い。これまでに嵩んだ出費やら浪費の清算を、どこの部署でも義務付けられている故ではあるが」船守がしかつめらしく締めくくる。

大殿おおとの刀自とじ様も、華美は好まれぬしな。周りの者の浪費には、若翁わかぎみが目を光らせている。皇后おおきさき皇太子ひつぎのみこも案外、質素であられよう」種継は相変わらずの物言いで、白湯を啜る。

「皇太子は存ぜぬが、皇后は慎ましやかにされておられる。ところが、皇后宮の出費は他所よりも多い。どうしてか分かるか」

「要するに、若翁のような目付け役がいない訳か。おかげで、後宮の女どもが好き勝手をしているのだな」

 つきを置いた種継が軽く溜息をつく。普段より気軽そうに振舞うが、この男の眉間の皺は、以前より深くなっているように見える。皇家にかなり近い場所にいるためか、私などが与り知らぬ苦労や悩みも多いのだろう。

「いつの御代でも、聞く話だな。もっとも女帝の時は、内道場の坊主どもが勝手をしていた訳だが」

 船守はといえば、明らかに疲れた表情をしている。そういう意味でも、生真面目で裏表のない男の方が、何を考えているのか分かり易い。

「姉が言うていたのだが、皇后の外戚の連中が、殊にのさばっているそうだ。それに対して、皇后が遠慮をしているようにすら見受けられると」

県犬養氏あがたのいぬかいうじであろう。内裏のみならず、衛府でもかなり増上気味だ。そういえば、御身らが探していた女人も、県犬養氏だったな」船守が種継に聞く。

「ああ。このところの忙しさで、あまりかまけてはいられぬが、多少の情報は得ている。だが、行方は未だに知れぬ」種継は答えながらも、私の顔を少しばかり伺う。

 種継らが県犬養勇耳いさみという女を探している事は、衆目の知るところとなっている。しかし、天皇すめらみことの命令だと知る者は、ほんの一握りだ。ましてや、それが宇佐大神の託宣と深く関わるなど、知られる訳には行かない。

 種継の様子から伺うに、この件の真意を船守には教えていないようだ。

「その女性にょしょうよりも、今はまた別の女が話題になっておろう、やはり県犬養氏の」そして種継は、いささか露骨に話を変える。

「もしかして、犬部いぬべとやらに名を変えられた輩か」私も話を逸らすために聞き返す。

「女帝呪詛ずその共犯でしょっ引かれた連中に、そんな姉弟がいたな、確かに。あれは冤罪だとか何とかで、昨年に氏名を戻されたと思うたが」船守が曖昧にうなずく。

 二年前の呪詛騒ぎでは、容疑者逮捕や調書の作成など、近衛府も様々に関わった。主犯が女帝の異母妹、不破内親王ふわのひめみこや取り巻きらとなれば、下手な部署に任せる訳にもいかなかったからだ。

「その者らが冤罪と判断されているのは確かだ。何せ、他の連座者は、未だ罷免されておらぬ」種継が神妙な面持ちで言う。

「何という名前だったかな、その犬部の女は」

「県犬養姉女あねめだ」

 その名前は、呪詛以外でも聞いた覚えがある。室か姉の話にでも出て来たか。

何故なにゆえに冤罪だと分かったのか」船守は何やら解せぬ様子で問う。

「俺の知る範囲では、何とも釈然とせぬのだよ」やや勿体ぶった口調で種継は言う。「あの騒ぎの時、姉女と弟が呪詛に関わったと、密告してきた女がいた。確か丹治乙女たじひのおとめとかいうたか。その者が偽証をしていたと、この度に知れたの何のというのだが」

「その名前、憶えがあるな。昨年の秋だったか、位記(叙位の命令)を取り消す云々の処置で出て来た名前だ」船守はなおも首を捻る。

「偽証罪でしょっ引かれ、せっかく得た位も無くなった訳か。あの頃は、密告した者勝ちという有様だったからな」

 私もその女の名前は憶えがある。

「して、偽証だというのは、どうして分かったのだ。また誰かの告訴か何かか」更に問う。

「新たな証言者が現れたのだとは思う。しかし、詳細は俺も知らぬ」

 種継はため息混じりに小さく首を振る。

「何やら、外に出せぬ事情が絡んでいそうな雰囲気だな」

「姉女とやらを誣告ぶこくした背景に、何かまた、別の疑惑があるのだろう。だが、太政官が情報を抑え込んでいて、俺ごときでは真相が知れぬ」

 二年前の騒ぎでは種継や船守も、証言者の尋問に立ち会っていた。この冤罪騒ぎには、近衛府としても落ち着かない事が多い。

「丹治乙女というたか、その女の身柄はどうなっている。どこかで拘束しているのか」船守が聞く。

「既に死去しているらしい」種継の眉間の皺が深くなる。

「もしかして、口を塞がれたと」私はつぶやき、船守と顔を見合わせる。

「死亡の件は百川ももかわ叔父から聞いたのだが、経緯や理由は分からぬ。いずれにしても、容疑者死亡を伏せたうえで、この度の処置が行われているのは確かだ」

「姉女らの身内の恨みを買った、云々の話ではなさそうだな。その程度で太政官が情報を伏せはしまいから。乙女の口から何かが漏れるのを危惧し、殺害が命じられたのやも知れぬ」船守は言いながら、種継に視線を返す。

「それが太政官の判断なのだろう」

「それで、御身は何故に、県犬養姉女の事を気にしているのだ」

「気にしているというのか……まあ、他言無用の話になる訳だが」

 一旦言葉を切った種継は、私達を見比べるようにおもむろに顔を向ける。

「何だ、またややこしい事か」私はいささか身構える。

「二年前の呪詛事件を今一度、掘り下げろ。叔父御や縄麻呂ただまろが、そのように命じられた。命じたのは恐らく若翁、中務宮なかつかさのみやだ」

 つまり、山部親王が旧友で気心の知れた、式家の右大弁や南家の中納言に密かに命じた。

「県犬養勇耳の消息捜査の時と同様だな」

 少しばかり嫌な予感が走る。

「そういう訳で、俺も関わる羽目になった」種継は平然とした表情で言う。

 そしてこの男は、当然のように私達を巻き込む気でいる。

「先にもこの度にも、絡んで来るのは県犬養氏の女か。偶然なのか、皇后や不破内親王の母方として何かあるのか」

 船守は腕を組んで窓の外に目をやる。部屋の内は物騒な話に花が咲いているが、中庭では早咲きの梅の花が盛りだ。

 勇耳に関わっていたのは井上皇后、この度の姉女には不破内親王。同母の姉妹ではあるが、この二人の接点はあまり多くはなかろう。ちなみに勇耳と姉女の関係は分からない。

「今更に聞くが、呪詛その事は本当にあったのか」私は視線を戻して問う。

「呪具が出ているゆえ、有ったと見なされている」船守が答える。

「確か髑髏されこうべだったな、野晒しの。縄麻呂や叔父御らの話では、不破内親王もそれを用いた事、否定しておられなかったそうだ」種継が言う。

「南家中納言らは、あの時の尋問に関わっておられなかったと思うたが。尋問の内容も、厳重な緘口令が敷かれていただろうに」

 首謀者らの尋問を行ったのは太政官だった。近衛府はその他の容疑者の捕獲、関係者への捜査、証言や証拠品をまとめて記録する役割を担った。

 船守としては、藤氏が重要な情報を独占していると、疑っているのかもしれない。事実を伏せ、一部の者らの思惑で、操作した情報を市井に流す。今までもそのような事は度々あっただろう。近衛府に長く関わる有位者として、船守にも覚えのある事なのかもしれない。

「まあ確かに、縄麻呂や叔父御はじかに関わってはいない。女帝の覚えは目出度かろうが、藤氏の最上臈はあくまでも北家の左大臣だったゆえに。南家も式家も深入りは出来なんだ。あの時に不破内親王らへの尋問を行ったのは、左大臣と大殿だ」

 大殿とは大納言だった白壁王、今上の天皇で、左大臣は藤原北家の先代、永手ながての事だ。やはり宇佐大神の託宣騒ぎと同じ上位者が顔をそろえる。

「中務宮は、事件の真相を天皇らが伏せたと思われているのか」船守はつぶやく。

「いや、そうではなかろう。宮は天皇に焚きつけられたのではないのか。女帝や側近が隠した事を暴けと。天皇としては立場上、表沙汰にはできぬ事を探り出して見よと。そして、知ったうえで自ら判断して動けとでも」私は答えながらも首を振る。

「ああ、そうやも知れぬな。俺も可能性は否定せぬ。大殿としては、若翁に何かを期待しておられる、具体的には分からぬが」

「確かに、あの天皇ならばありそうな事だ」

「不破内親王らが謀った事以外に、何か表に出しては不都合な事があった。それ故に女帝は、太政官に隠ぺいを命じられた。そのような次第やも知れぬ」私は二人を交互に見ながら言う。

「野晒しの髑髏といえば、元兵部卿の騒ぎの時にも、証拠品で出ておったな」種継が問う。

「ああ、確かに。そいつを用いたのは、くだん呪女まじないめだ。その事があって、不破内親王の時にも、呪女の関わりが疑問視された。問うてみれば案の定、呪女と姉女が旧知の仲だと。髑髏を用いる呪詛の方法も、教わったに違いないと判断された」

 話している内に、何となく腹が立って来る。話の流れとはいえ、呪女を話題にするのが不愉快だ。

紀益女きのますめというたな、その呪女は」

 種継が不用意に言うと、船守が微かに嫌悪をの表情を見せる。罪に問われて殺害されたこの女はともかく、紀寺の奴婢が賜姓された事件は、紀氏として未だ納得が出来ていない。紀氏を外戚に持つ白壁天皇が、いずれは決着をつけてくれると期待はあるが、今はまだ動きすら見えない。

 口には出せないが、私は船守以上に複雑だ。思い出したように夢枕に勝手に立ち、分かるような分からない言葉を勝手に吐く。何でこんな女に付きまとわれるのか、いい迷惑だ。

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