第37話 宝亀三(772)年正月 女達と不都合な事実
正月の
しかし、皇后
近衛府の中堅として先頭を走り回る、
昼過ぎに種継と連れ立って屋敷を訪問すると、連日の儀式と酒宴に困憊した様子で、船守は出迎えてくれた。立場は種継も同様だが、他者への気遣いや責任の持ち方を考えると、船守の方が明らかに苦労性なのだろう。
「
私達の顔を見るなり船守は言う。
「ああ。この後も公務の一環とは申せ、幾つの宴が待っているやら。先の
「主上その人が、名だたる酒豪なのだからな」私はうなずきつつ言う。
「まったくだ。あの一家は、顔が青くなるほど飲んでも、平然としておられるのだから」
種継の酒好きは、その一家との関わりで培われたものと見える。
船守の自室に通され、白湯で乾杯の真似事をした後、縁や庭にいる家人らを追い払う。周囲に人気が無くなったのを見計らい、二人の愚痴が始まる。例年ならば三人で合戦のように言い合いをするのだが、今年は私だけ蚊帳の外だ。こうやって聞いていると、やはり近衛府の仕事は気苦労が多い。
「まあ、それでも、先代に比べれば節会も縮小気味で、こちらとしても有り難い。これまでに嵩んだ出費やら浪費の清算を、どこの部署でも義務付けられている故ではあるが」船守がしかつめらしく締めくくる。
「
「皇太子は存ぜぬが、皇后は慎ましやかにされておられる。ところが、皇后宮の出費は他所よりも多い。どうしてか分かるか」
「要するに、若翁のような目付け役がいない訳か。おかげで、後宮の女どもが好き勝手をしているのだな」
「いつの御代でも、聞く話だな。もっとも女帝の時は、内道場の坊主どもが勝手をしていた訳だが」
船守はといえば、明らかに疲れた表情をしている。そういう意味でも、生真面目で裏表のない男の方が、何を考えているのか分かり易い。
「姉が言うていたのだが、皇后の外戚の連中が、殊にのさばっているそうだ。それに対して、皇后が遠慮をしているようにすら見受けられると」
「
「ああ。このところの忙しさで、あまりかまけてはいられぬが、多少の情報は得ている。だが、行方は未だに知れぬ」種継は答えながらも、私の顔を少しばかり伺う。
種継らが県犬養
種継の様子から伺うに、この件の真意を船守には教えていないようだ。
「その
「もしかして、
「女帝
二年前の呪詛騒ぎでは、容疑者逮捕や調書の作成など、近衛府も様々に関わった。主犯が女帝の異母妹、
「その者らが冤罪と判断されているのは確かだ。何せ、他の連座者は、未だ罷免されておらぬ」種継が神妙な面持ちで言う。
「何という名前だったかな、その犬部の女は」
「県犬養
その名前は、呪詛以外でも聞いた覚えがある。室か姉の話にでも出て来たか。
「
「俺の知る範囲では、何とも釈然とせぬのだよ」やや勿体ぶった口調で種継は言う。「あの騒ぎの時、姉女と弟が呪詛に関わったと、密告してきた女がいた。確か
「その名前、憶えがあるな。昨年の秋だったか、位記(叙位の命令)を取り消す云々の処置で出て来た名前だ」船守はなおも首を捻る。
「偽証罪でしょっ引かれ、せっかく得た位も無くなった訳か。あの頃は、密告した者勝ちという有様だったからな」
私もその女の名前は憶えがある。
「して、偽証だというのは、どうして分かったのだ。また誰かの告訴か何かか」更に問う。
「新たな証言者が現れたのだとは思う。しかし、詳細は俺も知らぬ」
種継はため息混じりに小さく首を振る。
「何やら、外に出せぬ事情が絡んでいそうな雰囲気だな」
「姉女とやらを
二年前の騒ぎでは種継や船守も、証言者の尋問に立ち会っていた。この冤罪騒ぎには、近衛府としても落ち着かない事が多い。
「丹治乙女というたか、その女の身柄はどうなっている。どこかで拘束しているのか」船守が聞く。
「既に死去しているらしい」種継の眉間の皺が深くなる。
「もしかして、口を塞がれたと」私はつぶやき、船守と顔を見合わせる。
「死亡の件は
「姉女らの身内の恨みを買った、云々の話ではなさそうだな。その程度で太政官が情報を伏せはしまいから。乙女の口から何かが漏れるのを危惧し、殺害が命じられたのやも知れぬ」船守は言いながら、種継に視線を返す。
「それが太政官の判断なのだろう」
「それで、御身は何故に、県犬養姉女の事を気にしているのだ」
「気にしているというのか……まあ、他言無用の話になる訳だが」
一旦言葉を切った種継は、私達を見比べるようにおもむろに顔を向ける。
「何だ、またややこしい事か」私はいささか身構える。
「二年前の呪詛事件を今一度、掘り下げろ。叔父御や
つまり、山部親王が旧友で気心の知れた、式家の右大弁や南家の中納言に密かに命じた。
「県犬養勇耳の消息捜査の時と同様だな」
少しばかり嫌な予感が走る。
「そういう訳で、俺も関わる羽目になった」種継は平然とした表情で言う。
そしてこの男は、当然のように私達を巻き込む気でいる。
「先にもこの度にも、絡んで来るのは県犬養氏の女か。偶然なのか、皇后や不破内親王の母方として何かあるのか」
船守は腕を組んで窓の外に目をやる。部屋の内は物騒な話に花が咲いているが、中庭では早咲きの梅の花が盛りだ。
勇耳に関わっていたのは井上皇后、この度の姉女には不破内親王。同母の姉妹ではあるが、この二人の接点はあまり多くはなかろう。ちなみに勇耳と姉女の関係は分からない。
「今更に聞くが、呪詛その事は本当にあったのか」私は視線を戻して問う。
「呪具が出ているゆえ、有ったと見なされている」船守が答える。
「確か
「南家中納言らは、あの時の尋問に関わっておられなかったと思うたが。尋問の内容も、厳重な緘口令が敷かれていただろうに」
首謀者らの尋問を行ったのは太政官だった。近衛府はその他の容疑者の捕獲、関係者への捜査、証言や証拠品をまとめて記録する役割を担った。
船守としては、藤氏が重要な情報を独占していると、疑っているのかもしれない。事実を伏せ、一部の者らの思惑で、操作した情報を市井に流す。今までもそのような事は度々あっただろう。近衛府に長く関わる有位者として、船守にも覚えのある事なのかもしれない。
「まあ確かに、縄麻呂や叔父御は
大殿とは大納言だった白壁王、今上の天皇で、左大臣は藤原北家の先代、
「中務宮は、事件の真相を天皇らが伏せたと思われているのか」船守はつぶやく。
「いや、そうではなかろう。宮は天皇に焚きつけられたのではないのか。女帝や側近が隠した事を暴けと。天皇としては立場上、表沙汰にはできぬ事を探り出して見よと。そして、知ったうえで自ら判断して動けとでも」私は答えながらも首を振る。
「ああ、そうやも知れぬな。俺も可能性は否定せぬ。大殿としては、若翁に何かを期待しておられる、具体的には分からぬが」
「確かに、あの天皇ならばありそうな事だ」
「不破内親王らが謀った事以外に、何か表に出しては不都合な事があった。それ故に女帝は、太政官に隠ぺいを命じられた。そのような次第やも知れぬ」私は二人を交互に見ながら言う。
「野晒しの髑髏といえば、元兵部卿の騒ぎの時にも、証拠品で出ておったな」種継が問う。
「ああ、確かに。そいつを用いたのは、
話している内に、何となく腹が立って来る。話の流れとはいえ、呪女を話題にするのが不愉快だ。
「
種継が不用意に言うと、船守が微かに嫌悪をの表情を見せる。罪に問われて殺害されたこの女はともかく、紀寺の奴婢が賜姓された事件は、紀氏として未だ納得が出来ていない。紀氏を外戚に持つ白壁天皇が、いずれは決着をつけてくれると期待はあるが、今はまだ動きすら見えない。
口には出せないが、私は船守以上に複雑だ。思い出したように夢枕に勝手に立ち、分かるような分からない言葉を勝手に吐く。何でこんな女に付きまとわれるのか、いい迷惑だ。
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