第36話 宝亀二年師走 女達の立ち位置

 相も変わらず、腹の立つ女だ。それにも関わらず、奇妙な程に美しく見えるのが、更に癪に障る。何年かぶりで夢に現れた呪女まじないめが、私には今日も忌々しい。

「そうだ、私の代わりに御身おみが仕えれば良い」

 何故、このように偉そうなのか。満足そうに言って、会心の笑みを浮かべた顔を眺めながらも思う。

「お主は、あの方に仕えたかったのか」

「勿論だ。あの御方こそ選ばれるべき人だ。あのような男とは違う」

 あのようなと言われているのは、和気王わけのみこだろう。

「これはまた、酷い言い草だな。一度は、見込んで手を結んだのではないのか」

「だから、間違うたのだと言うておろう」

 何をむきになっているのか、変に人間臭い所がある。考えて見れば、これまでは薄気味悪いが先に立ち、人扱いして来なかった。いや、そもそもこの女は既に人ではない。

 現世での人付き合いに奔走しているのに、人でない輩に関わっていられる程、私は暇ではない。そんな心情が伝わったのか、呪女は眉間にしわを寄せて眉を少し吊り上げる様な表情を見せた。


 ろくでもない夢見で、朝から気が重い。家を出る時には、気が滅入って馬の鞍から落ちかけた。朝餉も満足に喉を通らず、湯漬けにしてかき込んだ。中宮院ちゅうぐういんに足が向かず、近衛府の方向に行きたくなった。実を言えば夢のせいだけではない。今日の予定に、皇后宮の訪問がある。

 山部親王やまべのみこから私の大進だいじょう就任を聞いた皇后が、掌侍ないしのじょう(内侍司の判官・ここでは和気広虫の事)の同母弟ならば目通りしたいと言っているらしい。官人時代から知っている白壁天皇すめらみことや山部親王には、ここまでの緊張はしない。しかし、先帝の内親王で元斎宮、そして現在の皇后おおきさきとなれば、私のような武官にはまず接点のない、まさに雲の上の人だ。

 皇后宮は中宮院の北側、本来の内裏に並んで置かれている。そして内裏は天皇の住いのはずだが、現状では春宮(皇太子の宮)となっている。それぞれの家政機関、皇后宮職ぐうしき春宮坊とうぐうぼうも内裏に隣接する。

 ここ最近、天皇は殆ど内裏にいない。和嬪やまとのひんの住まう東宮院にいる時の方が、遥かに長い。現在、東宮院では中心となる楊梅宮やまもものみやの改修の最中だが、これが済めば名実ともに、天皇の住まいとなる。


 内裏に向かうに先駆け、内侍司ないしのつかさに姉を訪ねる。何故なのか、今日はやたらに人の出入りが多い。

「年が明ければ叙位じょい司召つかさめしがありますからね。その対策に躍起になっているのですよ、きっと」姉は他人事のように言う。

 内侍の評価は中務なかつかさ省や縫司ぬいのつかさがたずさわる。良い印象でも持ってもらおうと、今更ながら顔見世に行ったり、今時に限って真面目で忙しい振りをする者が多いのだろう。

 それに加え、今日は能登内親王のとのひめみこが娘の五百井女王いおいのひめみこと共に来ているので、そちらを覗きに行く者も少なくない。何せ皇后と能登内親王は不仲だと、もっぱらの噂だ。何か不祥事とまでは行かなくても、珍しい状況でも目に出来まいかと、下心満載に目を配る者もいる事だろう。

 近衛府でも珍しくはない、舎人や女孺の振る舞いを眺めている内に、少しばかり気が軽くなった。女たちの宮なのだから、上級内侍の姉に任せておけば、困る事にはなるまい。そして臨席する能登内親王と五百井女王は、あの山部親王の同母姉と姪だ。そう思えば、全く知らない相手という訳でもない。


 皇后の出御の前に、少しばかりの悶着があったが、謁見自体は特に問題もなく終わった。通り一遍の労いの言葉を賜り、こちらとしては直答する事もなく、御前を退出する。印象に残った事といえば、思いの外、皇后の声が低めで小さかった事くらいだ。

 ようやく肩の荷が下り、宮職に戻る。部下たちには、内侍司に行くとは言ったが、その後の皇后謁見の予定までは教えていない。おかげで無用な詮索もなしに、その日の職務は終わった。

 しかし家に戻れば安穏な状況は一変し、しつが手薬煉を引いて待っていた。早めの夕餉を済ませ、子供たちや使用人がそれぞれの部屋に引き上げると、早速に今日の事を聞いて来る。

 皇后だけではなく、能登内親王と五百井女王にも会ったと言うと、更に目の色が変わる。

「いずれの内親王様も、御綺麗な方ばかりで驚いたでしょう」何やら自慢げに言う。

 能登内親王は背の君に先立たれた後は、二人の子供と共に、両親の住む北一条第で暮らしていた。父親の白壁王が即位した後は、母親の和嬪やまとのひんと共に東宮院で暮らす。和嬪に仕える室にしてみれば、能登内親王も五百井女王も、常々、姿を見かける存在だ。

「まあ、そうだな。顔立ちは能登内親王の方が整うておられたか。しかし、皇后には先帝の内親王として、元伊勢斎宮としての気品がある」私は馬鹿正直に答える。

「生まれながらの品性も、育ちや立場が育む品性もおありです。でも、皇后様の周囲にいる女達には、それが殆どない。内情を知る人達は、その者らの振る舞いや言葉を懸念しているのですよ」今度は憤慨気味に言う。

「ああ、それらしい事を姉も言うていたな。外戚に当たる県犬養あがたのいぬかいうじの者らが増えてから、規律違反など日常茶飯事になったとか」

「ええ。役職に就いた年長者が、血縁や婚姻で縁者になったような若い子らを、舎人とねり女孺めのわらわに推しているのですよ。中途半端な礼儀作法や教養のまま皇后や皇太子に仕え、血縁や姻戚関係を笠に着て言いたい事を言い、勝手な振る舞いをする。年長者も甘い態度で黙認している。これでは増長するばかりです」

「東宮院にも、県犬養氏の者が多いのか」

「いいえ、殆どおりませぬ。多いのは和史やまとのふひと氏ですわね、新笠にいかさ様の外戚の。県犬養がいたとしても、中務宮なかつかさのみや様が目を光らせておられます。新笠様も能登内親王様も、規律を乱すような者には黙っておられないでしょう」

 東宮院の主は、実質でも和史やまとのふひと新笠で間違いないようだ。

「なるほどな。今日も女孺を一人、追い出したからな、能登内親王様が」

「皇后宮でですか」

「ああ。謁見の部屋に俺と姉を案内して来た女孺の一人だが、姿を見るなり内親王様が出て行けと命じた。内輪ならば許されても、他所の官人の前に出るべき姿ではないと、監督に当たる命婦みょうぶも怒られていたよ。確かに、少し前に禁止された広い袖の衣を着ていたな。まあ、姉に言わせると、袍の裏地に身分不相応の生地を使っているの、化粧の仕方も違反だのと、いくつか挙げていたが」

「後宮では、殊更に珍しい事ではありませぬよ、その程度は」

「そうらしいな。ここ何日かは、中務省の査定を気にして大人しいらしいが、開き直っている者も多少はおるのだろうな」

 服装違反の若い者など、衛府でも珍しくはない。だが、衛府でそれをするのは、大概が地方から出て来た者だ。都育ちの者らは、そんな田舎者を冷めた目で見ている。そして、田舎者の先輩である私などは、昔を思い出して恥ずかしい思いをする。念のため弁解するが、私自身はそのような規律違反を問われた事はない。

「皇后様は人に命令をする事が、あまり得意ではないのでしょうね。それ故、付け上がる者が増えるのです。先の女帝程とは申しませぬが、せめて能登内親王様のように、はっきりとした物言いをして頂ければ、仕える者らの姿勢も変わって来ると思うのですが」

 皇后宮の主の存在は、実質を伴っていないようだ。

「そうだな。外戚の血筋に当たる女たちであっても、決して皇后の味方ではない。そのような声は、宮職内でも聞こえてくる。皇后が控えめなのを良い事に、命婦らが勝手な振る舞いをする。悪い行いは簡単に伝播する。後宮の命婦らも、影響を受け始めていると、姉も零していたよ」

「姉上様もご苦労をされているようですね」

 室は我が事のように溜息をつく。

「いや、先の女帝に比べたら楽なものらしいぞ。女帝の頃の外戚は藤氏で、周囲は坊主だらけだ。嫌味一つでも、命婦らとは格が違う。何よりも女帝本人が、周囲に言いたい事を言いまくり、命令と独断三昧だった。今更、皇后付きの命婦が騒いだところで、無視して置けば良い。そういう事だそうだ」

 寡婦となり、出家もして、左遷もされ、還俗もした。今や、後宮勤めが板に付き過ぎる姉には怖いものなどあるのだろうか。身内から見てもかなり図太くなった。






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