第35話 宝亀二年師走 左京北一条第
近衛将監を兼任のまま、皇后宮
「
「関係はないはずだ。姉はあくまでも
室が出仕するのは、東宮院に住いする中宮の元だ。東宮に中宮がいるとは、一見すると意味が分からない。中宮という位がかなり曖昧だからだろう。それは正式な位ではなく、通称とでも言う方が近い。
中宮とは
この人が東宮院に住まいし、これまた正式ではない
この特別扱いのためか、皇后宮と中宮の者らは決して仲が良いとは言えない。それぞれの運営や管理に当たる皇后宮職、中宮職も何とはなく、互いを忌々しく思っている。
「それで、皇后宮職では何をされるのですか」
「まあ、近衛府でと同様、中間管理職だな」
「それは分かっています」
「それ以上の事は、職場に行ってみないと分からないよ」
私がまた、厄介事に首を突っ込まないか。室としては、そのような事を心配しているのだろう。
書類上では十月から皇后宮職に配属される。しかし、十一月には大嘗祭が執行される。直接に関わる訳ではない皇后宮職には、大きな仕事もない。ところが太政官を始め、神祇官、中務省、宮内省、そして近衛府も忙しいの一言では済まない。結局のところ、席は皇后宮に移したが、身は古巣の近衛府で任務に当たる。
こうして末端の一人として、全体像も詳細も曖昧なまま、大嘗祭は滞りなく終えた。私程度の者は、殆ど同じような状況だろう。
「こういう大掛かりな儀式の全体を掌握している者など、ほんの一握りに過ぎぬよ。俺たち武官は警備の詳細は分かっていても、祭りを行う殿舎の内の事は分からぬ。御饌を用意する者らは、衣を縫う者らの事など詳しゅうは知らぬ。何処も、そのようなものだろう」
大嘗祭が終わって、私もようやく新たな職場の席に着いた。そこにわざわざ乗り込んで来て、演説を打っているのは藤原種継だ。
「確かに。儀式に使われた祭具や、解体されされた殿の建材が、何処に撤下されるのかも、私などには分かりませんからね」
答えているのは、私同様に近衛府からここに出向になった者だ。
「まあ、それは俺も、詳しゅうは知らぬな。ところで、御身は何をしに来たのだ」私は種継に聞く。
「御身を呼んで来いと命じられたゆえ、迎えに来たという次第だ」
「何だ、また近衛府での仕事か」
「まったく、有能な
「ぬかしておれ」
既に勤務時間は過ぎている。笑っている者らに、近衛府から直帰すると言い、種継について曹司を出る。そして宮内を東に向かい、何故か近衛府を通り過ぎる。
「もしかして、東宮院にでも行くのか」
「いいや、北一条
いともあっけらかんと言ってのける。
「では、俺を呼んでいるのは
「まあ、そういう事だ」
話には時々出て来る左京北一条第だが、訪問するのは初めてだ。
種継が顔見知りらしき
種継はと言えば、こちらも当然のように猫の首の後ろを掻き始める。そして猫が喉を鳴らし始めたところで、ようやく屋敷の主が現れる。
私が座り直して頭を下げると、種継は猫を膝に乗せたままで低頭する。山部親王は特に気にする様子もない。
「突然に呼び立てて申し訳なかった」
相変わらずこの人は、目下の者にも平気で下手に出る。
「いえ、御招きに預かり勿体なく思います」
私がやや的外れな挨拶を述べている内に、帳内らが小ぶりの円卓と椅子を三脚ばかり運んで来る。更に侍女が
侍女らは私たちの坏に最初の酒を満たすと、命じられる事なく一礼して姿を消す。仕事関係の客人が来た時には、開けた場所で持て成し、話が始まる前に引き上げる。相変わらずこの家の使用人には、命令が徹底しているようだ。
「
「殆ど何も話しておりませぬよ」猫を抱えたまま席に着いた種継は、あっけらかんと言う。
再三言うが、大進とは私の現在の役職名だ。皇后宮大進は、
「そうか。では、大進には面倒な事を頼むゆえ、心して置いて欲しい」親王は私に向いて、真顔で言う。
隣では種継が、何故か笑っている。親王は少しばかり横目で見ると、気を取り直したように机上の坏を取って一献を飲み干す。そして種継も続いて坏を取るので、私も倣う。
「私としては不本意なのだが、
「はい」答えた私の口調は、つい疑問形になる。
「ここ最近、
「顔を見れば、
「表向きは、皇家の安定と繁栄を願うておられる」動じない様子で親王は言う。
小さく笑った種継は、猫を床に降ろして立ち上がる。そして卓上の隅に置かれている、布をかけられた小さな盆を取って親王の前に置く。親王が布を取り払うと、脚付きの
「しかし、そこには皇后なりの思惑がある」酒瓶に手を伸ばして親王は言い、三つの坏に自ら酒を満たす。
「
言いながらも、一つの坏を私の前に置く。
宮内や上位者の宴席には、少なからず参加した事もある。しかし、どの席でもこれ程の坏が出て来た事はない。少し青みが勝った
「御身様は、宇佐大神の託宣の内容を御存知なのですね」顔を上げて、私は腹を括る。
「概ねは知っているつもりだ。私なりに調べた事もあるし、
一旦言葉を切ると、種継と私に目を向け、更に庭へと視線を移す。冬枯れの景色に赤い姫椿が、一層鮮やかに咲く。風もなく暖かい日差しが、場違いな程に穏やかだ。
「私も
「勇耳の行方は御存知なのですか」
「子供を井上内親王に渡した後、出家したのは知っている。それが突然に、
「いいえ、分かりませぬ」
私の答えに被せるように猫が一声鳴く。わずかに目を向けると、猫は再び種継の膝の上に飛び乗る。
「では、出家後の勇耳の戸籍、妙基尼の出家前の記録が消えている理由は」親王の口調は静かだが、表情は何処か不機嫌そうに見える。
「明確には分かりませぬ。しかし、想像はできます」
「なるほど、言うてみよ」
「勇耳の出家に手を貸したのは、私の姉、
「和気命婦の夫とは、
相変わらず、浮かない表情で腕を組む。
「そうです。他戸親王の生まれた頃ならば、戸主はまだ元気だったはずです。紫微中台で知らぬ事はないとまで言われ、実務に関しては右に出る者がいなかったと聞きます。あちらこちらの司にも顔が利き、
「なるほどな。直接に面識はなかったが、話には何度も聞いた事がある。抜きん出て有能な
「かつては、戸主と姉が協力して勇耳を庇った。そしてこの度は、姉が吉備命婦に協力を求めて、葛城の家に妙基尼を隠したのでしょう。姉は妙基尼と共に罪に問われた故、殆どの事は吉備命婦が行ったのやも知れませぬが」
「もしもそうならば、
親王は目を細めて笑い、私は少しばかり安堵する。怒っていないのは分かっていても、上位者の仏頂面には、どうしても緊張する。
「御身様は他戸親王の出生を知り、皇后と対峙する御積りなのですか」私は聞いてから、出過ぎたと後悔する。
「対峙か。また、露骨な事を言うてくれる」親王は笑い顔のまま言う。
「いえ、申し訳ありませぬ。言葉を誤りました」
「誤りではない。表立って対峙する気はないが、見えぬ所では、そうだな、脅迫の一つもするやもしれぬ」悪びれた様子もなく、平然と答えると、再び静かに笑む。
そして、前に置いた玻璃の坏を手に取ると、おもむろに口に運んで傾ける。
隣の席では種継が薄笑いを浮かべているが、私は相変わらず恐れ入る。
「いずれ他戸が即位するにしろ何にしろ、
「また私情が入っておられますよ、
「私情云々は抜きで言おう。俺としては更なる情報が欲しい」真顔で親王は言う。
この人は話の興が乗って来ると、一人称が私から俺になるようだ。
「皇后の情報ですか」気圧され気味に私は聞き返す。
「皇后のみならず、他戸の行動や考えを知りたい。ゆえに御身を皇后宮
これは希望でも願望でもない、明らかな命令だ。私は意を決して、ようやく坏を手にする。二人の視線がこちらに向けられたのを確かめ、坏に口を付けて一気に飲み干す。
「御心のままに御命じ下さい。身命を尽くします」
この人は、天皇が誰を日嗣に望んでいるかを知っている。それを口にする事はないが、新たな行動を起こそうとしている。言い換えれば、人喰いの龍になる決意を固めたに違いない。そして私達は龍の眷属となる。
なるようになれ、初めて山部親王に会った晩から、私の心境はそのようなままだ。
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