第34話 宝亀二年 六月 人事異動の時季

 白壁天皇しらかべのすめらみことは即位に伴い、父親の志貴親王しきのみこ春日宮かすがのみや天皇という名前を贈った。そして、忌日きじつ(命日)を斎会さいえとする命令も出した。志貴親王の忌日は八月九日、今年は先帝の一周忌に近いと前倒しになる。暦博士こよみのはかせらに諮って五月二十九日、飛鳥の川原寺で行うことが決まった。

 そうなると忙しいのは、宮中行事を司る治部省、斎事を行う大和国、派遣される僧侶たち、更には斎主となる中務宮なかつかさのみや山部親王やまべのみことなる。もっとも中務宮は常日頃より忙しい。


「何と言うべきか、大声では言えぬのだが」紀船守きのふなもりは珍しく前置きをする。

「家庭内不和でもあったか」私はつい要らぬ事を言う。

「生憎だが、それに関しては御身おみの期待に沿えぬ」

 いつもは軽口が上滑りする男が、珍しく気の利いた返事をする。

 夏も後半だが、一番暑い時季だ。曹司ぞうしは扉も窓も全開にして、有るか無いかの風をかろうじて通す。午前中には、上半身裸に籠手を着けた舎人とねりらが、中庭で弓を引いていたが、昼を回る前に姿を消している。部下らはさっさと帰るなり、どこかに出かけるなりで、ここにいるのは私たち二人だけだ。

「もっと深刻な問題だ、俺が言いたいのは」真面目腐って船守は言う。

 人もいなければ、開け払った状況で見通しも利く。内密の話をするには良い条件だ。

「では、御身の個人的な問題ではないのか」私はと言えば、相変わらず浮ついた事を言う。

 何せ昨晩、久々にしつの小言や噂話の猛襲に嫌気がさして、つまらぬ言い争いになった。そのわだかまりのせいか、つい人の話に余計な口を挟んでしまう。

「俺の親子喧嘩でも、御身の夫婦喧嘩でもない」見透かしたように、船守の答えが返る。

「それは安心した」

 船守の家では、成人した息子に頭を痛めているらしい。時折こぼす愚痴によると、犬ばかりを可愛がっていて、嫁取りに全く関心がない云々。傍から聞くと平和な家だ。

天皇すめらみことには五人の親王みこがおられる」船守はしかつめらしく言う。

「五人もおられたか。一番上は山部親王、いや、開成親王かいじょうのみこか。確か、他戸親王おさべのみこは末子ゆえ、間に二人という訳だな」

早良親王さわらのみこ稗田親王ひえだのみこだ」苦笑気味の顔で船守が答える。

「ああ、そうだったな」

「ところが開成親王と早良親王は出家の身だ。稗田親王は目が不自由で、人前には殆ど出て来られない。そして他戸親王は、まだ十一歳。先の川原寺の法要でも思うたが、天皇の名代を任せられる親王が、たった一人しかおられぬというのは、あまりに心もとないと思わぬか、御身は」

 飛鳥の川原寺への親王派遣には、近衛府からも船守が舎人を率いて、護衛として付き従っていた。

「早良親王は御幾つなのだ」私は聞く。

「確か二十二歳で、稗田親王は一つ下だと思う。この方が健勝であられれば、法要の名代などにはうってつけなのだろうが。そのような話を先日に種継たねつぐとしていたのだよ」

「確かにそうだ。わざわざ中務宮が出向くのも、そう毎度は難しかろうし」

 稗田親王の母親は尾張女王おわりのひめみこ、天皇の異母兄の娘だと聞いている。それなのに皇嗣候補にも上げられず、人前にも出ないのは、不自由な目のためだ。幼少に熱病を患い、片目の視力を失った。歳を重ねるごとに、もう片方の目も見え難くなっているとも聞く。

「天皇は親王たちの還俗を求めておられぬのか」私は重ねて聞く。

唐律招提とうりつしょうだいにも東大寺にも、再三に求めている。だが、いずれも本人が了承されぬらしい。殊に東大寺は、親王禅師を手放しはせぬであろうな」

 船守は少し大げさに溜息をつく。

「分からぬでもないな、あの良弁ろうべん僧正の目の黒い内は。まあ、天皇の甥御らに中務宮と同世代の諸王みこがおられる。皇族としての務めには、すぐさま困りはせぬ」

「勅使ならば、諸王でも公卿らでも良かろう。しかし、肝心要の皇嗣の不安定さは、如何ともし難い」

「それ故であろうな、皇后おおきさきが中務宮に新たな妃を迎えろの何のと催促をしているのは」

「御身も聞いておるか、その噂」船守は辟易した顔で言う。

「昨晩も室が、延々と語ってくれたよ」

「確かに、あれだけの御方がいつまでも、御内室一人に御息女も一人では、下々にも示しがつかぬ。新たな妃というからには、皇族より迎えるのであろうな」

「室の情報によれば、酒人内親王さかひとのひめみこを推しまくっておられるそうだ」

 十八歳になる酒人内親王は、稀に見る程の麗人だと聞く。山部親王とならば、誰もが見惚れる美男美女だと、後宮の女たちは姦しく噂をする。

「やはりそうか。皇后としても、自らの姫御の伴侶につまらぬ男は選びとうない。何よりも中務宮を味方につけておけば、皇后も色々とやり易いのやも知れぬ」

 この結び付きは双方に利があると、大抵の者は考えるだろう。しかし、私には少し違う事情に思える。

 他戸親王の出生に、山部親王が気付く事を皇后は恐れている。その前に山部親王を懐柔したい。息女の粟生江女王あおえのひめみこを他戸親王の正妃とし、他戸親王の同母姉を正室に据える。こうして婚姻関係で抑え込み、事実上の味方に引き入れたい。

「ところが室の情報では、親王の正室の座を狙う姫君はもう一人いる」

「それは穏やかではないな」船守は笑う。

「姪御の五百井女王いおいのひめみこだそうだ」

 この人は能登内親王の娘で十五歳になる。子供の頃から、叔父上様の妃になるを口癖にして来た。そのためか、周囲もすっかりその気でいるらしい。

「その姫御は伊勢斎宮いせのさいくうの候補ではないのか。皇后が推挙されていると聞いたが」

「ところが天皇は、酒人内親王を推しておられる。それ故に、斎宮に卜定ぼくじょうされなかった御方が、山部親王の正室となる」

「天皇や皇后が、その様に言われているのか」胡散臭げに船守は問う。

「いいや、内裏の女孺めのわらわが無責任に囀っているそうだ。自らが斎宮内親王さいくうのひめみこだった皇后には、喜べも笑えもしない噂だろう」私はここで、露骨な溜息をつく。

「斎宮は皇族でなければ務まらぬ。だが、妃となると話が違う」船守も溜息をついて、表情を硬くする。

「中務宮の正妃の事か」

「宮妃しかり、皇太子妃然りだ。たとえ正妃が皇女だとしても、外戚を狙う輩は、いくらでも隙を探すだろう。今はいずれの親王も内親王も、これという外戚を持っておられぬ。それが狙い目となろうな。不謹慎な物言いだが、御代が替わった途端にそれらの問題が、一気に表面化するのではあるまいか」

「御身ら紀氏も然り、それ以上に執念を燃やすのは藤氏であろうな」我ながら、口調が皮肉めいて来る。

「部外者面をしているようだが、御身はもはや五位だ。無関係では済まされまい。こおり大領たいりょうは弟御に任せ、都に基盤を築くべきではないのか。一族の者も、それを期待して御身を都に送り出したのだろう」船守の口調も、どこか苛ついているようだ。

「そうだな……そう考えるべきなのであろうな。皇家の内情も定まらぬ時期に、俺をおいそれと国元に返す程、あの方々も甘うはない」

 殊、当事者である白壁天皇は、まだ何かを画策している。宇佐大神から二人の親王を後継に示され、太政官らの意に流されるも同然に皇太子を決めた。しかし、これで事を納めたくはない。懐刀らに密かに下した命令が、それを示している。

「それでだ、近々、また近衛府や中衛府からの出向者を求められるだろう。御身も俺も、それに加わる可能性が大きい」

 皇家の内情と、近衛府の人事異動がどう繋がるのか、船守は勿体ぶった顔でうなずく。

「またか。今度は何処に配属だ」

「皇后宮職か春宮房の関係だと思う」

 なるほど、そう繋がる訳だ。

「また中務省への出向か。まったく、近衛府は中務省の管轄下のようだな」

「まあ、中務卿が近衛府の出身ゆえ、ものを言い易い。それが良いのか悪いのかは別として」その割には、口調は楽し気に聞こえる。

 この男は、案外、内輪の細かい騒動などが好きなのかもしれない。


 船守は近々と言ったが、私が内示をもらったのは二か月以上経ってからだった。

 九月に入り、和気宿禰わけのすくね氏姓うじかばねを賜り、播磨員外介いんげのすけの任を賜った。都を離れる事に、然程さほどの抵抗はない。室は出仕の身、息子たちは大学に通っているとなれば、一人で赴任すれば良い。案外気楽に覚悟を決めた所に、太政官からの呼び出しが掛かる。

 この度こそ船守の言う通り、中務省への出向命令だった。

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