第34話 宝亀二年 六月 人事異動の時季
そうなると忙しいのは、宮中行事を司る治部省、斎事を行う大和国、派遣される僧侶たち、更には斎主となる
「何と言うべきか、大声では言えぬのだが」
「家庭内不和でもあったか」私はつい要らぬ事を言う。
「生憎だが、それに関しては
いつもは軽口が上滑りする男が、珍しく気の利いた返事をする。
夏も後半だが、一番暑い時季だ。
「もっと深刻な問題だ、俺が言いたいのは」真面目腐って船守は言う。
人もいなければ、開け払った状況で見通しも利く。内密の話をするには良い条件だ。
「では、御身の個人的な問題ではないのか」私はと言えば、相変わらず浮ついた事を言う。
何せ昨晩、久々に
「俺の親子喧嘩でも、御身の夫婦喧嘩でもない」見透かしたように、船守の答えが返る。
「それは安心した」
船守の家では、成人した息子に頭を痛めているらしい。時折
「
「五人もおられたか。一番上は山部親王、いや、
「
「ああ、そうだったな」
「ところが開成親王と早良親王は出家の身だ。稗田親王は目が不自由で、人前には殆ど出て来られない。そして他戸親王は、まだ十一歳。先の川原寺の法要でも思うたが、天皇の名代を任せられる親王が、たった一人しかおられぬというのは、あまりに心もとないと思わぬか、御身は」
飛鳥の川原寺への親王派遣には、近衛府からも船守が舎人を率いて、護衛として付き従っていた。
「早良親王は御幾つなのだ」私は聞く。
「確か二十二歳で、稗田親王は一つ下だと思う。この方が健勝であられれば、法要の名代などにはうってつけなのだろうが。そのような話を先日に
「確かにそうだ。わざわざ中務宮が出向くのも、そう毎度は難しかろうし」
稗田親王の母親は
「天皇は親王たちの還俗を求めておられぬのか」私は重ねて聞く。
「
船守は少し大げさに溜息をつく。
「分からぬでもないな、あの
「勅使ならば、諸王でも公卿らでも良かろう。しかし、肝心要の皇嗣の不安定さは、如何ともし難い」
「それ故であろうな、
「御身も聞いておるか、その噂」船守は辟易した顔で言う。
「昨晩も室が、延々と語ってくれたよ」
「確かに、あれだけの御方がいつまでも、御内室一人に御息女も一人では、下々にも示しがつかぬ。新たな妃というからには、皇族より迎えるのであろうな」
「室の情報によれば、
十八歳になる酒人内親王は、稀に見る程の麗人だと聞く。山部親王とならば、誰もが見惚れる美男美女だと、後宮の女たちは姦しく噂をする。
「やはりそうか。皇后としても、自らの姫御の伴侶につまらぬ男は選びとうない。何よりも中務宮を味方につけておけば、皇后も色々とやり易いのやも知れぬ」
この結び付きは双方に利があると、大抵の者は考えるだろう。しかし、私には少し違う事情に思える。
他戸親王の出生に、山部親王が気付く事を皇后は恐れている。その前に山部親王を懐柔したい。息女の
「ところが室の情報では、親王の正室の座を狙う姫君はもう一人いる」
「それは穏やかではないな」船守は笑う。
「姪御の
この人は能登内親王の娘で十五歳になる。子供の頃から、叔父上様の妃になるを口癖にして来た。そのためか、周囲もすっかりその気でいるらしい。
「その姫御は
「ところが天皇は、酒人内親王を推しておられる。それ故に、斎宮に
「天皇や皇后が、その様に言われているのか」胡散臭げに船守は問う。
「いいや、内裏の
「斎宮は皇族でなければ務まらぬ。だが、妃となると話が違う」船守も溜息をついて、表情を硬くする。
「中務宮の正妃の事か」
「宮妃
「御身ら紀氏も然り、それ以上に執念を燃やすのは藤氏であろうな」我ながら、口調が皮肉めいて来る。
「部外者面をしているようだが、御身はもはや五位だ。無関係では済まされまい。
「そうだな……そう考えるべきなのであろうな。皇家の内情も定まらぬ時期に、俺をおいそれと国元に返す程、あの方々も甘うはない」
殊、当事者である白壁天皇は、まだ何かを画策している。宇佐大神から二人の親王を後継に示され、太政官らの意に流されるも同然に皇太子を決めた。しかし、これで事を納めたくはない。懐刀らに密かに下した命令が、それを示している。
「それでだ、近々、また近衛府や中衛府からの出向者を求められるだろう。御身も俺も、それに加わる可能性が大きい」
皇家の内情と、近衛府の人事異動がどう繋がるのか、船守は勿体ぶった顔でうなずく。
「またか。今度は何処に配属だ」
「皇后宮職か春宮房の関係だと思う」
なるほど、そう繋がる訳だ。
「また中務省への出向か。まったく、近衛府は中務省の管轄下のようだな」
「まあ、中務卿が近衛府の出身ゆえ、ものを言い易い。それが良いのか悪いのかは別として」その割には、口調は楽し気に聞こえる。
この男は、案外、内輪の細かい騒動などが好きなのかもしれない。
船守は近々と言ったが、私が内示をもらったのは二か月以上経ってからだった。
九月に入り、
この度こそ船守の言う通り、中務省への出向命令だった。
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