第33話 宝亀二年閏三月 高官らの思惑
何しろこの人は、右大弁を始め、幾つもの要職を兼任しているので、誰よりも忙しい。宮城内での面会すら難しい。
通された部屋で畏まっていると、中庭の方から、家の者らにあれこれと指示を飛ばす声が聞こえて来る。帰って来ても忙しそうだ。
程なく姿を見せた右大弁は、私が顔を上げると大いに破顔する。私がしかつめらしい挨拶を述べるのもそこそこに、女帝や法王の前で吐いた暴言を傑作だったと褒め称える。
「あれで、河内の田舎者どもの出鼻を挫いてくれたのだからな。北家の
「いえ、感謝と言えば私の方こそ、余りある次第です。豊前国の
「いやはや、あれしきの事しか出来なかった。むしろ恐縮しておるよ」
あれしきの事と言ってのける、さすがは藤氏だ。生真面目が衣を着たと称えられる右大弁だが、今日は妙に機嫌が良さそうだ。
筑紫での事を少しばかり尋ねられ、当たり障りのない答えをしていると、さりげなく宇佐八幡神の神託の事を聞かれる。私の立場では話せないと、あちこちで言ったと同様な言い訳をすると、右大弁は潔く聞いた事の非を認める。
「では、奏上の場に、
「おられませなんだ。明基尼も流罪になったとは聞いていますが、罪状は知りませぬ。今はどうしておられますのか。都には戻って来ているのですか」
「罪は許させ、身分も戻されている。しかし、都には入っていない故、消息不明のようだ」
「そうですか。先代の元で働いていた頃は、姉と親しかった様子でした。姉には訊ねられたのですか」
「ああ。
何やら神妙な表情はしているが、信じてはいないだろう。
「もう一人、
「はい。その御方を
「まあ、そういう事だ。この女性もいつの間にか官人の名簿から消えている。こちらとしても、消息不明の
「お役に立てずに、申し訳ありませぬ。その方を探す理由は、やはり聞かれておられないのですね。種継も何故、探しているのかが分からないと言うていましたが」
「どうやら、天皇の個人的な理由のようだ。明基尼はともかく、女孺をとは……」
最初はこれが本音だったのだろう。しかし、これ程の人達の情報網で、明基尼と勇耳の関係が知れていないとは思えない。更には子供の存在にも目が向き始めているだろう。様々な事が知れ、天皇の意図も分かりはじめる。更には宇佐八幡神の神託が皇嗣に関わるらしいと聞けば、私に探りを入れたくもなる。
この人は辟易と疲れた顔の下で、どの様に手薬煉を引いている者なのか。
それからまた数日の後、噂の影が我が家に差す。例によって
良い機会だと、息子たちを連れて挨拶に出て来る。そして会話に口を挟むと言うよりも、積極的に話題を振る。それでも、世間話を盛り上げた程度で気が済んだか、ひとまず退散してくれた。
「やはり、後宮に出仕する方だけある。話題が豊富で退屈しない」
私が室の不調法を詫びれば、中務宮はむしろ面白そうに言う。この人なりの気の使い方かもしれない。そう思うと、更に心苦しい。
「うちのは特別に口が多いのですよ。そもそも、
「そうなのか。うちの母や姉は、四六時中、顔も口も出しては、こちらの要らぬ事ばかりを暴露してくれる。
思うに、そこには
「それはやはり、
「史部など名ばかりだ。あの家は武官だらけだよ。外祖父も叔父も従兄弟も」
「そうなのですか。確かに
「まあ、我が家の事など、どうでも良かろう。今日は御身に少しばかり聞き難い事を聞きに来たゆえに」
平然と言う割には、邪気のない笑顔を見せる。
「聞き難い事、ですか」
早速来たかと身構える。幸いにして周囲には誰もいない。何やらを察した室が、人払いを命じたのだろう。
ところがそこに、
「さて、まずは核心の前に一つ聞きたい」一度大きく息を吐いた後に言う。
「はい」私も取り敢えず身構え直す。
「その辺りで囁かれている、坊主が皇位を欲して云々という噂は、間違いで良いのだな」
核心の前と言った割には、かなり露骨な事を聞いてくれる。
「間違いも甚だしい噂です。坊主の身内は、皇家の外戚を欲してはいましたが」
「そちらは噂通りか」
「多少の枝葉は付いておりますが、血縁の娘を
「なるほど。先の
表情も変えずに、そら恐ろしい事を平然と言う。おかげで返す言葉も出て来ない。
「そのような猿芸に対して、八幡
「勿論です」
「ではやはり、大神は正式な皇嗣に関して、何かを告げられた」
「いきなり核心……ですか」
「そうだ」
親王はこちらを真っ直ぐに見て、否定は許さぬと言いたげに口の端で笑う。あの父親にしてこの息子と言うか、あの兄にしてこの弟と言うか。
「否定はせぬ、そう捉えて構わぬのだな」
「否定は致しませぬ」開き直って答える。
「皇太子は
「私には判断できませぬ」
「判断とはどういう意味か」
真っ直ぐな眉が少しばかり潜まる。八幡大神は皇嗣に相応しい親王の名を告げた、このようにこの人は推測している。そこには自らの名前はない、その様に自らに言い聞かせているのかもしれない。
「神託に関して、
「殆ど何も聞いておらぬ。ゆえに、天皇が他戸を皇太子としたのなら、それが神託なのだと思うた。その様に天皇に言えば、否定も肯定もされず、昔関係した女と子供を探して欲しいと言い出す」少しばかり投げやりに親王は言う。
「その母子は見つかっていないのですね」
「ああ、未だ行方知れずだ。だが、子供は男の子だと分かった。御身が判断できぬと言うたのは、他戸とその子供のどちらが皇嗣となるべきかという事か」
「県犬養勇耳と御子を探し出して下さい。それによって、天皇の御意思が知れるのではないのか、私にはそのように思えます」
「神意ではのうて、天皇の意思なのか。……父上が決めるのか、皇嗣を。その様に大神は言われたのか」心なしか、言葉も表情も勢いが衰える。
何気なく視線を縁の方に向けるが、猫は既にいなくなっている。おおかた夜遊びにでも出かけたのだろう。私は息を軽く吐いて親王に向き直る。
「今の状況も全て神意なのやも知れませぬ。私は伝える役を担わされただけです。ゆえに、先の女帝にも今の天皇にも告げました。この後に起きる事は、皇家が担わねばならぬはずです」
「皇家が……か。では、この後は俺自身も関わってくる訳なのか」口の端で小さく笑う。
「御身様は親王です。誰もが認める皇家の重要な一員です」
宇佐大神は、二人の幼い異母弟を皇嗣に示した。どちらの親王が相応しいのか、天皇は見極めようとしている。自らの息女を妃とするにも、その決定が関わってくる。山部親王はそのように思っているのだろう。
今はそのように思っていても、それほど遠くない先に知るに違いない。大神の意思は自らの上にもあるという事を。
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