第32話 宝亀二年閏三月 右京五条二坊 唐律招提にて
かつて
住まう寺は右京五条二坊、その昔は
五条通りを西に向いて、粛々と馬を進める。右京に入ると家は格段に少ない。左京よりも全体的に土地が低いためか、農地が目立つ。右京の二坊大路辺りからは、丘陵が始まり土地も高くなるが、目指す寺はその手前にある。寺というには、耕作地と寺男や寺奴の住まう小屋が目立つ。官寺や中央氏族の
南門の前で
伽藍と呼べる程の建物はない。門はあっても回廊はなく、簡素な板塀が寺域を囲む。金堂や塔はないが、やけに立派な講堂と
食堂は講堂の背後に、
案内に立った寺奴が食堂の鍵を開ける。しかし、許可なく堂には立ち入れないと、暫く外で待つ。程なく数人の修行僧や
私が頭を下げると、立ち止まって合掌する。どうも、僧侶や神職の挨拶は苦手だ。
「
合掌したまま問う低い声は、何やら聞き覚えがあるように思える。
「はい。
「
口調は穏やかだが、声は異母弟の
我々のしかつめらしい挨拶の合間も、寺男たちは暗黙の了解のように、食堂の扉を全て開け放つ。開成親王に伴われて私が食堂に入ると、一人の修行僧を堂の外に残し、寺男たちは無駄な口も利かずに退散する。まるで訓練された兵士の動きを見るようだ。
親王に
「
「姉を御存知なのですか」
「以前に
「不躾ですが、御身様は明基尼を昔から御存知なのですか」思い切って私は聞く。
皇族籍の僧侶と、何の世間話をしたら良いのか、判断がつきかねる。
「昔とは、明基様や私が出家する前という意味でしょうか」笑みは消さずに、抑揚のない口調で問い返す。
「そうです」
「存じ上げております。あの方が
「紫微中台で、共に仕事をされていたのですか」
「勇耳が紫微中台の
開成親王が出家したのは、天平宝字元年だと聞く。その年に起きた
「勇耳がいつ、どのような経緯で御子を
「多少とも存じております」殆ど表情を動かさずに親王は答える。
「では、私が何を訊ねたいと思うているのか、お判りでしょう」言いつつ、口の中が乾いているのに気付く。
「概ね、察しはつきます。県犬養勇耳、明基尼については、何人かが行方を捜しているようです。私の元に、消息を問い質して来た者もいます。最初は私の父でした」
「
私が聞き返すと、親王は笑みを崩す。この笑い顔も山部親王によく似ている。双方の母親は知らないが、二人とも間違いなく父親に似ている。
「あれは確か、中納言になって間もない頃ですから、かれこれ八年か九年前になりますか。突然やって来て、以前に関係のあった
表情が和らぐと、口調も少しばかり砕けて来る。
「
「
「そう、山部の
「それは、つまり……」
「恐らく、山部の母親の若い頃にも似ているのでしょう。それ故に勇耳に未練があるのか、息子ながら下世話な事を思うた次第です」
軽く肩をすくめ、本尊の文殊菩薩に目を向ける。開成親王の言い様を聞いていると誤解しそうだが、山部親王の生母、
「子供の事も何か言われていたのですか」私は親王の横顔に問いかける。
「子供を置いて姿を消したというに、何故今更に現れたのか、そのような事を言うておられましたか」こちらに向き直りながら親王は答える。
「やはり最初から御存知だったのですね、天皇は」
「御身が宇佐八幡神の元で見た夢の通りです。勇耳は井上内親王の元で、白壁王の子を産んだ。子供は内親王の元に残り、勇耳はどこかに姿を消した。ところが忘れた頃になって、尼僧姿で表に出て来る。さて、勇耳の真意は何なのか。誰かが仕組んだ事なのか」
「神託の事は天皇より、御聞きになられたのですね」私は細く息を吐く。
開成親王は軽くうなずいて言葉を続ける。
「他戸が勇耳の子でも、誰を問い詰める気もない。井上内親王の嘘にも、気付かぬふりを続けよう。このように以前は言うておられました」
「しかし、状況が変わった、日嗣問題が持ち上がって」
親王は更にうなずく。そして、少し上げた顔を堂の外に向ける。
「山部が生まれて以来、家を譲るのはこの息子だと決めている。そのように父は、常日頃から言うていました。私も母も、家族全員がそれを当たり前に思うていました。父の
白壁天皇の若い頃は、難波や
ともあれ、父親の十年以上に渡る散位(位階があっても官職のない者)の状況は、子供たちの自立を促したに違いない。
「父上にとっての嫡男は、私でも
開成親王は再び文殊菩薩に目を向ける。私もつられてそちらを見る。菩薩を乗せている獅子と目が合う。少し胡乱な大きな目も、咆哮するらしく開いた口も、何やら人間臭く笑っているようだ。凛とした美女のような菩薩とは、どこか対照的に写る。
「天皇は今でも、山部親王を
「他戸が立太子した後は、口に出していないでしょう。しかし、
それが聞き入れられなかったのは、今の状況を見れば分かる。いくら優れた親王でも、母親の位が低いために皇位から遠ざけられた例は、枚挙に暇がない。
「他には、どなたが勇耳の消息を尋ねて来られたのです」
「父以外はここ最近ですが、山部親王、藤原
「なるほど、いずれも天皇の懐刀という存在ですか」
中務卿の山部親王、南家の中納言の縄麻呂、式家の右大弁の百川、いずれも次の世代の太政官を背負う人達だろう。
「この方々が、何故、勇耳と子供の行方を、誰の命を受けて探しているのか。御身は理由を知りたいのですか」こちらに向き直って親王は問いかける。
「そうです。そして
「いずれも、私の元に来た時は知らぬ様子でした。しかし、そろそろ、答えにたどり着いている頃でしょう」
開成親王は期待するように小さくうなずく。
「命じたのは天皇で間違いありませぬか」
「直に命じられたのは、山部と縄麻呂だけでしょう。百川は山部から協力を頼まれ、更に百川は弟御や甥御に協力を求めた。そのようなところです」
「他戸親王や井上内親王との関係は伏せ、勇耳と子供を探すように命じたのですね」
「少なくとも、山部にはそのように命じたはずです。昔、こういう女と懇ろになった。だが、子供が出来たと言うたきり、姿をくらませてしまった。ゆえに今更だが探して欲しい。あの父の事です、このように惚けた事を言うたのでしょう。山部は山部で、子供が女の子ならば、他戸の妃にする気ではないのかと、勝手に思い込んで悩んでいましたよ」
家族の話をする時のこの人は、何やら楽しそうに見える。
「
「山部でのうても、考えそうな事ですが。御身ならば分かるでしょう。父が何故に、山部にこのような事を命じたのか」今度は親王が問いかける。
「やはり、諦めておられないのですね、日嗣の事は」私はつぶやく。
開成親王は表情を引き締め、おもむろにうなずく。恐らくはこの人も、天皇と同じ事を望んでいる。
「私が
「聞いております。父にしても山部にしても、他では
御仏や僧侶の前は、誰もが治外法権に思う。国の行方を左右する秘密から、個々人の些細な秘密まで、親王は様々に耳にして来た事だろう。
「あの頃、太政官は、既に女帝が長うないと予測していたのでしょう。河内行幸よりも前から、不調を訴えておられたと、山部も縄麻呂も言うていました。そして行幸より戻った後は、床から起き上がれぬほど悪うなられた」無表情に親王は言う。
「河内
「ああ、御身は御存知ではありませぬね」少し困ったような笑みを見せる。
「
河内国は弓削宮を有する事で、国府に替わり河内
「山部に舞人の
阿倍女帝がまだ皇太子の頃、内裏で開かれた節会で、
これを知る者らが思ったかもしれない。舞人を務めた山部親王こそが、皇太子に相応しいと、女帝が暗黙に示したのだと。
「しかし、真意を誰にも告げぬまま、女帝は崩御された。八幡大神の問いかけは、そのまま父上に引き継がれたのです。息子たちはいずれも人喰いの龍だ、それが天子の証ゆえに、いずれかを選べ。神意は既に示された。選ぶのは人の役目、私はそう思うています」
龍に仕えろ、あの
この人も龍なのかもしれない。改めて開成親王の穏やかな表情を見て思う。だから為政者の目に留まった。だが、人を喰らう事を嫌い、御仏に仕える道を選んだ。龍にも人にも、その様な道が開けているのだろう。
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