第32話 宝亀二年閏三月 右京五条二坊 唐律招提にて

 かつて紫微中台しびちゅうだいにいた御仁だが、今は出家の身だ。実を言うと、直接の面識がない。紫微中台にいたのは、ごく若い頃で、期間もそれ程長くはない。しかし、立場としては県犬養勇耳あがたのいぬかいのいさみ井上内親王いのえのひめみこにかなり近いだろう。

 住まう寺は右京五条二坊、その昔は新田部親王にたべのみこの宮で、四町もの広さを有していた。大唐もろこしより渡り来た、かの鑑真大和上が、東大寺を出た後に土地を賜わり寺とした。今は唐律招提とうりつしょうだいと呼ばれている。

 五条通りを西に向いて、粛々と馬を進める。右京に入ると家は格段に少ない。左京よりも全体的に土地が低いためか、農地が目立つ。右京の二坊大路辺りからは、丘陵が始まり土地も高くなるが、目指す寺はその手前にある。寺というには、耕作地と寺男や寺奴の住まう小屋が目立つ。官寺や中央氏族の氏寺うじでらを見慣れた目には、かなり殺風景に写る。すぐ南に薬師寺の伽藍がらんの二つの塔が見えるので、余計に差を感じる。

 南門の前で寺奴てらやっこらしき者を捉まえ、開成かいじょう師に会いたいと言って名前を告げる。暫く待っていると、食堂じきどうで御会いになると先程の寺奴が伝言を持って来た。

 伽藍と呼べる程の建物はない。門はあっても回廊はなく、簡素な板塀が寺域を囲む。金堂や塔はないが、やけに立派な講堂と戒壇かいだん堂が北寄りに建つ。これは有力者からの喜捨によって建てられたらしい。いくつか並ぶ正倉しょうそうは、親王の宮の頃からあったものだと聞く。

 食堂は講堂の背後に、僧房そうぼうに囲まれるように建つ。官寺であれば、四面にひさしを持ち、瓦を葺いた威容を示すが、ここでは僧房に同様、奥行きのあまりない細長い建物となっている。恐らくは元々あった殿を改装したのだろう。

 案内に立った寺奴が食堂の鍵を開ける。しかし、許可なく堂には立ち入れないと、暫く外で待つ。程なく数人の修行僧や寺男てらおとこを連れた、背の高い僧侶が現れる。

 私が頭を下げると、立ち止まって合掌する。どうも、僧侶や神職の挨拶は苦手だ。

和気公わけのきみ清麻呂様にございますか」

 合掌したまま問う低い声は、何やら聞き覚えがあるように思える。

「はい。開成親王かいじょうのみこ様と御見受けいたします」私も顔を上げて答える。

然様さようにございます」

 口調は穏やかだが、声は異母弟の山部親王やまべのみこにそっくりで、背格好もよく似ている。剃髪した僧衣ではなく、官人の姿をしていれば、遠目には見分けがつかないかもしれない。兄弟とはいえ、半年程度しか離れていないと聞いている。

 我々のしかつめらしい挨拶の合間も、寺男たちは暗黙の了解のように、食堂の扉を全て開け放つ。開成親王に伴われて私が食堂に入ると、一人の修行僧を堂の外に残し、寺男たちは無駄な口も利かずに退散する。まるで訓練された兵士の動きを見るようだ。

 親王にならって、本尊の文殊菩薩に拝礼する。誰の寄進によるものか、小ぶりながらも端正な顔立ちの仏像だ。

法均ほうきん様の弟御にあらせられますな」親王はおもむろに向き直って問う。

「姉を御存知なのですか」

「以前に明基みょうき様と共に、何度か御出でになられましたので」何かを察していたのか、微かな笑みを浮かべて、その名前を言う。

「不躾ですが、御身様は明基尼を昔から御存知なのですか」思い切って私は聞く。

 皇族籍の僧侶と、何の世間話をしたら良いのか、判断がつきかねる。

「昔とは、明基様や私が出家する前という意味でしょうか」笑みは消さずに、抑揚のない口調で問い返す。

「そうです」

「存じ上げております。あの方が県犬養宿禰あがたのいぬかいのすくね勇耳という名前で、私が手嶋王てしまのみこと呼ばれていた頃から」口元は笑っているが、目元は真顔そのものに見える。

「紫微中台で、共に仕事をされていたのですか」

「勇耳が紫微中台の女孺めのわらわになった年に、私は出家を致しました。同じつかさにいたのは、わずかな期間に過ぎませぬ。しかし、名前や顔は覚えております」

 開成親王が出家したのは、天平宝字元年だと聞く。その年に起きた橘奈良麻呂たちばなのならまろの謀反未遂事件の功労で、二十一歳にして従四位下に叙位された。それが出家の切っ掛けだと、以前に種継たねつぐらが話していた。

「勇耳がいつ、どのような経緯で御子をされたのか、その御子は今どこにおられるのか、御存知でしょうか」

「多少とも存じております」殆ど表情を動かさずに親王は答える。

「では、私が何を訊ねたいと思うているのか、お判りでしょう」言いつつ、口の中が乾いているのに気付く。

「概ね、察しはつきます。県犬養勇耳、明基尼については、何人かが行方を捜しているようです。私の元に、消息を問い質して来た者もいます。最初は私の父でした」

白壁天皇しらかべのすめらみことがですか」

 私が聞き返すと、親王は笑みを崩す。この笑い顔も山部親王によく似ている。双方の母親は知らないが、二人とも間違いなく父親に似ている。

「あれは確か、中納言になって間もない頃ですから、かれこれ八年か九年前になりますか。突然やって来て、以前に関係のあった女性にょしょうの話を始めたのです」

 表情が和らぐと、口調も少しばかり砕けて来る。

阿倍女帝あべのみかどが世話係として側に置いている、若い尼僧の一人が、県犬養勇耳に似ている。本人に間違いない。ところが勇耳の名前は、官人の名簿から消えている。その尼僧の経歴を調べてみると、出家前は不明とされている。そして、紫微中台にいた頃の勇耳を知っているかと、私に聞きました。先程も言いましたが、顔は知っていました。何しろ、あの方は姉に良う似ていますので」

御身おみ様の姉宮様にですか」

「そう、山部の同母姉あね能登内親王のとのひめみこに似ている。それが私の第一印象でした」

「それは、つまり……」

「恐らく、山部の母親の若い頃にも似ているのでしょう。それ故に勇耳に未練があるのか、息子ながら下世話な事を思うた次第です」

 軽く肩をすくめ、本尊の文殊菩薩に目を向ける。開成親王の言い様を聞いていると誤解しそうだが、山部親王の生母、和史新笠やまとのふひとにいがさは今でも健在だ。白壁王しらかべのみこの大納言時代までは、井上内親王を差し置いて正妻扱いを受け、押しも押されぬ大刀自おおとじ(女主人)として奥に君臨していた。これが種継から聞いた姿だ。

「子供の事も何か言われていたのですか」私は親王の横顔に問いかける。

「子供を置いて姿を消したというに、何故今更に現れたのか、そのような事を言うておられましたか」こちらに向き直りながら親王は答える。

「やはり最初から御存知だったのですね、天皇は」

「御身が宇佐八幡神の元で見た夢の通りです。勇耳は井上内親王の元で、白壁王の子を産んだ。子供は内親王の元に残り、勇耳はどこかに姿を消した。ところが忘れた頃になって、尼僧姿で表に出て来る。さて、勇耳の真意は何なのか。誰かが仕組んだ事なのか」

「神託の事は天皇より、御聞きになられたのですね」私は細く息を吐く。

 開成親王は軽くうなずいて言葉を続ける。

「他戸が勇耳の子でも、誰を問い詰める気もない。井上内親王の嘘にも、気付かぬふりを続けよう。このように以前は言うておられました」

「しかし、状況が変わった、日嗣問題が持ち上がって」

 親王は更にうなずく。そして、少し上げた顔を堂の外に向ける。

「山部が生まれて以来、家を譲るのはこの息子だと決めている。そのように父は、常日頃から言うていました。私も母も、家族全員がそれを当たり前に思うていました。父の散位さんい時代、山部はいち早く、家を背負う気持ちでいたようです。さっさと家を出た私と違い、あれには常に覚悟があった」

 白壁天皇の若い頃は、難波や紫香楽しがらきの造京司を長く勤めていたと聞く。甲賀寺こうかでらの建立では、長官の立場だった。しかし、天災や人災で造営は潰え、責任を取るように職を辞した。噂では上位者の不正を知り、口を閉ざさざるを得なくなったためだともいう。

 ともあれ、父親の十年以上に渡る散位(位階があっても官職のない者)の状況は、子供たちの自立を促したに違いない。

「父上にとっての嫡男は、私でも早良さわらでも稗田ひえだでもない。ましてや末子の他戸でもない」

 開成親王は再び文殊菩薩に目を向ける。私もつられてそちらを見る。菩薩を乗せている獅子と目が合う。少し胡乱な大きな目も、咆哮するらしく開いた口も、何やら人間臭く笑っているようだ。凛とした美女のような菩薩とは、どこか対照的に写る。

「天皇は今でも、山部親王を日嗣ひつぎに」気を取り直し、意を決して問いかけたものの、語尾は不本意に口の中に消える。

「他戸が立太子した後は、口に出していないでしょう。しかし、阿倍女帝あべのみかど崩御の直後は、大臣おとどらにも何度か諮ったようです」

 それが聞き入れられなかったのは、今の状況を見れば分かる。いくら優れた親王でも、母親の位が低いために皇位から遠ざけられた例は、枚挙に暇がない。

「他には、どなたが勇耳の消息を尋ねて来られたのです」

「父以外はここ最近ですが、山部親王、藤原縄麻呂ただまろ、藤原百川ももかわといったところです」

「なるほど、いずれも天皇の懐刀という存在ですか」

 中務卿の山部親王、南家の中納言の縄麻呂、式家の右大弁の百川、いずれも次の世代の太政官を背負う人達だろう。

「この方々が、何故、勇耳と子供の行方を、誰の命を受けて探しているのか。御身は理由を知りたいのですか」こちらに向き直って親王は問いかける。

「そうです。そして中務宮なかつかさのみやや中納言らは、他戸親王の生まれを知っておられるのでしょうか」私にしては珍しく、視線を真っ向から受けて答える。

「いずれも、私の元に来た時は知らぬ様子でした。しかし、そろそろ、答えにたどり着いている頃でしょう」

 開成親王は期待するように小さくうなずく。

「命じたのは天皇で間違いありませぬか」

「直に命じられたのは、山部と縄麻呂だけでしょう。百川は山部から協力を頼まれ、更に百川は弟御や甥御に協力を求めた。そのようなところです」

「他戸親王や井上内親王との関係は伏せ、勇耳と子供を探すように命じたのですね」

「少なくとも、山部にはそのように命じたはずです。昔、こういう女と懇ろになった。だが、子供が出来たと言うたきり、姿をくらませてしまった。ゆえに今更だが探して欲しい。あの父の事です、このように惚けた事を言うたのでしょう。山部は山部で、子供が女の子ならば、他戸の妃にする気ではないのかと、勝手に思い込んで悩んでいましたよ」

 家族の話をする時のこの人は、何やら楽しそうに見える。

粟生江女王あおえのひめみこと共に皇太子妃になると、そう思われた訳ですか」私はといえば、ひたすらに問いかけの口調だ。

「山部でのうても、考えそうな事ですが。御身ならば分かるでしょう。父が何故に、山部にこのような事を命じたのか」今度は親王が問いかける。

「やはり、諦めておられないのですね、日嗣の事は」私はつぶやく。

 開成親王は表情を引き締め、おもむろにうなずく。恐らくはこの人も、天皇と同じ事を望んでいる。

「私が大隅おおすみ国に行く前、天皇が自ら会いに来られました。その時に言われておられた。この先、皇后きさきの偽りが、色々な人を追いやる事になるやもしれぬ。そして、自らが他戸親王を跡取に望んでいない事も、問題になるだろうと」

「聞いております。父にしても山部にしても、他ではこぼせぬ愚痴や弱音をここで吐露するのですよ。我が家の揉め事が皇嗣問題となり、他者をも巻き込む羽目になった。現に御身や法均様を厄介な立場に追いやった。左大臣おとどらと計って、早期に救出せねばならぬ。あの時は、決意を誰かに聞かせたかったのでしょう」

 御仏や僧侶の前は、誰もが治外法権に思う。国の行方を左右する秘密から、個々人の些細な秘密まで、親王は様々に耳にして来た事だろう。

「あの頃、太政官は、既に女帝が長うないと予測していたのでしょう。河内行幸よりも前から、不調を訴えておられたと、山部も縄麻呂も言うていました。そして行幸より戻った後は、床から起き上がれぬほど悪うなられた」無表情に親王は言う。

「河内弓削宮ゆげのみやへの行幸ですか。確か、神護景雲じんごけいうん四年の春でしたね」

「ああ、御身は御存知ではありませぬね」少し困ったような笑みを見せる。

紀船守きのふなもりから色々と聞きました。行幸の地で河内大夫かわちだいぶや山部親王ら近衛府の者らに、倭舞やまとまいを奉らせたと」

 河内国は弓削宮を有する事で、国府に替わり河内しきと呼ばれる特別の司が置かれるようになった。河内守も河内大夫と名称が変わり、藤原百川こと雄田麻呂おだまろが就任した。

「山部に舞人の一臈いちろうを務めさせる事で、人々に認めさせようとした。そのように受け取った者も少なからずいたのでしょう」親王の表情は相変わらず動かない。

 阿倍女帝がまだ皇太子の頃、内裏で開かれた節会で、五節ごせち舞を奉納した。内親王でありながら皇太子となった身を認めさせるためと、父親の聖武皇帝の命令で、舞姫の一臈に選ばれたのだという。

 これを知る者らが思ったかもしれない。舞人を務めた山部親王こそが、皇太子に相応しいと、女帝が暗黙に示したのだと。

「しかし、真意を誰にも告げぬまま、女帝は崩御された。八幡大神の問いかけは、そのまま父上に引き継がれたのです。息子たちはいずれも人喰いの龍だ、それが天子の証ゆえに、いずれかを選べ。神意は既に示された。選ぶのは人の役目、私はそう思うています」

 龍に仕えろ、あの呪女まじないめは言った。いずれ仕えるべき龍は現れる。最初に現れたのは、言わずと知れた山部親王だ。この人には最強の後ろ盾と眷属がいる。今一人の他戸親王は、未だ私の前には現れていない。しかし、時を置かずに姿を見せるだろう。

 この人も龍なのかもしれない。改めて開成親王の穏やかな表情を見て思う。だから為政者の目に留まった。だが、人を喰らう事を嫌い、御仏に仕える道を選んだ。龍にも人にも、その様な道が開けているのだろう。

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