第31話 宝亀二年三月 噂の錯綜
気ばかり焦る中、三月二十九日、復位と復官の命令は唐突に下った。晴れて従五位下、近衛
今は
女帝崩御により、道鏡法王は失脚して追放された。
近衛府などは、このあおりをまともに喰らい、四等官にも欠員が生じている。そういう訳で私の復帰は大いに歓迎された。
仕事に復帰して間もなく、おかしな噂が流れているのに気付く。
その日、弓場に面した
「だが、坊主本人が望んだ訳ではないのだろう。俺は
「いいや、坊主が言い出し、女帝もその気になった。俺はそう聞いたぞ」
窓辺に近い木陰で、休憩中の舎人が声高に話をする。既に正午を廻り、勤務時間も過ぎている。曹司の内に、私がいる事に気づいていない様子だ。緘口令なのか気遣いなのか、私の前では誰もが道鏡師や弓削氏の話はしない。
「女帝が夢を見たと言い出して、坊主と弟が宇佐に行けの何のと言い出したのではないのか」
宇佐という地名が出たところで、私は更に耳をそばだてる。
「俺もそう聞いたな。最初に女帝の夢枕に宇佐の神が立ち、伝えたい事がある故、宇佐に来いと告げたとか何とか」
「そうだ、俺もそう聞いた。それで坊主と弟らが悪巧みを思いついて、坊主に皇位を譲ればどうのこうのと言い出したとか」
「宇佐に坊主らの息のかかった者がいて、偽の神託を将監に聞かせたってやつだろう」
「ああ、そうだ。坊主に皇位を授ければ、すべてがうまく行くだろうとか何とか」
「無理がありすぎるだろう。六十超えた坊主では先が見えている」
「だから、
「あれ、俺が利いたのは逆だな。坊主の身内から皇太子を出し、
「そりゃあ、もっと無理な話だな。何にしろ、そんな気違いじみた神託なんぞ聞かされて、承知したと言う輩がいるものか」
「将監でのうても、こんな猿回しに付き合うていられぬと思うだろうな」
確かに
「
「口を動かしても鍛錬にはならぬぞ。それどころか、口の多い男には女は寄って来ぬぞ」更に暢気な声が言う。
上官が来た訳でもない。舎人らは軽い笑い声と共に、立ち上がる物音をたてる。私も頃合いを見て、気付かれないように退散するとしよう。
それから何日もしない内に、今度は
「そういえば、大将が昔の女を探しているという噂、御身は聞いているか」
「昔の女だと」
船守らしからぬ話題に、思わず首をねじ向けて顔を見る。いたって真面目そうな表情だ。
皇后宮に派遣する
「
上機嫌な声で寄って来たのは、隣で机に向かっていた
「いや、初耳だ」正直、私は辟易する。
「何でも、元々は
「紫微中台というと、十年以上前だな」
紫微中台というのは、藤原
藤原皇太后とは、先の女帝の母親で、聖武皇帝の皇后だった藤原
「子供はどうしているのだ。藤原式家のいるのか」船守が聞く。
「子供の行方も知れないそうですよ」将曹は嬉々として答える。
「もしかして、女の子か」更に船守は聞く。このような話に興味を示すのも珍しい。
「いえ、男子のはずですが」将曹も少し怪訝そうに言う。
「奇妙だな、大将には四人か五人は子息がおられる。今更、男子が増えても……」
「もしかして、娘ならば入内させようとしていると、御身は考えた訳か」私は聞き返す。
男女の惚れた腫れたではなく、この類の話題ならば、この男が興味を示すのも不思議ではない。
「まあ、そうだ。その頃に生まれた子供なら、
「式家には既に三人は候補がおられるはずですよ。
まったく、この将曹は噂話に敏い。仕事の方も、この位身を入れて欲しいものだ。
「それにしても、大将ほどにもてる御仁が、昔の女を探しているというのも、何やら釈然とせぬな」話を合わせる振りで軽口を言ってみる。
「別の理由があるのやも知れませぬな。元皇后付きの女孺だそうですからね」将曹は相変わらず嬉しそうに笑う。
「何という女だ。まあ、聞いたところで俺は知らぬと思うが」私は更に下世話な興味本位を装う。
「さて、名前までは知りませぬが、県犬養氏の女だそうですよ」
「県犬養氏か。では、
予想していた名前が出て来た。それが単なる偶然なのか、先に姉から聞いた女と同一人物なのか。そこまでは分からない。
「案外、御身の御内室ならば、知っておられるのではないのか」船守が苦笑気味に言う。
「さもありなん」私も合わせて苦笑する。
蔵下麻呂も種継に同様、県犬養勇耳を探しているのか。目的は分からない。誰かの命令を受けているのか、本当に個人的な理由なのか。
そして船守の助言に従い、家に帰って室に伺いを立てれば、案の定といえる結果になる。
藤原
その武勇伝によれば、蔵下麻呂は選りによって、
「皇后宮から
若い頃を
「しかし、皇太后宮や紫微中台からの出向者は、限られて来るのだな」
「兵部卿の探しておられるのは、勇耳様という方のようです。私よりも少し下か、あまり変わらない年齢だと思いますわ」
「その方と近衛大将の関係は、どれ程のものなのだ。子供がいるとかいないとか聞いたが」
「それが、よう分からないのですよ。子供も探していると聞いて、皆が勝手に、以前に関係した
思った通りだ。蔵下麻呂も種継と同じ目的で、県犬養勇耳を探しているに違いない。昔の女というふれこみは、後宮の
「将曹が、子供は男の子だと言うていたが」
「私も男子だと聞いています」
「では藤原式家の、新たな皇太子妃候補という線はないか。何のために、母子を探しておられるのやら」
「
「なるほど。それにしても、内侍司の情報網も捨てたものではない。近衛府では、その女性の名前は分からなかった」
「得手不得手があるのですよ。男女の噂などは、最も得手とするところですから」少しばかり得意そうに室は言って笑う。
「まあ、確かにこちらは、惚れた腫れたよりも切った貼っただ」私も苦笑して見せる。
「しかし、紫微中台の関係でしたら、姉上様が御存知なのでは。勇耳様の事も」
「どうだろうな。
姉から聞いた話では、勇耳は光明子皇后の宮に女孺として仕え、紫微中台が発足すると、そちらに出向になった。この経歴のため、姉も義兄も勇耳の事は知っているという。
「大将も当然、姉上には伺いを立てているのだろうな」
「まあ、そうでしょうねえ。今のところは、芳しい成果もない御様子ですから、やはり御存知ないのかしら」
御存知でも、うかつに口に出せない情報だ。耳聡い後宮の内侍らが聞きつければ、どの様な形で泳ぎ出すとも知れない。
私からも室に下手な事は話せない。情報漏洩の危険性もだが、皇嗣を巡るような陰謀に家族を決して巻き込みたくはない。
それはさておき、かつて紫微中台にいたと聞いて、気にかかる人物をもう一人思い出した。機会を作り、その御仁を訪ねたいとは思うが、何となく気が引けないでもない。
れっきとした皇族で、今は官界から引退した身の御方だ。そのような人が、私が訪ねたところで相手にしてくれるものか。
やはり、少しばかり気が思い。
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