第30話 宝亀二年三月 母子の消息の事
春も終わりに近づき、花鎮め祭の頃にはかなり暑くなった。今年は夏が早そうだ。
摂津行幸の後処理も一段落し、次は太政官の人事が、もっぱら官人らの関心の的となる。
右大臣の
太政官の最高位不在を受けて、二官八省、八衛府も四等官が動くのは確実だ。
夏が近づき、日が伸びて来た。西の空では先程に日が沈み、東の空には望に近い月が上って来た。とは申せ、夜というには程遠い明るさだ。
「今回の人事は降り出しに過ぎぬよ。この先も大きく人が動くだろう」
夕餉も済んだ頃に船守はやって来た。明日に太政官の新人事が発表になると、予想を
「
「一番優勢なのは、やはり藤原
「ああ。俺としては、大中臣と藤原式家で左右の大臣かと思うていたが、左大臣は置かぬとの噂だ。まあ、この先、また誰かの横槍で太政官人事が動くなど、珍しゅうもないだろうがな」
船守は言うが、今の政界上部には、突出した傑物がいる訳ではない。先の御代のように、
「藤氏も暫くは式家優位の流れになろうな。北家左大臣の子息らは、まだ若すぎる。
「式家も家長が太政官次席となれば、続く者らも大人しゅうはなかろうな」私はうなずきながら、手酌で坏を満たす。
藤原式家の家長、
「それから、
「そうだな。あの御仁は俺より四つ年下だから、三十五歳か。下馬評通り、四十前には参議、近衛大将もしくは左大弁といったところか」
「あの御方が上官になるのは、俺としては歓迎だな。まあ、遠からず御身も元の官位に戻って、近衛府に復帰するはずだ。俺や
「重ね重ね済まぬ。御身らの気遣いは本当にありがたい。近衛府に戻れるに越した事はない。だが俺としては、地方官も悪うはないと、ここ最近は思うているのだよ」
私は
「何だ、
「目覚めたという訳でもないが、希望としては大隅国よりも
「そういえば、先日も言うていたな。豊前守くらいには、なれるやもしれぬの何のと」
「まあ、あくまでも希望だ。今はまだ、無位無官の状態だ。よしんば近衛府に復帰したとて、籍を置いたまま他所に飛ばされる可能性もある。それが地方官でも文句は言えぬよ」
私を都から遠ざけておきたいと思う者は、まだ官界上層にいるだろうか。あの神託の内容を知り、
奏上の場にいたのは、
「何を深刻な顔をしておる。地方官はやはり憂鬱か」
船守の言葉で考えが中断する。
「いや、実は突然、明基尼の事を思い出した。あの方も何かで女帝の逆鱗に触れて、俺と同じ頃に都を放逐されたのだろう。既に都に戻っておられるのかと、ふと思うたのだよ」
「ああ、そうだったな。確か、御身の姉上と同様に還俗させられ、流罪になったはずだ。その後の消息は聞いておらぬな、俺としては」
「まあ、姉とは親しい間柄だったようだ。姉が知っておるだろう」取って付けたように、さりげなく行って見たが、やはり不自然に聞こえたか。
船守は更に何か聞きたそうな顔をする。しかし、それが私たちの流罪や宇佐八幡神の神託に関わると思ったのだろう。それ以上、触れようとはしなかった。
無位無官のままだが、既に罪人ではないので自由に出歩く事は許されている。しかし、近衛府に顔を出すのは気が引ける。ましてや興味本位で、痛くもない腹を探られるのは御免だ。
こうして家で
子供たちにと唐菓子を土産に持参し、
私がいない間に、藤氏らの知己の口利きで
「ええ、山部親王様が叱咤してくれたおかげで、ようやく各司も動き出したようです。あの方くらいに遠慮のう、物を言うて頂けると快い」
今日の姉は機嫌が良い。
「本当に今までは、上からの命令が来ないから動けないの、他にも色々な雑務が多すぎるの何のと、愚痴ばかりが聞こえて来ましたものね」
噂話となると、室もやはり上機嫌だ。
十三日付の
これまでの政変で、多くの官人が失脚した。政権が変わり、その者らの地位の回復を急げ。命令は出ているものの、職務ははかどらない。その他にも山積している雑多な事柄に押され、手を付けられていないようだ。
今までに名誉回復が行われたのは、上級者と繋がりのあるごく一部に過ぎない。姉はここに含まれ、私は未だ忘れられたくちだ。
「実務に当たる者の職務怠慢を批判する前に、統括すべき立場の無能を改めよ。私としても、耳が痛いのですけれどね」
「内裏や皇后宮は、しっかり仕事をしていますわ。上が怠慢なのは、むしろ宮内省や中務省でしょう。中務卿が変わったのですから、これからはもっと、風通しも良うなりましょう」
「そうなれば、御身も近い内に近衛府に復帰できるはずです」
話がこちらに回って来る。
「まあ、期待しておきますよ」
「何せ、
姉が満面の笑みで言えば、室は笑いながらも肩をすくめる。
ひとしきり後宮関連の話が続き、いささか退屈した頃、室は奥に呼ばれて中座する。それを待っていたかのように、姉は唐突に藤原種継の名前を出す。
「近衛府では同僚です、同じ将監で。こちらに戻ってからも、何度も訪ねて来てくれますよ。姉上とは、面識がありませんでしたか」
「名前は存じています。けれど、御身の友達だと言うて、突然、挨拶をして来たものですから」
あの男が
「その種継様ですけれど、御内室か御母堂が
「いや、いずれも違うはずです。県犬養氏といえば、
「
「勇耳様とは」
県犬養勇耳、どこかで聞いた名前だ。
「明基様の御名前です」
言われて見れば、以前に白壁天皇がその名前を口にした。県犬養勇耳が正式な側室であれば、生まれた子供もややこしい事にはならなかったの何のと。
「勇耳様だけではのうて、御子も探していると言われていました。何故、藤氏の方が勇耳様と御子の消息を知りたいのか、御身、何か心当たりはありませぬか」
「いえ、ありませぬ……その、県犬養勇耳様が明基尼だと、種継は知っているのですか」
「知らない御様子でした。もう十年以上も御会いしていないと言ったら、それを勘繰る事もされませんでしたし」
姉としても何らかの勘が働いて、咄嗟に嘘をついたのだろう。
「あの男ならば知らぬふりをしたとも思えるが、まあ、やはり知らぬのだろうな」
「しかし、藤氏が探しているとなれば、御身も理由に想像がつきましょう」
「種継の立場から考えると、誰かに頼まれたか、命じられたか。例えば伯父の
先の司召で、藤原良継は内臣という位を賜った。大納言よりは上、右大臣の下になる
「内臣だとしても、更に命じた御方がおられましょう」姉はつぶやく。
「つまり、勇耳様の御子の事を知っている御方が……」
「でも、皇后ではありませぬ。御身も思いましょう」
「確かに皇后ではない。皇后が藤氏に、それも式家に頼むとは思えない。勇耳様の消息はともあれ、御子の行方など探す必要はない。むしろ口にするのもはばかられる」
家に籠っていても、井上皇后の藤氏嫌いは聞こえて来る。藤氏で唯一、気を許していた北家左大臣が亡くなり、警戒は更に強くなっている様子だ。
「では、やはり、
勇耳の消息はともかく、天皇が子供の行方を知らないはずがない。
「恐らく、天皇が信頼されている方でしょう。種継に近く、そして御子の消息を知らない御方です。しかし、御子を探す理由は分かりませぬ」
「そうやも知れませぬ。でも少し、奇妙ですわね」
「奇妙とは」
「明基様ではのうて、勇耳様を知っている方がどれほどおられるのでしょう」
言われて見ればそうだ。天皇が即位前に関係した女を今更、云々する方が不自然だ。男子がいる事を知り、何か企んでいるとも考えられるが、それに藤原式家が絡む理由も思いつかない。
「まさかとは思うが、山部親王か」
天皇からの信頼は最も篤く、藤原式家とも懇意すぎる仲だ。年齢から考えても、十数年前に父親が傍に置いていた女を知っていても不自然ではない。
「親王様が御子の事を御存知だと、御身は思うのですか」
「勇耳様に御子がいるのは、知っておられる事になります。現に探しているのですから」
山部親王が一番にあり得る。天皇から命じられたというよりも、親王が自発的に種継に命じた可能性も大きい。しかし、母子を探す理由は分からない。
「気になるのは、
「何の事です」
「ああ、いえ……あの神託を聞き、誰の即位を望んでいるのか、その事を密かに話して下さいました。それが引っかかるのですよ」
「やはり、山部親王様を望まれていたのですか。その事で、先の
先の左大臣も右大臣も、間違いなく皇后の子としての他戸親王を推しただろう。
「親王自身も、望まれている事を知っておられるのやも。とは申せ、その事と勇耳様らを探す事が関係するのか、それも分かりませぬが。恐らく、それ程の時を置かず、親王様は神託の内容を問い質すため、私の所へ来る。そのように思えます」
「答えるのですか、神託を」
「どうしたものやら、その時になってみないと分かりませぬ。まあ、来られないに越した事はありませぬがね。それはそうと、姉上は明基尼の
明基尼の消息は、山部親王や種継以前に、私が知りたい事だ。
「ええ。還俗されて
葛城というと、今は姉の所有となった亡夫の家か。
「それを知っている者は、他にいるのですか」
「天皇と亡うなられた左大臣、先の右大臣と
「配流先には行かなかった訳ですか。賢明な判断でしょうな」
先の女帝や法王が、他戸親王を利用しようと考えていたなら、生母は邪魔になる。やはり誰の思惑でも、他戸親王は井上内親王の子でなければならないだろう。
「このままでは、この先も勇耳様は都に戻れないのでしょうね」姉はつぶやくように言う。
「今度は
私は思わずため息を漏らす。妙な確信だが、中務宮山部親王は、間違いなく私を訪ねて来るだろう。種継では、宇佐八幡神の託宣を質す事は出来まいから。
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