第23話 神護景雲三年八月 大納言宮の告白

 再び、宇佐うさでの事を思い出す。

 あの時の私はといえば、大御神おおみかみから授かった夢に混乱していた。当然ながら、都を発つ間際の弓削ゆげ大納言の言葉など忘れていた。そして帰路に着く前、大宰府だざいふから派遣されている阿曾麻呂あそまろが、見送りと称してやって来た。

 胡散臭すぎる書状を受け取りはしたが、帰還の船を待つ間も開く気にはなれない。何とか中身を検める気になったのは、最初の寄港地でだった。

 殆どの者が下船し、二人の水主かこ甲板こうはん掃除をしているのを遠巻きに眺めつつ、人気のない船尾で書状を開く。よしんば見られたところで、水主らならば字も読めなかろう。

 奏上の形式は整っているものの、何とも身勝手で稚拙ちせつな内容だ。達筆な割には、文章自体はたどたどしく、歯切れが悪い。何度か読み返してみて思う。

 阿曾麻呂という男は、事務屋としてはそこそこ有能かもしれないが、文をしたためる感性に欠ける。溜息混じりに、書状をたたんで懐に押し込む。

 出港した後も、この書状を太政官にでも提出してやろうかと、少しばかり悩んだ。しかし、船が陸から充分に離れたところで、再び書状に目を通し、そのまま二つに引き裂いた。更に幾度か、大祓おおはらえ木綿ゆうや麻を引き裂くように裂く。細かくなった紙は、海風が海上に撒き散らす。波がそれをさらい、瞬く間に遠ざかる。大御神の見せた夢よりも虚ろな記憶だ。

 海風を受けながら、私は一人で笑っていた。遠巻きに水主が一人、不思議そうに見ていたが、やがて納得したように笑ってうなずく。家族や周囲の者には言えない相手から受け取った、後腐れになる文を処分したとでも思っているのだろう。確かに、それで間違いはない。


「このような馬鹿げた企み、私が潰さのうとも、藤氏や紀氏の実力者が、こぞって覆しにかかるとは思いました」

 気を引き締めるつもりで、私は大きく息を吐く。

「だが御身おみは、あえて自ら火の粉を被った」大納言宮だいなごんのみやは微かに笑う。思いの外、柔和な笑みだ。

「愚かしい事を致しました」うなずくついでに目を逸らす。

「何を言われるか。御身の言葉には、大臣おとどや私のみならず、天皇すめらみことも感謝しておられる。浄人きよひとの愚行など、いずれは永手ながてらがなし崩しにしよう。しかし、それまでに起こる弊害も大きかろう」

 再び顔を上げ、大納言宮を見る。端正な目元には、人の良さそうな笑みが浮かぶ。公卿らは、このような表情の下で何を考えるのか。額面通りに捉えるな、都に来てから散々に言われ、覚えた事の一つだ。

「人臣、位を極める程の者にあれば、誰を君として仰ぐべきか、適切に知らねばならぬ。間違った者を仰ごうものならば、共に倒れる事とてあり得る。仰がれる側も、この者であれば信頼に足ると分かろう。あの者らは、それを分かっておるのやら。いずれ、分かる者らに追い落とされよう。しかし、それまでに要らぬ毒を撒き散らす。若い頃より、私が幾つも見て来た、皇家と権門らの内紛だ」

 私ですら、既にいくつか目の当たりにしてきた。皇家に生まれたこの人ならば、更に生々しい様を見せつけられてきたのかもしれない。

「そして我がしつ矜持きょうじが招いた事も、この先、波乱の材料となるであろう」

井上内親王いのえのひめみこ様と他戸王おさべのみこ様の事でしょうか」

「ああ。阿倍様が他戸を皇嗣にと言い出さねば、私もしつに生涯、騙されておるつもりでいられた」

「最初から御存知だったのですか」

 この言い回しでは、夫婦で共謀した訳ではなさそうだ。内親王と明基尼みょうきにが共謀して、夫や家族を騙そうとしたのだろうか。

「室も私が嘘に付き合うている事くらい、最初から承知している。明基尼、県犬養勇耳あがたのいぬかいのいさみが私の正式な側室であれば、案外、支障のう通る話でもあったのやら。この後、阿倍様……女帝みかどが如何されるものか。室と共に嘘をつき通すやも知れぬ。そうなれば、生母や周囲の者らも追いやられる事にもなりかねぬ」

 他戸王が皇嗣の候補である限り、井上内親王を母親と認め、罪を問う訳にも行かない。むしろ、他者を切り捨てた方が手っ取り早いか。こうなれば、明基尼や私の姉もそちらの側に入る。それを知った私も同罪か。更には、弓削浄人の逆恨みも存分に加わる。最悪としか言いようがない。

「だが私は、他戸を日嗣ひつぎに望んではおらぬ」

「望んでおられない」つい、鸚鵡おうむ返しに聞く。

「それがこの先、波風を立て、要らぬ騒ぎを起こすやも知れぬ。私とて人の子、人の親だ。もしも、そくらの何れかを日嗣にと言われれば、推したい者はおる。老人の我儘だ。更に始末に悪い」そして、あからさまな溜息をもらす。

 誰を望むのかとは、さすがに問い返せない。だが、これまでに種継たねつぐ船守ふなもりから、幾度か聞いた事がある。

 その人は生まれた時から、大納言家の嫡男として望まれていた。しかし、生母の身分の低さのために皇嗣にはなれない。

「この後の事はよい。今はただ、御身に侘びを言わねばならぬ。御身にしてみれば、上位者らの勝手で理不尽な目に遭うであろう。私では力及ばぬ事も多い故に済まぬ」

 大納言宮は舎人とねりらを遠目に、うなずく程度に頭を下げる。人目が無ければ本気で低頭するかもしれない。

「だが、永手や真備まきびらも共に、ただ指をくわえて見ておる気はない。必ずや救済する故、暫くの猶予をくれまいか」

「私ごときに詫びられますな。御身様に気をかけて頂くだけでも勿体ない」

 これだけの人に侘びを言われる価値が、私になどあるのか。思うだけで恐れ多く心苦しい。

「神の名を騙るようなやからの卑劣さを、我々とて赦す気はない。今の天皇は、身内と法王の周辺を護るためと、公平な考えを半ば失うておられる。この目を覚まさせ、間違いに気づいて頂く。まつりごとを正しい方向に導く事が、太政官の務めだ。重ねて頼む、今しばしの辛抱をしてくれ」

 今度こそ、大納言は深く頭を下げる。私はといえば、答える事も出来ずに、その場に膝を折って低頭した。

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る