第21話 神護景雲三年八月 宇佐大御神 託宣

 あれはただの夢に過ぎないのか。都を発つ前から、呪女まじないめに龍の争いの何のと言われていたため、あのような夢を見たのか。中衛府の独房で横になったまま考える。

 しかし、当事者であるはずの大納言宮だいなごんのみや法均尼ほうきんにも何も言わず、女帝みかどの反応も良く分からない。これが根も葉もない、荒唐無稽な戯言ざれごとならば、誰かが怒り出しても不思議ではない。むしろ、法王らの前で奏上してやった御告げこそ、それに値する。だから弓削大納言が、青鬼の形相で怒っていたのだろう。


 何日もの海路と陸路を経て、宇佐の八幡宮に到着したのは夜だった。それよりも前に、私が派遣された目的や何かを伝える通知は届いている。おかげでその日は、すぐに用意された宿で休む事が出来た。私程度の者でも、勅使として扱ってくれるのが何やら心苦しい。船守や種継に聞かせれば、五位の位を持つ者が、その様に思うべきではないとでも、たしなめられるかもしれない。

 翌日は朝から、神前に上がる前の準備や、御前での礼儀、伺い事の仕方など、長々と教え聞かされる。一昨日より潔斎のためと、肉も香草の類も口にしていない。その事もしっかりと確認を取られ、この後も託宣を得るまでの間、同様に控えて頂くと言い渡される。


 同日の昼前に、中臣習宣なかとみのすげの阿曾麻呂あそまろという男が訪ねて来た。大宰府で主神かむつかさを務めている者で、しばらく前からこちらに滞在しているという。同年代か少し年上に見える、固太りの小柄な男だ。何年か前までは都にいて、近衛舎人このえとねりだったと言う。私が近衛将監しょうかんだと知ると、更に親しげな態度になり、舎人だった頃の将監は弓削浄人ゆげのきよひとだったとも言う。

 その弓削様が会えと私に指定したのが、この阿曾麻呂だ。かつての上官と部下が結託し、良からぬ事を企んでいるか。嫌な予感が胸中に湧いて来るが、阿曾麻呂はやけに機嫌が良い。


 挨拶だけで阿曾麻呂が帰った後、早めに質素な夕餉ゆうげが供される。肉や強いにおいの食物は禁じられるが、少量の酒が添えられているのは何やら面白い。

 その後、祓いの清めのと慣れない儀礼を受け、拝殿に入ったのは日が傾く頃だった。

 八幡神と比売ひめ神の社に向かい、拝殿に一人籠る。少しばかり瞑目し、雑念を追い払った後、女帝より託された宣命せんみょうを読み上げる。詮索するような文言もない。日嗣ひつぎとすべき子も孫もいない身に、天の認める皇嗣の名を示したまえというのが、大まかな内容だ。

 特に何も起こらない。急いても仕方がない、待つしかあるまい。思う内に眠気が生じる。十日以上も船や馬に揺られて来た。さすがに疲れもたまっていた。

 夢を見ていた。何人かの女と子供が現れたが、それ以上は覚えていない。これでは普段から見る夢と大差ない。

 翌朝にやって来た神職に、託宣らしき事は得ていないと告げる。その後、用意された部屋で朝餉あさげをとり、しばらく休む。行動は制限されていないが、宮から離れず、外の者と無用な接触をするなと言われる。


 二日目の参籠も夢に始まる。この度もはっきりしない夢で、何人かの人物が入れ替わりで現れる。女と尼僧が何人かいた。誰かが赤子を抱いていた。そして、子供を連れた男が何かを話しかけて来た。私は答える事もなく、落ち着かない心持ちで聞いていた。

 そのまま眠りが浅くなって行く。かけられた言葉は、目が覚めるに従い消えて行く。曙光の兆しが見える頃には、ほぼすべてが失われた。話しかけて来た男は知り合いだった。だが、それが誰なのかも覚えていない。

 そして神職には、何かの御告げらしき夢は見たが、詳細は殆ど憶えていないと正直に話す。神職は、まだ心の準備が整っていないのでしょうと、穏やかに諭してくれる。


 三日目は朝から天気が優れない。神域のもりを少し歩き回ったが、昼過ぎには小雨が降り出して引き上げる。夕餉が運ばれて来た時には、雨は上がっていたが、参籠の時刻には少し肌寒くなってきた。

 それでも神前に侍ると、じきに眠気がやって来た。

 赤子を抱く若い女と、母親くらいの年回りの女が少し離れて立っている。若い女は年嵩としかさの女に歩み寄り、赤子を手渡すと深々と頭を下げる。二人の様子を見るに、母娘ではなく主従関係だろうか。主は誰か高官の内室で赤子の祖母、若い方は乳母めのとといったところか。二人とも顔がはっきりと見えない。

 尼僧が二人、女たちから離れた位置に立つ。一人は女たちの様子を眺め、いま一人は別の方向を見ている。こちらも顔が見えないが、女たちを眺める背の高い方は姉だと確信する。姉には多くの養子がいるが、あの赤子は関わりがない、それも何故か分かる。

 子供を抱いた年上の女は、背を向けて歩み去る。若い女は、おもむろに尼僧らへと歩み寄る。あらぬ方を見ていた尼僧が振り向く。こちらに歩いて来る若い女も、いつの間にか尼僧の姿になっている。乳母をやめて落飾したのだろうか。その姿を見知っているように思えたが、どこの誰なのかまでは思い当たらない。

 更に一人、女や赤子らを遠巻きに眺める者がいる。背の高い人影は、間違いなく男だ。

「子供たちはいずれも人を喰らう龍だ」聞き覚えのある低い声が言う。

「人を喰らう龍……」私は自らの声に目を覚ます。

 抱えるようにもたれていた脇息きょうそくから、身を起こす。夜が明けるまで、まだ時間はあるだろう。しかし、もう一度眠り直したところで、夢の続きを見る事は適うまい。


 四日目。やはり、赤子と主従らしき二人の女に続き、尼僧が二人現れる。

 やり取りを見ていたのは、姉の法均尼ほうきんにで間違いない。尼僧姿になって歩いて来るのは、姉の同僚の明基尼みょうきにに違いない。かつての主の元で、何かがあって出家したという事か。

 振り返った三人目の尼僧の顔が見える。法均尼と明基尼にとっては新たな主だ。二人は並んで、その小柄な尼僧に頭を下げる。

 武官として仕える私は、その顔を遠目では何度も見ている。しかし近くにまみえる時は、ほぼ御簾みす越しだった。

 尼僧姿の阿倍女帝あべのみかどは、近習となった二人の女に作ったような笑顔を向ける。先程まで別の方向を見ていた女帝は、明基尼の出家の経緯を知らない。遠目に見ていた法均尼は承知している。

 三人の尼僧を遠巻きに見る女がいる。明基尼の元の主だが、今は赤子を抱いていない。女達に私の姿は見えていないようだ。誰一人として、こちらを見る事はない。

 更に人の気配を感じて私は振り向く。二人の子供を連れた背の高い男が、こちらを見ている。髪型や服装を見るに、子供たちはどちらも男の子だ。

「子供たちはいずれも人を喰らう龍だ」低い声が言う。

 その言葉に女達も注目する。大納言宮様と、私は呼びかけるが声にならない。

「息子たちよ、いましらは人を喰らう龍として生まれた」二人の子供に向かい語り掛ける。

 子供たちの顔は見えない。背格好からして、いずれも十歳前後だろうか。

「兄である汝は、万の民を喰らいて北の天に昇る。弟である汝は、百の皇子みこを喰らいて南の地に伏す。もしも位を望むのなら、その様な道を歩む事になろう。汝らにその覚悟はあるのか」

 子供たちは答える事も出来ず、互いに顔を見合わせる。

「汝らは産みの子に、それを背負わせる覚悟はあるのか」注視する女たちに向けて言う。

 三人の尼僧と高貴な女に加え、更にもう一人の人影がある。二人の貴女が大納言宮の内室で、子供たちの母親なのだろう。

 ところが、そこからまた夢は曖昧になる。女たちは何かを答えた。母親たちに加え、更に成人の男子がいた。それが誰なのかを覚えていない。分かっているのは、その男が、私にとっても最も重要な人物だという事だ。

 曙光が射す頃には、完全に目覚めていた。様子を伺う神職に、肝心なところが分からないと正直に言う。それはまだ、私自身の受け取る用意が、出来ていないからかもしれないと言われた。もっともな事だと、妙に納得した。


 五日目、二人の女と赤子から始まり、同じ内容が繰り返される。

「汝らは産みの子に、それを背負わせる覚悟はあるのか」大納言宮の低い声が響く。

 二人並ぶ女の一人がおもむろに進み出ると、片方の子供に寄り添う。既に子供ではない。父親と同じくらいに背が高く、浅紫色の朝服ちょうふくをまとう一人前の男に変じている。

「私は我が子を信じ、その意志に従う所存にございます」母親はしっかりとした口調で穏やかに言う。

 我が子と呼ばれたその人とは、何度も会った事があり言葉も交わしている。やや童顔にも見える女顔だが、侮りがたい猛禽もうきんのような眼差しがこちらに向く。大学宮だいがくのみや山部王やまべのみこは、少しばかり目を細めて笑みを見せる。

 恐らくこの人は、龍と呼ばれる事に誇りすら思っている。

「我が子にその様な道を歩かせとうはありませぬ……」

 ひざまずいて子供を抱き寄せた女は、もう一人の貴女ではない。最初に赤子を抱いていた若い女だ。つまり出家前の明基尼が、もう一人の子供の母親という事か。

 黒目勝ちで色白の少年は、泣いている女を不思議そうに見下ろす。白壁王にも山部王にも似た顔立ちだが、それ以上に明基尼にそっくりだ。

 この少年は白壁王の息子で、山部王の異母弟という事になる。しかし、出家前の明基尼が白壁王の内室だったとは、誰からも聞いた覚えはない。更には少年自身が、母親であるはずの女を知らないような、戸惑いすら見せている。

「産みの母は否定をする。では、育ての母は如何するか」新たな問いかけがある。

「その子は間違いのう、御身様おみさまの御子です」凛とした声で答えたのは、少し離れて立つ貴女だった。

 少年は貴女の元に歩み寄り、傍らに立つ。残された若い女は、再び尼僧姿に戻っている。赤子の時に育ての母の元に行った少年は、産みの母親の存在を知らない。

「息子たちはいずれも、人を喰らう龍だ。それでも構わぬのか。御身は兄と弟のいずれかに、その様な道を選ばせる覚悟を持てるのか」更なる問いは、尼僧姿の阿倍女帝へと向けられる。

 女帝は何も答えない。問いかけているのは、もはや白壁王ではない。それが分かっている人々は、視線を女帝へと向ける。しかし、誰も口を開かない。


 秋の半ばともなれば、夜が明けるのは遅い。神前に燈した火はとうに燃え尽き、暗闇の中で私は座り続ける。眠気も覚めたのを幸い、先程の夢の内容を改めて考える。時間はまだ十分にあるはずだ。


 女帝は他戸王おさべのみこを皇嗣にと考えた。しかしある時から、みこが白壁王の正妃の子ではないと疑い始めた。白壁王は最初から知っていたのだろう。法均尼に至っては、明基尼が子供を妃に託した事も知っていたに違いない。

 いずれにしても、正妃井上内親王いのえのひめみこに仕えていた侍女に手が付き、男子が生まれた。それが男子のいない内親王には、大いに幸いした。もしかしたら、男子に恵まれなかった妃のため、白壁王が図って他の女に子供を産ませた可能性もある。

 山部王が共に現れたのは何故だ。この人自身、密かに皇位を望んでいるのか。身分の低い母親を持つゆえに、望んでも許されない事だと納得しているのではないのか。そして周囲も、他戸王を支える役割を期待する。

 では、皇嗣に関わる誰かが望んでいるのか。父親の白壁王か、いや、むしろ阿倍女帝ではあるまいか。他戸王が井上内親王の子ではないと知り、やはり身分の高くない母親が実母だとしたなら、立場は山部王と変わらない。才覚が未知数の他戸王に比べ、皇族官人としての頭角を現す山部王に期待をかけても不思議はあるまい。

 女帝は二人の何れが皇嗣に相応しいのか、更にふさわしい者がいるのか、それを宇佐大御神に問いかけた。大御神は白壁王の姿を借りて現れ、二人の皇子の母親と女帝に問いかける。位を望む者には、決して安穏ではない運命が待っている。民を喰らい、同族を喰らい、恐れられる存在となろう。成人した兄王は覚悟も野望も持っている。しかし、年端も行かない弟王は選ばれる事の意味も分からずに、育ての母親の庇護を信じている。

 私があれこれと推測をしても何もならない。見た通りの事を御前で報告し、女帝の判断にゆだねるしかあるまい。


 

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